第110話:「脱出」

 アントンの号令と、ラッパの突撃を知らせる合図に、親衛隊の兵士たちは鼓舞されたように、ノルトハーフェン公国軍がいる方向に向かって進み始める。


 戦場で、現在の戦況がどうなっているのか、それをもっともよく把握し、理解しているのは、指揮官だ。

 指揮官という存在は、常に冷静に周囲の状況を観察し、得られた情報を総合して、勝利を導き、そして、より多くの兵士たちを生き延びさせるために最良の判断を下す役割が求められる。


 それに対して、兵士たちのほとんどは、戦場の全体像などわからないまま戦っている。

 彼らは目の前の敵と相対しながら、戦いに集中しなければならないし、指揮官のように周囲を観察している余裕もないし、また、得られた情報から正確に戦況を判断する訓練も受けてはいない。


 兵士たちにとっては、自分の目に見えているもの、聞こえてくるものが、すべてだった。


 だから、彼らは周囲の味方の兵士たちが敗走していれば、たとえそれが戦場のごく一部の出来事に過ぎないのだとしても、敗北したと悟って戦わないうちに敗走し始めることがあるし、包囲されていると思えば、恐怖して戦えなくなる。


 戦場における指揮官の責任は、重いものだ。

 兵士たちはみな、指揮官の判断を指標として戦っているし、指揮官が適切な判断を下すことができなければ、生じさせなくて済んだはずの犠牲が出ることになる。


 だから兵士たちは、アントンからの命令が下ると、みな、表情を明るくした。

 彼らにとって指標とするべき指揮官が健在であり、そして、彼らを生存させ、勝利へと導くために今も指揮官としての役割を果たそうとしていることを知ることができたからだ。


 アントンは、兵士たちから強く信頼されているようだった。

 もし普段から兵士たちに信頼されていない指揮官が命じたことであれば、たとえどんな命令であろうとも兵士たちはそれを疑い、時に命令に従わないことさえあるだろう。

 しかし、彼らはアントンの命令が下ると、一斉にそれに従い、ただひたすら、アントンの背中を追いかけ、ノルトハーフェン公国軍と合流するために敵中を突破しようと突撃を開始した。


(やはり、稀有(けう)なお人だ)


 エドゥアルドは、アントンと共に敵の騎兵と戦いながら、アントンのことを改めて評価していた。


 帝国におけるアントンの軍歴は、かなり長い。

 帝国軍大将として帝国軍全体を統率する立場になってからもすでに長いが、それ以前のアントンはペーターのように前線で兵士たちを指揮する指揮官であり、皇帝親衛隊の兵士たちの中にはその当時のことを知っている者も少なくはなかった。


 アントンは、この戦役で、帝国軍を勝利へと導くことができなかった。

 しかし、兵士たちはそれでも、アントンのことを信頼し、その命令に疑心なく従っている。


 やはりアントンは、帝国に2人といない存在であるようだった。


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 エドゥアルドを追って突撃して来たノルトハーフェン公国軍と、アントンの命令によって進むべき方向を見出し、包囲網を脱出するべく突撃を開始した皇帝親衛隊の兵士たちは、ほどなくして共和国軍の騎兵を突破し、合流に成功した。


 騎兵は、今でも強力な戦力ではあったが、過去に存在した重騎兵たちと比較すると、現在の騎兵には大きく劣る点があった。


 騎兵には機動力があり、その速度を生かして大きな打撃力を発揮できるが、その場に踏みとどまって戦い続けるための防御力が欠けているのだ。


 それは、騎兵が、かつての重騎兵たちが身に着けていた重厚な鎧を脱ぎ捨ててしまったためだ。

 騎兵が鎧を捨てたのは、かつて効果的だったその防御力が、普及した銃火器を前にしては十分なものではなかったということと、かといって鎧をさらに重厚にしてしまってはせっかくの騎兵の機動力が失われてしまうという理由からだった。


 その点は歩兵も一緒ではあったが、歩兵は密集して銃剣による槍衾(やりぶすま)を形成することによって間接的に防御力を発揮できるのに対し、騎兵は密集してしまってはせっかくの機動力が失われ、また、的が大きいためにサーベルの範囲外からの射撃で倒されてしまうために、攻撃の局面から防御の局面へと移行すると、脆弱(ぜいじゃく)だった。


 共和国軍の騎兵はアントンたち皇帝親衛隊を包囲し、かき乱していたが、外部からノルトハーフェン公国軍が攻撃をしかけて来ると、その防御の弱さが露呈(ろてい)した。

 公国軍の軽歩兵から、馬上の騎兵たちは次々と狙撃されてしまったし、隊列を整えた公国軍の兵士たちが銃剣で作る槍衾(やりぶすま)にサーベルでは対抗することができず、追い散らされていく。


 やがて、共和国軍の騎兵部隊の中で、退却を知らせるラッパが鳴り響いた。

 すると共和国軍の騎兵部隊はすでに瓦解(がかい)していた包囲を解き、距離を取って態勢を立て直すために退いて行った。


 エドゥアルドたちにとって幸いだったのは、共和国軍の騎兵と、歩兵による攻撃のタイミングが合っていなかったことだった。

 もし騎兵による包囲に加えて共和国軍の歩兵部隊による突撃が行われていたら、おそらくアントンの部隊は壊滅を免れなかっただろうし、公国軍が救援を成功させることもできなかっただろう。


 その共和国軍の歩兵部隊は、ようやく、エドゥアルドたちの背後に迫りつつあるところだった。

 共和国軍はこの会戦の勝者であったが、帝国軍とバ・メール王国軍を追撃するために各部隊が大きく前進しており、本営との連絡線がのび、別々の部隊が十分に連携をとることが難しくなっていたのだ。


 それでも、エドゥアルドたちは数で共和国軍に大きく劣っている。

 だからエドゥアルドたちは、歩兵部隊に捕捉されないよう、全力で退却した。

 兵士たちには隊列を整えさせないまま駆け足をさた。


 すると、共和国軍の兵士たちは、追撃の足を緩めた。

 背中を見せている敵は絶好の獲物(えもの)となるはずだったが、彼らはこれまでの戦いから、逃げるエドゥアルドたちを追いかけると、待ちかまえている他の部隊から手痛い反撃を受けるということを知っていたからだ。


 それだけではなく、すでに、共和国軍にとって帝国軍を追撃するチャンスは、失われてしまっていた。


 エドゥアルドたちの殿(しんがり)によって追撃を押しとどめられている間に、戦場から撤退することに成功した帝国軍の本隊は遠く逃げ延びてしまっていたからだ。

 機動力が高く、敵の追撃にうってつけの兵科である騎兵部隊も、帝国軍の騎兵を追い散らすために戦った後で馬も人も疲労しており、エドゥアルドたちに包囲を打ち破られてしまったことから態勢を立て直す時間が必要で、今から帝国軍の本隊を追跡する余力は残っていなかった。


 とうとう、共和国軍はエドゥアルドたちを追撃することをやめた様子だった。

 彼らは足を止め、隊列を整えなおし、そして、できるだけ多く負傷した戦友たちを救出し、また、戦場から離脱できずに取り残されている残敵を掃討するために引き返し始めた。


 駆け足で逃げていた公国軍とアントンの皇帝親衛隊は、ヴィルヘルムの部隊と残りの皇帝親衛隊と合流し、共和国軍の追撃が停止されたことを確認すると、隊列を整えなおして撤退を開始し、戦場を後にした。

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