第7話

 突然鳴り響いた音に、跳ね起きる。明るい枕元で黒電話の音を鳴らす携帯を引っ掴んで、溜め息をついた。もしもし、と掠れた声で応えつつ、額に滲んだ汗を拭う。久し振りに、いやな夢を見た。早鐘を打つ胸はどちらのせいか、まだ落ち着きそうにない。

「ごめん、寝てた?」

 聞こえた吉継の声は気怠げで、酒を飲んでいるのが分かる。確かめた時刻は午前二時、元々起きている時間ではない。

「うん。飲んでるの?」

「ちょっとね」

 もたつく声のあと、溜め息が聞こえる。通夜で棺の中に眠る岸川を見ていろいろ考えたら、眠れなくなってしまったのだろう。

「奥さんに、僕のせいだって言われたんだ。僕のところに通うようになってから、おかしくなったって」

 予想外の展開に、眠気が覚める。冷えていく体にガウンを羽織り、首を湿らす汗を拭った。

「この前帰ってきてから『俺はレーサーだ、試合に出るんだ』って言い出して、昔の知り合いに連絡を取ってたらしい。夜になると、走りに出掛けるようになったって」

 何年前にレースから引退したのかは知らないが、以降は粛々と働き家族を養っていた人だ。投資セミナーに足を運ぶくらいだから資産に何かしらの不安はあったにしても、妻にしてみればこんな結果は想定外だろう。まさか再燃した夢に安定した生活を覆されるとは思っていなかったはずだ。

「でも、それの何が悪いの? 岸川さんは僕に出会って、本当の夢を思い出したってことでしょ。レーススクールなんて、劣化した夢じゃなくてさ。騙し騙しで諦めながら生きる人生より、よっぽど素晴らしいじゃないか」

 言いたいことは分かるが、無責任に夢を煽って良いわけがない。赤の他人ならまだしも、教えを請うために来ていた生徒だ。「お金が足りないなら出しますよ」くらい言ってそうだが、問題はそこではない。

「確かにそうかもしれないけど、そこで直進していいのは守るべきものが何もない人だけだよ。岸川さんには、養わなきゃいけない家族がいたでしょ。夢に向かって進むなら先に離婚するとか、筋を通してからすべきだったんじゃないかな。何度も言ってるけど、普通の家庭は滞りなく生活するだけで精一杯のお金しかないの。子供がいれば、子供のために時間を使わなきゃいけないし。その両方を個人の夢に注ぎ込まれたら、家庭は破綻する」

「そういうことじゃないんだよなあ」

 嘲笑を含んだ返答は、ほぼ予想どおりだ。以前は苛立ち落胆したこともあったが、今はそんなこともない。すぐには分からなくても、淡々と伝え続ければいつか響く日がくるかもしれない。

「家族と一緒にがんばって家族みんなで苦労しつつ夢を叶えるからこそ、新しい価値が生まれるんじゃないか。彼の夢を家族の夢にするんだよ。お父さんがレーサーなんて、最高だよ」

「家族が理解して、賛成してくれるならね。でも岸川さんの家族はそうじゃなかった。だから、吉継が責められたの」

 暴走したのは岸川自身の選択だとしても、深く関わったのは間違いない。一人の命が喪われてしまったのだ。必要なのは、言い訳ではない。

「生活費が必要なら、三億くらいあげたのに」

「贈与税五十五パーセントだよ。半分以上持っていかれるし、あげればいいってもんじゃない。『ないならあげる』で解決するほど、簡単なことじゃないの」

 それも、いつも言ってきたことだ。お金で解決できる問題は確かに存在するが、解決できない問題や、よりややこしくなる問題も存在する。

「相変わらず、祈は考え方がネガティブだよね。お金はただの道具だよ。貧しい人全員に配るのは無理だけど、知り合った人が貧しくて困ってるなら、多めに持ってる自分の道具を分け与えるのは当然のことでしょ。どうせ僕だけが持ってたって、使い切れるわけないんだしさ。五十五パーセント持っていかれるなら、その分上乗せしてあげればいいだけの話じゃない」

 実際、杼機はそうやって多くの私財を投じ労働の機会を与え、町を発展させて繁栄してきた一族だ。うちの曾祖母も、戦時中は杼機の家が恵んでくれた米と味噌で生き延びたと最後まで手を合わせ続けていた。私はその救いがなければ産まれていなかっただろう。

 吉継の考え方は、いわば血に流れる杼機の信念だ。立派だし尊敬しているし、否定すべきものでないのは分かっている。

「もし悪意でむしり取られるとしても、それはそれでいいんじゃないかな。岸川さんの家族が幸せになるのは確かだし、どうせ指一本で運良く増えた金だしね。大丈夫だよ」

 悪意も許すその考え方も大好きだが、私が心配しているのはむしり取られることではない。「岸川さんの家族が幸せになるのは確か」だと思っている点だ。分不相応な大金が人生を狂わせる話ならいくらでも転がっているのに、吉継はそんなことだけは頑なに都市伝説にしようとする。

「とにかく、今日はもう寝て。もう奥さんには何も言わないで、お葬式に出て手を合わせて帰ってきて」

「うん、そうする。ごめんね、夜に一人にして」

「大丈夫。部屋中の電気点けて寝てるから」

 あの夢は作られたものではない、過去の記憶の再生だ。幼い頃に山で迷って以来、暗闇に一人でいられなくなってしまった。暗闇になると今も、私を取り囲んで回る何かの足音が聞こえるような気がしてしまう。

 おやすみ、と挨拶を交わして通話を終える。温もった携帯を置いて、一息ついた。あんな話を聞いたせいで、目が冴えてしまった。

 ベッドを下り、キッチンへ向かう。不意に足元を冷たい風が撫でて、振り向いた。カーテンが揺れている。やっぱり、開いていたのだろう。一度目は怯えるが、二度目になれば道理を優先する。窓際へ向かい、カーテンを引いた。

 開いてない。

 ぞわりと背を這い上がる悪寒に、震える息を吐く。銀色のサッシはきちんと隅まで収まって、鍵も下りていた。慌ててカーテンを閉め、窓を背にする。また早鐘を打ち始めた胸に、荒い息を吐く。大丈夫、気のせいだ。ここには恐ろしいことなんて、何も。

「あ……けてぇ……」

 背後から微かに聞こえた声に、凍る。続いて爪で窓を叩くような、小さな音が続いた。

 どうして、こんなところに。少し掠れた声には聞き覚えがある。さっき夢の中で聞いたばかりの、あの声だ。

「いのりぃ」

 息を潜めて離れようとした時、苦しげな声が私を呼ぶ。逃げたいのに、絡め取られたように体が動かない。震え始めた体を抱きつつ、しゃがみこむ。耳を塞ぎ、できる限り小さくなる。目を瞑ると拡がる暗がりが急に怖くなって、慌てて目を開いた。

 あんな夢を見たから引き寄せてしまったのだろうか。恐怖が過ぎ去るのをひたすら祈ることしかできない。ふと視界に影が落ち、少し視線を上げる。カラスのように枝分かれした細い足は、尖った爪まで黒かった。昔は声だけで、姿を見ていない。

 助けて。神様、助けて。

 目を固く瞑り、胸の内で救いを求める。こんなものがいるのなら、神だっているはずだ。あの時も必死に母を求めた私を助けてくれたのは、白い光だった。

 不意に、目の裏に白い光がぼわりと浮かび上がる。しかし縋りつくように求めた瞬間、光は何かを形作る前に脆くも崩れ落ちた。

「いのりぃぃぃ」

 耳を塞いでも聞こえる声に、汗で湿った手のひらが滑る。肩に感じた重みで、何かが触れたのが分かった。鋭い爪が少しずつ食い込み、肌に沈む。歯を食いしばり、痛みに耐える。しゃがみこんでいるのに、冷や汗と共に血が引いていく。眠気とは違うものに意識が吸い込まれて、揺らぐ。だめだ、消えてはいけない。消えてはいけないのに。

 耳を塞いでいた手から力が抜けて、滑り落ちる。

「いの、りぃぃ……」

 鮮明になった掠れ声が少しずつ小さく、沼に飲まれるように消えていった。

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