第26話

 吉継はぼたん鍋の準備を抜かりなく整えていただけでなく、鴨肉の炭火焼きや兎肉のワイン煮も準備していた。酒は矢上の望んだ辛口の日本酒で、絵美子と和徳のためにはアップルサイダー。おいしい、と喜んだ絵美子にお持たせを約束していた。

 歓談の一時はつつがなく進んでいったが、予想外だったのは吉継と和徳の相性だ。和徳が我が家のアンプを見るなり零した「すげえ」を、吉継は聞き逃さなかった。

「和徳くん、音響沼の住人だったんですね」

「俺らにはさっぱり分かんねえけどな」

 熱心に語り合う二人を眺めつつ、すっかり出来上がった赤い顔の矢上が猪口を傾ける。

「この前も掃除しようと思ってスピーカーを動かしたら、小銭があったのよ。だらしないなあって片付けたら『なんで取るんだよ、音が悪くなるだろ』って」

 インシュレーターか。吉継も高校の頃は十円玉や百円玉を敷いて、気のせいにしか思えない音の違いに満足していた。

「まぎらわしいことすんなって、そこから喧々諤々よ。まーほんと、こだわりが強くて面倒くさいの」

 絵美子はぼたん鍋とワイン煮を交互につつきつつ、アップルサイダーを傾ける。一人でもう一本以上空けているから、社交辞令ではなく本当に気に入ってくれたのだろう。

「でも、将来楽しみですね。矢上さんみたいな聡明なタイプになるのかな」

「『聡明』って、この人があ?」

 突然のだみ声に驚いて、とんすいから弾かれたように顔を上げる。

「家では『おい』『メシ』『風呂』で、休みの日も寝転がってて邪魔なの。和徳ができてつわりで苦しんでた時も帰って来なかったし、切迫早産で入院したのに見舞いに来ないし、産まれた日もやっと来たと思ったら私のベッドで寝てるし、熱出しても帰ってこないし」

 絵美子は堰を切ったように矢上への愚痴を吐く。少なくとも十六年ものの、半ば恨み節だ。多分その頃、矢上は財政課にいたのだろう。おそらく和徳は十月から翌年一月までの生まれのはずだ。出産経験のある友達が口を揃えて言う「妊娠出産でできたしこりは死ぬまで残る」事例の一つに出合ってしまった。

「それは、大変でしたね。心細くて」

「ほんっと産まれたあとも役に立たないから、もう二度と産むかって。それでウチ、一人なのよ」

 確かに、財政課の夫に十分な育児協力は望めないだろう。とはいえそれは職場結婚でもない限り理解できない事情だ。

「そうなんですか。それでも毎日あんなおいしそうなお弁当を作ってらっしゃるのは、愛情ですよね。私は料理はともかく、あのサイズの中で栄養や彩りを考えなきゃいけない弁当は作るのが苦手で。いつもすごいなあと思って見てます」

「やっだあ、あんなの息子のついでよー?」

 扇ぐように手を振りつつ答えたが、機嫌は戻ったらしい。絵美子は満足した様子でトイレに立った。

「さすがの調整力だな」

「愛妻弁当のおかげですよ。奥さんにもっと感謝してください。子育てに関われなかった事情は痛いほど理解できますが」

 私も人事課にいた頃は、繁忙期に会えなくて吉継に浮気を疑われたことがある。あの時は私も余裕がなく「浮気する暇があるなら寝る」と凄んで収めた。かわいげの欠片もなかったのは分かっているが、本当に余裕がなかったのだ。

 苦笑しつつ猪口を空け、火の消えたぼたん鍋からくったりとした具材を掬う。ヘッドフォン見る?、はい、と交わして席を立った音響沼の二人を見送り、腰を下ろした。

「多分、高額お持たせがあると思いますけど、遠慮しないでもらってくださいね。新しいのが出るとすぐに買うので、持って帰ってもらった方が助かるんです」

「いろいろありがとな。お前のおかげでいい家族サービスさせてもらえたわ。最近、近所がごたついて嫁が苛ついててな」

「そうなんですか」

 空いた矢上の猪口に酒を注ぎ、自分の猪口も満たす。吉継が取り寄せた日本酒は辛口でキレの良い、予想どおりの極上品だった。もてなす方なのに、思わず同じように飲んでしまう。

「婦人会で、掴み合いの大げんかがあったらしくてな。一人がけんか相手の家に火をつけようとしたんだよ」

 猪口を持ち上げる指先が、思わず止まる。火。一瞬、あの幻覚が脳裏を掠めた。

「大丈夫、だったんですよね?」

「ああ。灯油缶掴んで歩く姿を不審に思った人があとつけてって、撒きそうになったとこで止めたらしい」

 良かった、と安堵した口に酒を滑らせる。

「ただ警察沙汰にしねえって内密に示談にしたはずが、相手が通報してな。そのせいで警察が入って聞き回ってて、近所中がナーバスになってんだよ」

 溜め息交じりに零して、矢上は猪肉をつまんだ。矢上のところも、沢瀉町並みに閉塞感溢れる田舎町だ。和を乱された反動はそれなりに出るだろう。

「集まりで酒飲んだ勢いで袋叩き、とかありうるからな」

「海も山も、似たようなもんですね。うちの町も猟銃所持者が多いので怖いですよ」

 矢上の箸が伸びた最後の炭火焼きに、腰を上げる。

「そろそろお酒、切り替えますか。つまみはスモークチーズと鹿肉の燻製辺りですけど、何飲みます? 大抵のものはありますよ」

「スコッチあるか」

「あります」

 テーブルの上を軽く片付けてキッチンへ向かう。そういえば絵美子がまだ帰ってこないが、大丈夫だろうか。廊下のドアを一瞥したあと、シンクに皿を置いて戸棚を開けた。

「お前、旦那とはいつから付き合ってたんだ」

「高校に入ってからですね。中学の頃から義母に『嫌いじゃないなら付き合ってみない?』と言われてはいたんですけど。身元の分からない子とくっつかれる前にって思ったんでしょうね。うちの家とは数百年来の付き合いですから」

 スコッチウイスキーを取り出したあと、つまみの支度に取り掛かる。冷蔵庫からいくつか真空パックを取り出し、まずスモークチーズの封を開ける。ふわりとチップを燻した心地よい香りが漂った。

「本人同士の意志確認なしかよ」

「いえ、付き合う前にはちゃんと告白してもらいましたよ。予定調和でしたけど。まあ、お互いに『悪くはない』と思ってたってことです。一緒にいても苦にならない相手でしたから」

「なんの話ー?」

 戻ってきた絵美子はテーブルではなくキッチンへ入り、手伝うよ、と言った。

「夫といつから付き合い始めたか、についてです。幼なじみなので、中学の頃から向こうのお義母さんに勧められてて」

「やっぱり、いい家ってそうやって唾つけてるんだね。あとで好きになっても、敵わないじゃん」

 よそは分からないが、杼機は代々町の中で相手を見つけて結婚するのが決まりだ。町の中に親戚を増やすことで、「反乱」を起こしにくくする。うまい治め方だ。

「何すればいい?」

「じゃあ、この燻製を切ってください」

 真空パックを開き、鹿肉のブロックを取り出す。漂う香りを絵美子は深く吸い込んだ。

「いい匂い。これ手作り?」

 別のまな板とナイフを取り出し、絵美子の前に置く。絵美子は早速手にとって、ブロックへ刃を入れた。

「はい。夫が趣味で作るんです。気に入られたら、たくさんあるので持って帰ってください。鴨肉のものもありますし」

「手まめな旦那さんで羨ましいわ。家事もしてくれるの?」

「はい。休日は私がしますけど、平日は夫が在宅なので」

 スモークチーズを切りつつ、薄氷を踏む会話を進める。やっぱり、新しい友達はそう簡単にできるものではないのだろう。昔はどうやって友達になっていたのか、明確な儀式もないのに繋がっていた。

「いいわよね。お金もあってこんないいとこに住んで理解のある優しいご主人がいて、好きなことができて」

「そうですね。夫には感謝しています。でも離れていった人も多いですし、私のことを『杼機の嫁』としてしか見ない人もたくさんいます。矢上さんは私の仕事を見て評価してくださるので、本当に救われてますよ」

 それでも別に、絵美子の反応が特殊なわけではない。よくある、本当によくある反応だ。分かっていても目の前にいたら苛ついて、皮肉の一つも言いたくなるのだろう。

――祈ちゃん、私達の役割は「ガス抜き」よ。深刻に受け止めず、受け流せばいいの。そうじゃないと身が持たないから。

 微笑で告げた義母の台詞が、今は身に沁みる。義母も、町の娘達の中から見初められた「普通の家の娘」だ。結婚以来ずっとあの町に、杼機の屋敷にいる。明将の妻は教員だったが、結婚と同時に退職して屋敷へ入った。長男に嫁いだ彼女達に比べれば、私の気苦労など比ではないだろう。でも三人ともきっと、同じような思いを抱えているような気がする。私達はみな、杼機にとって都合がいいから選ばれた妻達だ。明日私達が死んだところでこの夫達は、困りはしても悲しまないような気がする。染みついた傲慢さがこの先、拭われることはあるのだろうか。

「じゃあ、交換しない?」

 突然の不穏な提案に、驚いて顔を上げる。その先にもっと不穏な光景を見て、固まった。朝岡の時と同じだ。絵美子の背中に張りついた黒い影が、残酷な手でその胸を貫いている。鋭い爪の先から滴った血が、まな板と鹿肉の上に落ちた。

 でも。でも絵美子は、BRPどころかCDすら聞いていないはずだ。

「絵美子さん、落ち着いてください」

「あの人は私のことが好きなのに、あんたがしがみついているから結婚できないの!」

 絵美子は叫ぶようにぶつけて、ナイフを向ける。銀色の切っ先が鋭く光った。我が家の刃物は、いつも吉継が念入りに研いでいる。よく切れるし、ぶっ刺さるだろう。

「絵美子! 何やってんだ、やめろ」

 声に驚いた矢上がキッチンへ駆けつけ、刃物に慌てる。しかしそれが一層気に障ったらしく、うるさい、とまた叫ぶように言った。

 影は相変わらず背中に張りついて、胸を貫いた手を招くように動かす。いのりぃ、とあの掠れた声が私を呼んだ。

「そうですか。あの人は絵美子さんのことが好きなのに、私がいるから結婚できないんですね」

 鬼の形相でナイフを突きつける絵美子に、噴き出す汗を拭いつつ答える。

 朝岡の時は幻覚だと否定して、最悪の結末を迎えた。今回はどうにかして、防がなければ。化け物の爪から滴る血が、床に拡がっていく。

「私が失礼をしてしまったんですね。それなら謝りたいですし、ちゃんと絵美子さんの話が聞きたいので、ひとまずナイフを置いてくれませんか。それがあると、怖くて話せないので」

 様子を窺う矢上を視線で制止する。今は多分、介入しない方がいいだろう。

「私はこのとおり何も持っていませんし、絵美子さんに危害を加えるつもりは全くありません」

 両手を挙げ、目を見てゆっくりと話す。絵美子はじっと私を見据えたあと、ナイフを置こうとした。

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