第36話

 笹井が話をつけてくれたのは家畜衛生保健所でも大学でもなく、県の食肉衛生検査所だった。所長が妻の兄らしい。それなりに気を使う関係だが、文句はない。食肉衛生検査所は県中部の山麓、居住地の東部からは車で片道一時間ほどの距離だった。

 所長は気さくな人で、個人的な検査をねじこむ申し訳なさを笑顔で労ってくれた。近年のジビエブームに伴い、県内でも感染症の報告が相次いでいるらしい。E型肝炎ウイルスにしろトキソプラズマにしろ多くは加熱不足が原因であると、注意喚起の講義を受けて帰宅した。

 検査結果の報告は来週半ばが目安だ。仕事を増やして申し訳ないが、受け入れてもらえたことには感謝しかない。

 『無事受け取っていただけました。お力添えをいただき、ありがとうございました。何かお手伝いできることがあれば、いつでも呼んでください』

 『気にするな。上に立ったら、同じように力を貸してやれ』

 今はとてもそんな日が来るとは思えないが、それが望まれる恩返しなのだろう。上の世代から下の世代へ、恩が繋がれば良い連鎖が起きる。私もいつか同じ台詞が言えるように、鍛えなければならない。仕事にせよ何にせよ、目標とすべき人がいてくれるのはありがたいことだ。


「先生が、君の呪いが威力を増してるって。早い方がいいって言ってたから、日曜日で頼んでおいたよ」

 吉継が、事実を掴みつつあるこちらには滑稽にしか思えない主張を口にする。寺本は、完全に油断しているのだろう。

 苦笑で携帯をエプロンのポケットへ突っ込み、料理の続きに取り掛かる。コンロの火を点け、フライパンを軽く揺すった。今日は猪肉のボロネーゼだ。あの鹿肉はひとまとめにして袋に入れ、冷凍庫の底の方へ移した。それでもまだ困らないほど在庫はある。害獣駆除とはいえ、狩り過ぎなのだ。

「もし水をかぶらせたりするような儀式なら、せめて抜糸してからがいいんだけど」

「そんなこと言ってる場合? これだけ人が死んで、家族まで死んでるのに」

 戸棚からフィットチーネを取り出しつつ、吉継は責めるような口を利く。この前まで私が「三人も死んでいる」と言っていたのを忘れたのだろうか。思わず言い返したくなる衝動を抑え、深呼吸を一つする。今はまだだめだ。立ちのぼる香ばしい匂いに癒やされ、炒めておいた野菜を合わせた。

「今は、現実的な可能性を一つずつ消してるの。さすがにもう、呪い説を完全否定するつもりはないよ。でも、呪いの可能性が最後なのは変わらない」

 膨れ上がる感情は怒りか悲しみか、一番傍にいる人間と寄り添えない痛みに唇を噛む。解決したい思いは同じなのに、選択肢が違うだけでこれほど孤独になるのか。

「先生が、祈は三次元の人間だから肉体に囚われて、目に見えるものでしか物事を判断できないって言ってたよ」

 隣でフィットチーネを量り始める手に、抑えようとしても苛立ちが募る。三次元に生きているのだから、三次元の人間なのは当たり前だろう。

「じゃあ、吉継や先生は何次元の人間なの?」

「僕の意識は五次元に上がってるって。先生の意識はハイヤーセルフと統合したからもっと高次だよ。八次元だったかな」

 四次元ならまだ理解できるが、それ以上なんて本当に理解しているのだろうか。弱火にしてトマト缶を開け、フライパンへ流し込む。鉄の肌がじゅわりと音を立てる。すっぱい香りが漂った。

「それ、分かって言ってる? 五次元や八次元なんて、理系の人間として許せるの?」

「祈には分からないと思うけど、実験してると時々『人間の領域を離れる瞬間』に出合ってた。人知を超えたものは確かにあるんだよ。だから、先生の言ってることもそれだと分かるんだ」

 トマトを突き崩しながら尋ねた私に、吉継は笑いつつ返す。なぜか、肌がぞわりと粟立った。さりげなく一歩、距離を置く。

「でも別に、祈が悪いわけじゃないよ。三次元には三次元の幸せがあるし、今生ではそれを味わうために選んで生まれてきた魂なんだ。僕達に反対するのも僕達が憎くてではなくて、試練を与える役目があるからなんだよ」

「妻だからだよ。どうでもいい赤の他人なら、ここまで言わない。どうしてもあの人と離れたくないなら仕方ないけど、もうほかの人は誘わないで」

 せめて実害を家庭内だけに留めたい。BRPが直接的な原因ではなかったとはいえ、ただのCDをまるでサブリミナル効果があるように偽って売りつけたり、施術に利用したりしていたのは確かだ。松前の「金を巻き上げる」話は証明できなくても、詐欺行為は立証できる。

「彼らが死んだのは祈のせいだ。先生のせいじゃない。どうして人のせいにするの?」

「まだ呪いだと決まってないのに、私のせいにすることにはなんの抵抗もないんだね」

 言い返すと、吉継は黙る。無言のまま銅鍋に水を注ぎ、隣で火に掛けた。

 ここまで蔑ろにされて、妻をする意味がないのは分かっている。杼機の嫁として死ぬまで生きていくより、手放して自由に生きた方がよほど楽だ。積まれた金を受け取った両親も、もういない。幸い、今の仕事は女が一人で生きていくのにも適している。迷う理由はないはずだ。もし友達が似たような状況で悩んでいたら、迷わず離婚を勧めるだろう。自分のことになると、これほど決断できないものなのか。

 どうしても「寺本と縁が切れれば」と思ってしまう。でも実際は寺本と縁が切れたところで、第二第三の寺本が出てくるだけだろう。夢の挫折に寄り添えなかった私を、吉継は許していないのだ。

 頭を冷やすように、数度深呼吸を繰り返す。今必要なのは、責め合いではない。

「今更だけど、大学を辞める時に賛成できなくてごめんね。子供の頃から何度も夢の話を聞いてたから、諦めたら吉継が大事なものを失くしてしまう気がして」

「反対したの、祈だけだったよ。一番、理解して欲しかったのに」

 今更の話題だったが、吉継は惑うことなく答える。まだそれだけ蟠りが残っているのだろう。一番理解して欲しい相手に理解してもらえない痛みやもどかしさは、私も今思い知っている。

「何度相談しても、祈は『辞めてもいいよ』って絶対に言わなかった。どうにかして続けさせることしか考えてなかった。辞めた時、心底がっかりした顔してたもんね」

 私が隠せなかった落胆に、吉継は傷ついたのだろう。ふつふつと煮えるソースを混ぜながら、過去の失敗を後悔する。あの時もっと、と思うが過ぎたことはどうしようもない。

「吉継が夢を叶える姿に執着してたんだと思う。私は、ほかの人じゃなくて吉継が『鳥みたいに飛べる道具』を実現させるのが見たかったから」

「僕だって、できることならしたかったよ。でも」

 吉継は溜め息をつき、少し間を置く。溝を挟んででも、少しでも歩み寄れるならその方がいい。最悪の結末を避けられなくても、まだできることはあるはずだ。

「昔は、あの時山で迷うまでは、祈は優しかったよ。僕が何かしても、笑顔でいつも傍にいてくれた。明るくてちょっと抜けてて、そこにいるだけで花が咲くみたいな子だった。あのまま育ってたら多分、すぐ『やめてもいいよ』って言ってくれてたよね」

 ほかの女性と比べられるのもいやだが、過去の自分と比べられても困る。それに、あのままの性格で育てば今とは違う苦労があったはずだ。仕事はできないし、夫にすぐ仕事を辞めていいと言ってしまうほど考えも浅はかだろう。いきあたりばったりで失敗を繰り返し、学習せず、笑えば済むと思っている。吉継は、そんな女の方が良かったのか。

「祈が変わっちゃったのは、僕のせいだからね。責任を、取らないと」

 思わぬ言葉に、隣を見上げた。

――祈がこうなったのは僕のせいなんです! どうか、祈を助けてください!

 それを知ったのも、つい最近だった。吉継は「責任を取る」ために、結婚したのか。でもこれを聞けば、終わってしまう。ヘラを握り直す手に、力がこもった。

「ごめん、あと任せるよ」

 吉継は暗い声で離脱を伝え、私を見ないままキッチンを離れる。聞くまでもなく肯定されてしまった問いに視線を落とし、唇を噛んだ。

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