第266話:「あるべき自分」
言いたいことを言い終えたのか、アリツィア王女はじっとエドゥアルドのことを見つめたまま、エドゥアルドの返答を待っている。
エドゥアルドの心は、揺れていた。
民衆を救うという大きな目標と、そのためには大勢の兵士を傷つけることになるという葛藤とが、エドゥアルドの心の内側でせめぎ合っていた。
簡単に、決められることではない。
迷ったエドゥアルドは、思わずアリツィアから視線をそらしていた。
そしてそんなエドゥアルドの視線は、この場にいたもう1人の少女、ルーシェを見て、止まる。
ルーシェは、アリツィアとエドゥアルドに出すためのコーヒーを用意し終わり、それをテーブルの上に並べようとした姿勢のまま、立ち尽くしていた。
抜け駆けをしないかと真剣に誘うアリツィアと、その誘いに魅力を感じつつも、理性と責任感が決断を躊躇(ちゅうちょ)させているエドゥアルドの様子を見て、とても今コーヒーを出せるような雰囲気ではないとわかっているからだ。
そんなルーシェは、エドゥアルドの視線に気づくと、無言のまま軽く顔をうつむける。
だが、すぐに彼女は、エドゥアルドの視線をまっすぐに見つめ返していた。
その表情は、複雑だ。
エドゥアルドや、ノルトハーフェン公国の将兵に、危険な目に遭って欲しくはない。
けれども、ヴェーゼンシュタットで敵の包囲に怯えている民衆を、救っても欲しい。
エドゥアルドが直面しているのと同様の葛藤をその内心に抱きながら、ルーシェは、エドゥアルドのことを見つめている。
ルーシェは、彼女自身が幸運であるということを、知っている。
ノルトハーフェンの港町のスラムで、誰にも知られず、ただひっそりと消え去っていくはずだったルーシェはエドゥアルドに救われ、そしてエドゥアルドのメイドとしての居場所を与えられた。
この世界は、決して公平ではなく、不公平にできている。
スラム街の暮らしでそのことを骨身に染みて理解しているルーシェは、自身がたどって来た運命の希少さを理解している。
そして同時に、無邪気な純粋(じゅんすい)さを持って、信じているのだ。
自分を過酷な運命から救ってくれたエドゥアルドなら、きっと、自分以外の大勢の人々を、彼らが直面している過酷な運命から救ってくれると、ルーシェは信じている。
その信頼は時に、エドゥアルドにとっては重荷でもあった。
公爵という、一国の主になったとはいえ、エドゥアルドにもできることとできないことがある。
それは、公爵として実際に統治を行うようになってから、エドゥアルドはすっかり思い知らされている。
(たとえ、僕の力が、万能ではないのだとしても……)
しかしエドゥアルドは、ルーシェの視線を見つめているうちに、段々と自身の中での迷いが消えていくのを感じていた。
自分が、ノルトハーフェン公爵・エドゥアルドである理由。
それは間違いなく、エドゥアルドがそうなることを運命づけられて、この世に生を受けたからだ。
貴族は、生まれながらに地位と権力を約束されている。
そのためにエドゥアルドは、ノルトハーフェン公爵として、数百万の民衆を統治する力を与えられたのだ。
だが、エドゥアルドは、自ら望んで公爵の権力を手に入れた。
簒奪(さんだつ)の陰謀に立ち向かい、暗殺の危険を生き延び、現在の地位と権力を手にしたのは、エドゥアルドの意志だ。
自分が持って生まれた、正当な権利を守るために。
そういう意識はエドゥアルドの中に確実に存在していたが、エドゥアルドがノルトハーフェン公爵としての力を欲したのは、[良き公爵]になるためだった。
[良き公爵]とは、国家をよく治め、自身が支配する民衆をより豊か暮らせるように導けるような存在だ。
そうして、より多くの人々に恩恵をもたらすことで初めて、エドゥアルドは自分が[生きた]と実感することができる。
公爵という、生まれながらに与えられた地位と権力をただ保持するだけで満足するのではなく、自ら主体的に行動してその力を行使し、できるだけ大勢の人々を幸福にすることで初めて、エドゥアルドは自分自身がこの世界に産み落とされた意義を見出せると、そう考えているのだ。
この世界に生まれ、そしてやがて、消え去って行くというのなら。
その消え去る瞬間に、エドゥアルドは、自分は意義のある人生を生きたのだと、そう充足感を持っていたかった。
その思いは、エドゥアルドの芯だ。
そしてその思いを叶えるために、エドゥアルドは努力を怠らず、大勢の人々の知恵を借りながら、多くの人々に恩恵をもたらし、幸福にできるような、[良き公爵]であろうとしている。
そしてそんな[良き公爵]であろうとするエドゥアルドであるからこそ、ルーシェは恩返しとして真摯(しんし)にエドゥアルドのために尽くしてくれるのであり、ルーシェだけでなく、エドゥアルドに仕えてくれている臣下も、エドゥアルドに対して誠実であるのだ。
このままでは、ヴェーゼンシュタットの民衆は救われない。
それは、アリツィア王女の言うとおりだ。
そして、自分が公爵としてなにをなすべきなのかを、あるべき自分とはなんなのかを思い出したエドゥアルドにとって、貴族にもてあそばれて過酷な運命に直面している民衆を救うための選択肢が提示されたのなら、どうするべきかはもう、明らかなことだった。
「わかりました。
僕たちの手で、ヴェーゼンシュタットの民衆を救いましょう」
やがて、ルーシェから視線をアリツィア王女へと戻したエドゥアルドは、そう言って、アリツィア王女にうなずいてみせていた。
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