第105話:「虎口:1」
ノルトハーフェン公国軍は、今、まさに猛獣の口の中に飲み込まれようとしている、あわれな獲物(えもの)のようだった。
共和国軍の兵士たちは、バタバタと仲間が倒れて行っても、前進をやめない。
帝国軍の撤退をする時間を稼ぐために戦うノルトハーフェン公国軍を打ち破り、この決戦での勝利にさらなる戦果を加えようと、猛攻を続けている。
共和国軍は、前からだけではなく、左右から、公国軍を押し包むように迫りつつあった。
1度、その包囲が完成してしまえば、エドゥアルドたちがそこから脱出することは困難を極め、共和国軍の虎口を逃れることができたとしても、その犠牲は膨大(ぼうだい)なものとなるだろう。
しかし、エドゥアルドたちは、ただ猛獣(もうじゅう)に食らわれるだけの存在ではなかった。
彼らは虎口に飲み込まれぬよう、必死にあらがい、反撃し続けている。
ノルトハーフェン公国軍は多くの共和国軍の兵士を倒したが、しかし、こちら側にも徐々に犠牲が増えて行った。
共和国軍の後方からは湧き出るように新手があらわれ、マスケット銃によって射撃をくり返して来るからだ。
戦死者は、その場に置いていくしかない。
それだけではなく、負傷者も、その多くは救助すらできずに、置き去りにするしかない状況だった。
負傷者を安全に後送するためには、通常、2人の人員が必要になる。
担架(たんか)などの道具も、必要だ。
しかし、今のノルトハーフェン公国軍に、そんなことをしている余裕はなかった。
兵士たちは敵と戦うために集中しなければならなかったし、負傷兵の後送のために無傷の元気な兵士を割くことは、できない。
たとえ2人必要なところを1人に節約するのであっても、できないのだ。
身動きのできる兵士は、まだ良かった。
自力で後退できる者はそのまま後方へ下がることが許されており、彼らには自力で生存する望みがある。
しかし、身動きの取れない負傷者は、そのほとんどが助からないだろう。
そもそも傷が重いから身動きが取れないのだし、そのまま共和国軍の捕虜となっても、適切な治療を受けられるとは限らない。
共和国軍に負傷兵とはいえ敵を治療している余裕などないかもしれなかったし、怒りや憎しみの感情に任せて、共和国軍の兵士たちによってその場で殺されてしまうかもしれない。
エドゥアルドは、できれば、命ある限り、すべての兵士たちを故郷まで連れ帰ってやりたかった。
彼らはエドゥアルドの兵士たちであり、エドゥアルドの国民なのだ。
ルーシェたち、戦場で負傷兵の手当てをするのだと、公国からついて来てしまった使用人たちのことが思い出される。
この、ラパン・トルチェの会戦が帝国の敗北ではなく、彼女たちの安全のために逃がさなければならないという状況ではなかったら、きっと、ルーシェたちの手によって大勢の兵士たちが救われただろう。
しかし、今、倒れた公国軍の兵士たちを救う手立てを、エドゥアルドはなにも持ってはいない。
(僕だけが、安全なところに身を置くわけにはいかない)
エドゥアルドが、敵弾が飛んでくるにもかかわらず、前線で馬に乗り続けているのは、兵士たちを鼓舞するというだけではなく、そういった、負傷兵たちを置き去りにしなければならないという状況に対する、やり場のない憤りや、無力感があるためだった。
ミヒャエルに言われた通り、せめて、馬から降りるだけでもした方がいいというのは、理性では理解できている。
エドゥアルドはノルトハーフェン公爵であり、1国の、大勢の人々の命運を握っている存在なのだ。
そんなエドゥアルドが倒れてしまったら、その影響は計り知れない。
しかし、だからといって自分の感情を抑えられるほど、エドゥアルドはまだ[大人]ではなかった。
このまま、自分に弾丸が当たりさえしなければ、それでいい。
エドゥアルドはそんな風に思いながら、戦いの様子を見つめ、兵士たちを鼓舞するために自分がここにいるのだということを声に出してアピールし続けていた。
だが、やはり、そううまくはいかない。
エドゥアルドは突然、強い衝撃を感じると、馬の上にまたがっていることができずに落馬しそうになった。
「公爵殿下ッ!! 」
エドゥアルドの身辺警護のために近くにとどまり続けていたミヒャエルが、血相を変えてエドゥアルドを支えなかったらきっと、本当に馬から落ちていたことだろう。
「あ、ああ、すまない、ミヒャエル中尉」
なんとか態勢を立て直し、しっかりと馬にまたがりなおしたエドゥアルドがそう礼をいいながら笑顔を見せると、ミヒャエルは心底ほっとしたような笑みを浮かべる。
エドゥアルドも微笑み返したが、その額を、つつつ、と一筋の血が伝っていった。
どうやらエドゥアルドの側頭部を、弾丸がかすめて行ったらしい。
(あと、1センチ……)
たったそれだけ弾道がズレていれば、命はなかった。
そう思ったエドゥアルドは、ゾッとする。
今すぐに、この場所から逃げ出したかった。
公爵としての使命も責任もなにもかも放り投げて、エドゥアルドは駆け出したかった。
幸い、エドゥアルドは馬に乗っている。
それも、公国でも指折りの名馬だ。
一目散に逃げ出せば、この危険な場所から逃げ出すことは、簡単なはずだった。
だが、エドゥアルドは、その気持ちをぐっとこらえ、できるだけ冷静な様子をよそおった。
「兵士たちよ、見たか!?
弾は、僕をそれたぞ!
神はまだ、僕らを見捨ててはいない! 」
そしてエドゥアルドはできるだけの声を張り上げ、兵士たちに向かって叫んで見せる。
すると、その声が届いた兵士たちは、エドゥアルドの様子に安心し、そして頼もしく思ったのか表情を引きしめて、戦いへと意識を集中した。
自分は、ノルトハーフェン公爵。
この兵士たちの、長なのだ。
その自覚が、エドゥアルドの中で大きく膨れ上がった恐怖心を、虚弱(きょじゃく)な心を、上回った。
エドゥアルドは自分が逃げ出さなかったことを嬉しく、誇らしく思ったが、馬上で再びぐらつき、ミヒャエルに横から支えられていた。
どうやら、エドゥアルドは軽く脳震盪(のうしんとう)を起こしているようだった。
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