第459話:「公爵の憂鬱:2」

 犬のカイと戯れていると、エドゥアルドの心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 動物は人間社会のことなど分からない。いつも無邪気でいる。

 だが、こちらの感情は読み取ってくれる。

 今の少年公爵にとって、カイがなにも言わずに自分と一緒にいてくれることはなによりの救いになっていた。


「あの、エドゥアルドさま。お部屋に入ってもよろしいでしょうか? 」


「ルーシェか? ……ああ、入ってくれてかまわないよ」


 平静さを取り戻せていたおかげで、唐突に部屋の扉がノックされた時にもエドゥアルドは普段通りに近い口調で返事を返すことができた。

 すると扉が静かに開かれ、思っていたよりも主人が落ち着いていたことに安心した様子のメイドが、「失礼いたします」と丁寧にお辞儀をして部屋の中に入って来る。


「僕の様子を見て来てくれとか、そう頼まれたのか? 」


「ふぇっ!? ……えっと、はい。おっしゃる通りでございます。

 あと……、なにかご用がおありかなー、と思いまして」


 エドゥアルドが立ち上がって振り返り、ニヒルな笑みを浮かべながら指摘すると、ルーシェは少し困った様子で、バツの悪そうな苦笑いをする。


「なら、コーヒーが欲しいかな。それと、カイにもなにかおやつをやってくれ。

 それと、広間の人たちには、僕は大丈夫だけど、まだ時間が欲しいと、そう伝えてくれ」


「かしこまりました。すぐにお持ちいたしますね」


 主の言葉にメイドはやや緊張した様子でうなずくと、またお辞儀をして部屋を去って行った。

 エドゥアルドはあらためてソファに腰かけ、じっと、窓の外を眺めながら彼女がコーヒーを持ってくることを待つことにする。


 エドゥアルドの部屋からは、ノルトハーフェン公国の首都、ポリティークシュタットの街並みが見える。

 城壁に囲まれた古くからの整然と区画の整理された市街地と、都市化の進展によって外にまで拡大した、区画整理のされていない雑多な印象の街並み。


 産業化の進展と共に人口が拡大し続けている都市の姿は、まるでタウゼント帝国の未来を暗示しているように思える。

 先人たちが整えて来た制度と伝統と、まだ先の見通せぬ、どう変化していくのかわからない未来だ。


 そしてそこには、大勢の人々が暮らしている。

 そのすべてが、エドゥアルドの臣民たちだ。


(数千万の民衆、か)


 もし皇帝になれば、エドゥアルドが支配する人々の数は現在の10倍以上もの数になる。

 あの、遠くに見える人々を。

 それぞれの人生を生き、それぞれの毎日をくり返している人々を。

 名前も顔も知らない相手の運命を、自身が左右することになる。


 その責任は、やはり、エドゥアルドには重く感じられた。


 貴族は、生まれながらにして他を支配する権利を保有している。

 それが現在のタウゼント帝国の制度であり、これまでの一千年をかけて構築されてきた伝統であった。


 しかし少年公爵には、他の貴族たちの様に、それを当然、と受け取ることができない。

 自分自身、実権を持つことができずに幽閉同然に暮らしていたということもあるし、スラム街という社会の最底辺で暮らしていた経験を持ち、誰よりも献身的に自身に仕えてくれているメイドと出会ったということもある。


 彼ら民衆の運命は、決して貴族である自身の都合によって軽々しく動かしていいものではない。

 平民はただ、貴族に生まれなかったというだけで同じ人間であるのには違いなく、そんな彼らを一方的に支配することはおかしいと、エドゥアルドは常々思っている。


 だからこそ、皇帝という地位を重く感じる。

 他の貴族であれば、それは栄光であり、自身の望むままに国づくりをし、その名を後世にまで輝かしく残す機会だと思うだろう。

 しかしエドゥアルドには、その絶大な権力によって容易に多くの人々の運命を変えてしまうことが、恐ろしく感じられてしかたがなかった。


 単純に、支配する者、される者という線引きはできない。

 あのメイド、いつも大変だろうに文句ひとつも言わずに仕えてくれている少女のように、平民たちみな一人一人に顔があって、名前があって、人生があるのだと思うと、どうしても自分の都合だけで頭ごなしに命令をしようという気持ちにはなれない。


(やはり、僕には皇帝は……)


 少年公爵は、自身の足元に寝そべって、じっと心配そうにこちらを見つめているカイの頭を撫でてやりながら、険しい表情で自身の支配する国を、自分の統治の良し悪しによって運命を左右されてしまう人々の姿を眺め続ける。


「エドゥアルドさま。コーヒーをお持ちいたしました」


 そう言いながらルーシェがコーヒーセットを手に戻って来たのは、彼女が出て行ってから15分ほど過ぎてのことだった。


 エドゥアルドの目の前に、静かにコーヒーとお茶菓子のクッキーが並べられていく。

 クッキーの何枚かは要望どおりカイのためのものらしく、犬用に焼かれたもので、焼きゴテでかわいらしい肉球のマークが入っている。


 そのささいなことに、少年公爵は思わずクスリと笑ってしまう。

 緊張し、悩み、苦しんでいたところにあまりにも日常的な発見をして、そのことがなぜかやたらと面白く感じられたのだ。


「なんだいルーシェ、この印は? 誰が作ってくれたんだい? 」


「あ、はい、こちらでございますか? これは、ゲオルグさまが、馬の蹄鉄を整えるついでに作ってくださったものなんです」


 ゲオルグというのはエドゥアルドに古くから仕えてくれている御者で、外出する時はいつも馬車の手綱を預けている老紳士だ。


「なるほど。ゲオルグは手先が器用だな」


 自身の御者もまた犬が好きで、よくカイの面倒を見てやっていることを知っているエドゥアルドはそう言って微笑みながら、さっそく犬用のクッキーを手に取り、足元でお利口にしていたカイに割り与えてやった。

 するとカイは嬉しそうに尻尾を振りながら、むしゃむしゃと、あっという間にそれを飲み込んでしまう。


「カイ、あんまり慌てないでお食べよ~」


 その様子にルーシェも優しそうに微笑みながら、ポットから少年公爵のためのコーヒーをカップに注ぐ。


 この時、この瞬間、エドゥアルドは自身が皇帝を目指すか否かという重大な問題について忘れ、普段と変わらない、穏やかでなにげない時間を過ごすことができていた。

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