第309話:「受け入れ準備:2」

(わっ、わわわわっ、私ったら!


 な、なんてことを考えてーっ! )


 ルーシェはついさっき自分がなにを言ったのかを理解して、顔を赤面させ、動揺する。


 アンネが、フェヒターを手玉に取っているように。

 自分も、エドゥアルドを手玉に取ってみたい。


 ルーシェは無自覚の内に、そう思ってしまっていたのだ。


 手玉に取ると言っても、ささいなことだ。

 今日みたいに、時々エドゥアルドは「ルーシェのために」と言ってルーシェを置いていくが、そういうことをしないようにさせたい、その程度のことだ。


 だが、その程度のことでさえ、ルーシェは考えてはいけないことだと思っている。

 なぜならエドゥアルドは公爵という高位の貴族であり、ルーシェは、誰が父親かもわからない、スラムで貧しい暮らしをしていた少女でしかないのだ。


 そんなルーシェがエドゥアルドの側でメイドとして働けているだけでも、それは奇跡だ。

 それ以上のことなんて、絶対に望んではならないことだと、ルーシェはそう自分に言い聞かせている。


 だが、それでも。

 自分はエドゥアルドのメイドで、いつでもエドゥアルドの側で仕えているべきなのだ。

 このルーシェの気持ちは、決して、消えることはない。


「ルー先輩、ど~したんですかぁ? 」


 赤面したまま硬直しているルーシェの姿を、アンネネがニヤニヤとした顔で見つめている。

 アンネはどうやら、ルーシェの反応を楽しんでいるようだった。


「もしも~、ど~してもって、言うなら~?


 コツ、お教えしますよ~? 」


 そしてアンネは、ルーシェにささやくようにそう言う。


 神話によれば、かつて人類が世界にただ1組の男女しかおらず、なんの苦悩もない楽園に暮らしていた時、神から決して食べてはならぬと厳命されていた知恵の実を食べるようにそそのかした蛇がいたのだという。


 アンネのその言葉は、その蛇が知恵の実を口にするようにそそのかした時には、きっとこんなふうだったのだろうと思わせるような、そんな口調だった。


(だっ、だめだよ、私っ! )


 ルーシェは即座で自分に向かって心の中でそう叫んだが、しかし、その言葉は声に出てくることはなく、アンネの誘惑をルーシェは明確な形で拒否することができなかった。


 揺れて、いるのだ。

 ルーシェの心臓はドキドキと激しく鼓動し、アンネの誘いを拒否しようとする自分と、アンネの誘いに乗ってしまおうとする自分が、激しくせめぎ合っている。


 もし、アンネがフェヒターを手玉に取っているように、ルーシェもエドゥアルドを手玉に取ることができたら。

 これからずっと、ルーシェはエドゥアルドと一緒にいることができるのだ。


 別に、それでなにかしたいことがあるとか、具体的なイメージがルーシェの中にあるわけではない。

 ただ漠然ばくぜんと、エドゥアルドとずっと一緒にいる自分を想像すると、幸せな心地になるのだ。


「おっ……、お水!


 私、お水、交換して来るね! 」


 しかし、最終的にルーシェは、アンネの誘惑を振り払った。

 それはルーシェがまだ、なぜ自分がこんな気持ちになるのかを、明確な形で意識していなかったせいだった。


「え~、もうお掃除も終わりますし、お水の交換なんて、しなくてもいいのに~」


「だめっ! 交換、するのっ! 」


 ギリギリのところで踏みとどまったルーシェに、アンネは残念そうな口調でそう指摘したが、ルーシェは赤面したまま、頑なに言い張った。

 そしてこれ以上なにかを言われてはたまらないと、急いでバケツの取っ手に手をかけ、バケツを持ち上げるとスタスタと歩き出す。


 部屋の出口へとルーシェが急いで向かっている間にも、ルーシェの心はグラグラと激しく揺れている。

 自分はエドゥアルドのメイドで、エドゥアルドとは比較にならないような分際なのだという自覚がどうにかルーシェを思いとどまらせたのだが、しかし、心の奥底にある、ルーシェが未だにその存在を認識できていない強い気持ちが、その動揺を引き起こしている。


 少し、頭を冷やさなければならない。

 ルーシェは自身の顔がほてったままなのに気づくと、水汲み場で思いきりバシャバシャと顔を洗いたいと思った。


 自然と、ルーシェは足早になる。

 そしてそれが、ちょっとした事故につながった。


 アリツィア王女が宿泊する予定となっている部屋の扉を開いて廊下に出たルーシェは、水汲み場に向かって足早に向かっていく。

 そして、階段を降りるために、ルーシェは左右を確認することもなく、勢いよく角を曲がっていた。


「ふへっ? 」


 突然目の前が暗くなって、ルーシェは驚く。

 そして、自分の目の前に誰かがいるのだとルーシェが気づいた時には、もう遅かった。


(ぶつかるっ! )


 ルーシェはそう悟ったが、しかし、こんな状態から衝突を回避できるはずもない。

 相手は至近距離で、自分はちょうど足を前に踏み出してしまっている状態だ。

 そんな体勢から急に立ち止まることなど、不可能なことだった。


 しかも、始末の悪いことにルーシェは今、水の入ったバケツを手に持っている。

 それも、窓ふきのために使っていた、汚れた水だ。


 自分がこの水を被るのは、かまわない。

 好んでそんなことはしないが、動揺していたとはいえ自分の不注意が招いた結果であるからだ。


 しかし、このままでは確実に、これからルーシェがぶつかってしまう相手を巻き込むことになってしまう。

 どうやらメイド服を身に着けているから自分と同じメイドであるようだったが、だからと言って、ルーシェのせいでびしょ濡れにしていい理由にはならない。


 ルーシェは思わず現実から目をそらし、両目をきつく閉じてしまっていた。

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