第339話:「一時撤退」
アリツィアがしかけた[戦争]は、失敗とも、成功とも言えない結果になりそうだった。
エドゥアルドは、その場の情欲に身を任せるのではなく、理性を取った。
なぜなら、そうすることこそが、自分にとって、アリツィアにとって、最善だと信じたからだ。
引けない理由があった。
エドゥアルドとの関係を築くことは、アリツィアの祖国の命運を左右する重大な意味を持つことであり、そして、自分自身の人生を少しでも幸福なものにするためには必要なものだったからだ。
しかしアリツィアは、そこで引き返さなければならなかった。
もし、強引に迫れば、通じたかもしれない。
黒髪メガネのメイド、マヤが用意した
「……エドゥアルド公爵。
あなたは、本当に真面目なお人なのだな」
アリツィアは、そうしなかった。
ただ感慨深そうにそう呟くと、そっとエドゥアルドによせていた身体を離す。
「正直言って、少し、悔しいかな。
まるで、私にはエドゥアルド公爵を夢中にさせるだけの魅力がなかったみたいで。
だけど、あなたの言葉は……、嬉しくもある」
それからアリツィアは、頬を赤く染めたままで、軽くエドゥアルドのことをねめつけながらそう言った。
それは、自分の大胆な行動への照れと、エドゥアルドの理性を崩すことができなかった悔しさ、そしてその言葉の誠実さへの嬉しさが入り混じった、複雑な表情だった。
「その……、なんと言ったらいいのか……」
エドゥアルドは戸惑っている様子だった。
彼は自分で正しいと思う選択をした。
しかし、
「なにも言わないでくれ、エドゥアルド公爵」
なにかを言おうとするエドゥアルドの口元に右手をのばし、アリツィアは人差し指を彼の唇に軽く押し当てる。
「その……、これ以上なにかを言われたら、私も、どうにかなってしまいそうだから」
そしてアリツィアは自身の口の中で呟くようにそう言うと、エドゥアルドから手を放し、その亜麻色の髪をなびかせながら
「今頃は、エドゥアルド公爵のメイドちゃんが、私のメイドにさぞや困らされていることだろう。
そろそろ、助けに行ってあげようか」
実際に、ルーシェは今頃、マヤにさぞや困らされていることだろう。
マヤには夢中になると周囲が見えなくなるところがあり、こだわりも強いので、なかなか解放してくれないのだ。
だがそれは、この部屋から出て行く口実に過ぎなかった。
もし、そういうことになるのなら、お互いのことをもっとよく知ってからの方がいい。
エドゥアルドにそう言われて拒絶されたものの、アリツィアは決して、悲しくはないし、残念でもなかった。
自分が見込んだ相手は、思っていた以上に真剣に、アリツィアとの関係を考えてくれたからだ。
これが並みの貴族であったら、アリツィアがこのような大胆な、手段を択ばない行動に出ずともその関係は成就していたはずだ。
その場の情欲に流されるままに、お互いの関係のことなど考えずに、ただ本能に支配されていただろう。
しかし、エドゥアルドはそうせずに、あくまで何が2人にとって最善なのかを考えてくれた。
(少し、暑いな……)
まだ初春といったところで、暖炉を使うこともあるような時期であるにも関わらず、身体の火照りを強く感じたアリツィアはスタスタと歩き出す。
それは、自身が身にまとっている香水に混ぜられた
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アリツィアはもう振り返ることもなく、エドゥアルドの執務室から姿を消した。
後に残された少年公爵は、しばらくの間、ぼうっとしている。
まだ、間近に触れていたアリツィアの身体の柔らかく暖かな感触が、その香りの印象が、強く残っている。
初めて触れた色香に否も応もなく、エドゥアルドの身体は自分が男性であるということを主張して、納まらないでいる。
(……困ったな。
まだ、仕事も残っているのに)
書きかけの手紙をしあげないといけない。
そう思いはするものの、今から執務机に戻ったところで頭は働かないだろう。
自然とエドゥアルドの視線は、アリツィアが消えて行った扉の方へと向けられる。
あの美しい亜麻色の髪を思い出すと、直接この手で触れてみたいという欲求が生まれて、そして体の興奮が呼び覚まされる。
「ああ、もう、なにを考えているんだ、僕は……」
エドゥアルドはいらだたしげに自身のブロンドの髪を両手でガシガシとかきむしると、腰かけていたソファから立ち上がる。
そして執務室の窓の近くまで足早に進んで行くと、次々と窓を開いて行った。
部屋の中に、新鮮な空気が流れ込んで来る。
これから本格的に訪れる春の気配と、ようやく終わりつつある冬の冷たさを感じさせる冷涼な空気を肺一杯に吸い込むと、火照った身体が少し落ち着くような気がする。
エドゥアルドは、何度も何度も、深呼吸をくり返した。
そうして自身の身体の興奮を早く納め、いつも通りの自分にならなければと思うのだ。
(アイツに……、こんなところは見せられないものな)
まだ
この時自分はどうして、他の誰でもなくルーシェのことを思い浮かべたのか。
その理由をエドゥアルドはまだ知らなかったし、そのことについて疑問を抱くことさえない。
彼は若き少年公爵であり、そして、良き公爵であろうと志している。
今、彼の目の前には様々な課題があり、その肩には大きな責任がのしかかっている。
自分は男性だ。
そういう自覚が芽生えはしても、エドゥアルドにはまだ、自分が[公爵である]ということの方が大切だった。
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