五線譜

コップのウーロン茶を持って防音室に戻ると、さっきまで武君がいたピアノの前には父が座っていた。

武君は、その横の小さな机に向かっている。

小さな椅子に座って小さな机に向かっている大きな武君は、まるでサーカスの自転車に乗っているクマのようで愛嬌がある。


机の上には、五線譜のノートと鉛筆。


これから、父が教えるソルフェージュのレッスンがある。

ソルフェージュと言うのは、ピアノの音を聴いて五線譜に書き写す訓練のこと。まったくの初心者の武君は、ピアノよりもこっちに苦戦していた。


「お茶、どうぞ」

「あ。ありがとうございます」

「ねえ、武君。そんな、ひろみにまで畏まって。二人でいる時はそんなんじゃないんだよね」

「あ。はい。でも、これは僕が決めたことなので」


そうなのだ。


私たちは付き合っているけれど、レッスンの時は先生と生徒になる。

中学の頃はクラスで一番ちびだった私が先生。

クラスで一番大きかった武君が生徒。


「僕からいろいろ言い出したんだよね。悪いことしちゃったな」

「いえ。そんなことないです。こうじゃないと駄目です」


生活の多くに渡ってさほど物事には頓着しない父が、今回の自宅レッスンの件ではちょっとばかり多めに口を挟んできたのは、やはり一人娘の私が心配だからなのだろう。


作曲家という職業上、ほぼ一日中自宅で過ごす父は、私と武君のレッスン中は自分も同じ部屋で仕事をすることを条件にした。

それから、先生と生徒であるなら、先生と生徒なりの接し方をすること。


そして、もう一つ。


レッスンが終わって、武君を送るのは構わないけれど、防音室の窓から見える自販機のある角までにすること。

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