第137話:「生者の責任:1」

 ルーシェはずっと、顔をうつむけたまま。

 だが、突然、足の上に置いていた右手の手首を、ルーシェは左手でぎゅっとつかんだ。


 その様子はまるで、必死に、自分の身体の震えを抑えようとしているようだった。


 一度、ルーシェの身体の震えは、おさまっていたはずだった。

 アントンから、彼女がしでかしてしまった失態を責められ、なじられるのではないのだとわかって、彼女は落ち着きを取り戻せたはずだった。


 しかし、ルーシェはまた、身体を震えさせ、そしてその震えを、必死に抑え込んでいる。

 その震えは、おびえによるものではなかった。


「……どうして、そんな、簡単に……っ」


 アントンが不思議そうな顔をしていると、ルーシェは、絞り出すような声で呟いた。

 面と向かい合っているアントンにも、ギリギリ、聞こえるか聞こえないかという声だった。


「……お、おい。

 いったい、どうしたんだ? 」


 アントンは、段々と心配になってきてしまう。

 ルーシェが突然、体調を崩しでもしてしまったのかと、そんなふうに思えたからだ。


 しかし、それは思い違いだった。


 ルーシェは、左手で手首を抑え込んでいる右手で、ぎゅっと握り拳を作ると、バッ、と勢いよく顔をあげた。

 そして、双眸(そうぼう)にうっすらと涙を浮かべながら、アントンのことをまっすぐに睨みつける。


 ルーシェは、アントンに怒っていた。

 その身体の震えは、アントンに対する怒りからのものであったのだ。


「どうして、アントンさまはっ!


 そんな簡単に、自分勝手に、死のうとするんですかっ!!? 」


 もはや、メイドと、仕えるべき相手という、理性の垣根(かきね)は失われていた。

 ルーシェはその小さな体の中で感情を爆発させ、そして、その感情の矛先を、アントンへと向けていた。


「ルーも、戦争に行きました!

 実際に戦ったわけでは、ないけれど!

 でも、それが、戦争が、どんなに怖いことか、よくわかってます!


 戦争で、たくさんの人が、傷つくのを見ました!

 たくさんの兵隊さんが傷ついて苦しむのも、武器を持ったこともない普通の人たちが傷つくのも、見ました!


 だから、アントンさまが、自分の責任を重く考えているのは、ルーにも、わかります!


 だけど、だからって、傷ついた人たちに謝りたいからって、自殺するなんて、間違っています!

 そんなの、自分勝手です! 」


 感情に任せるままに、ルーシェはアントンに向かって次々と言葉を並べていく。


 その剣幕に、アントンは半ば呆然自失としていた。


 アントンは、すでに帝国陸軍大将という地位を失った。

 そして、おそらくはこれから、皇帝によって裁きを受け、伯爵という爵位も、先祖代々から受け継いできた領地も、失うことになるだろう。


 だが、アントンはまだ、伯爵だった。

 れっきとした、帝国貴族だった。


 その貴族を、目の前の少女は、感情をあらわにして責めている。

 どこの誰の子とも知れない、1人の平民の少女に過ぎないルーシェが、貴族であり、生まれながらに人々を支配する側の人間であるはずのアントンに、対等な立場で言葉を並べているのだ。


 その異常さ。

 そのこともアントンにとっては強い驚きであったが、なによりアントンの心に突き刺さっていたのは、「自殺するなんて、自分勝手だ」というルーシェの言葉だった。


 アントンが犯してしまった、帝国を敗北させたという大罪。

 多くの兵士たちの命を犠牲としたのに、彼らのために勝利の栄光を勝ち取ることさえできず、結果、彼らの死を[無駄死に]としてしまった、その責任。


 命をもって償う他はないと、そうとしか思えない、重い責任。


 だが、ルーシェは、アントンのその考えを、間違っていると言っている。


 それは、アントンが想像したこともない言葉だった。


「エドゥアルドさまは、ルーに、言いました!

 アントンさまは、この国にとって、どうしても必要な人だって。


 だから、絶対に生きていてもらわないと困るんだって、エドゥアルドさまはルーに言いました!


 エドゥアルドさまがどうしてそうおっしゃるのか、アントンさまになにをしてもらいたいと思っているのか、それは、ルーにはわかりません!

 だけど、エドゥアルドさまは、真剣でした!

 きっと、アントンさまにしか、できないことがあるんだって、ルーも思いました!


 それなのに、アントンさまは、自分から命を捨てようとしています!

 それで、アントンさまはご満足なのかもしれませんが、エドゥアルドさまが困ってしまいます!


 アントンさまには、アントンさまにしかできない、生きてやれることがあるのに!

 それを無視して、エドゥアルドさまを困らせて!


 そんなの、ルーには、アントンさまが自分勝手なだけだって、そうとしか思えません!


 アントンさまは、きっと、誠実なお人だから、死なせてしまった人たちに申し訳ないって思っているのは、ルーも、わかります!

 だけど、そうやって死んでしまって、果たせるのは、亡くなった人たちに対する責任だけです!


 エドゥアルドさまや、大勢の兵隊さんたち、それに、この国に暮らしている、ルーたち!

 私たち、生き残った者に対する、責任はどうなされるのですか!?


 アントンさまは、亡くなった人のことだけを考えて、生き残って、アントンさまのお力を必要としている人たちを、無視しています!

 アントンさまにしかできないことがあるのに、アントンさまは、それを、やらなければいけないことを、生き残った人に、エドゥアルドさまたちに押しつけようとしています!


 だから、アントンさまは、自分勝手だと、ルーは思います! 」


 呆然としたままのアントンの心の中に、その、たどたどしくも、まっすぐなルーシェの言葉は、銃口から放たれた弾丸のように鋭く、深く、入り込んで来る。


 死んでしまった者たちに対してではなく、生き残った者たちに対する責任。

 その言葉は、アントンにとってあまりにも衝撃的なものだった。

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