第97話:「殿(しんがり):1」

 ラパン・トルチェ平原で戦われた決戦、後に[ラパン・トルチェ会戦]と呼ばれることになる戦いの勝敗は、決した。


 帝国軍の右翼、連合軍全体では中央に配置されていたズィンゲンガルテン公国軍が壊走を始めたということは、連合軍が共和国軍によって中央突破をされたということを意味していた。

 それだけではなく、連合軍はその両翼から、戦場に突然あらわれた共和国軍によって包囲されつつある。


 つまり、連合軍は真っ二つに叩き割られ、共和国軍に両翼と真ん中から包囲されて、ゴリゴリと削られているのだ。


 しかも、連合軍が優勢であったはずの兵力数は、すでに拮抗してしまっている。

 この形勢をくつがえそうにも、とどめ置かれていた予備兵力では足りない。

 いかにノルトハーフェン公国軍が精鋭ではあっても、20万もの共和国軍の猛攻を押し返し、一度崩れ始めた連合軍を立て直すことは、不可能だ。

 1万5千の戦力では、あまりにも少なすぎるのだ。


 となれば、今からエドゥアルドにできることは、ただ1つだった。


 エドゥアルドは息を吸い込み、少し止めて、それから、長く、ゆっくりと吐き出す。


 肺の中が空っぽになった時には、もう、覚悟はできていた。


 もはや、帝国軍がやるべきことは、ただ1つだけだった。

 いかにして損害を抑え、撤退するか。

 それだけだ。


 そして、そのためにエドゥアルドができること、やるべきことは、帝国軍の安全な撤退を支援するために、殿を務めることだった。


 それがどれほど危険なことかは、誰でもわかる。

 敵は20万。

 それに対し、ノルトハーフェン公国軍は1万5千しかいないのだ。


 だが、エドゥアルドは殿をやらなければならない。

 ノルトハーフェン公国軍が予備兵力とされたのは、跡継ぎがいないノルトハーフェン公爵家が、万が一にも断絶することがないようにという皇帝からの配慮であったが、このような状況となった以上は、ノルトハーフェン公国軍は予備兵力としての役割を果たさなければならない。


 そうしなければ、この戦場で、帝国軍全体が壊滅することとなるのだ。

 すでに包囲されつつあるヴェストヘルゼン公国軍も、壊走してしまったズィンゲンガルテン公国軍も、押しよせる共和国軍に飲み込まれることになる。

 オストヴィーゼ公国軍も、皇帝親衛軍も、運命は同じ。

 もちろん、ノルトハーフェン公国軍もだ。


 それは、絶対に避けなければならない結末だった。


 だが、ノルトハーフェン公国軍が殿として戦えば、壊滅するのは、ノルトハーフェン公国軍だけで済むかもしれない。

 帝国全体で考えれば、明らかにそうするべきであった。


 ちらりと、ルーシェが別れ際にエドゥアルドに見せた微笑みが、浮かんでくる。


 殿となって戦えば、エドゥアルドが生きて戻れる保証はなかった。

 高位の貴族であるエドゥアルドは、捕虜として高い価値を有しているはずだったが、王制を否定する共和国軍が相手だ。

 もし捕虜とされたとして、エドゥアルドをそのまま生きて返してくれるとも思えないし、そもそも、戦場に立てば敵弾によって倒れることになるかもしれない。


(なんとしても、撤退を成功させる。

 そして、できるだけ多くの兵士たちと共に、公国に戻るのだ)


 それが、限りなく不可能に近いことではあっても、やってみせる。

 決して、あきらめたりはしない。


 エドゥアルドは覚悟を決めると、風車小屋のハシゴを駆け下り、皇帝の御前へと向かっていた。


────────────────────────────────────────


「陛下。

 もやは、この会戦の雌雄は、決しました。


 なにとぞ、ここは撤退し、後日の再起をおはかりください。


 この、ノルトハーフェン公爵、エドゥアルドが、陛下が虎口を脱出されるまで、殿を務めます! 」


 まだ混乱している帝国軍中枢の人々の間を駆け抜け、皇帝の御前でひざまずいたエドゥアルドは、自ら殿となることを申し出ていた。


 しかし、皇帝の反応は、鈍い。

 この会戦に敗北したというショックから立ち直りきれていないというのもあるが、エドゥアルドを戦場に出したくないという気持ちが、まだ皇帝の中にあるようだった。


「だが、貴殿には、子がおらぬ。

 ノルトハーフェン公爵家を、朕の誤りによって断絶させることなど、いくら皇帝といえども、してよいことではない」


 カール11世は侍従に助け起こされてイスに腰かけ直すと、沈痛なおももちでそう言って、小さく首を左右に振った。


 エドゥアルドの父、先代のノルトハーフェン公爵も、カール11世が起こした戦役に従事して、戦死したのだ。

 今、ここでエドゥアルドを殿とし、仮にエドゥアルドが戦死してしまえば、カール11世は自らの決定によって、タウゼント帝国の被選帝侯の1つを消滅させたことになる。


 そうなるかもしれないという決定を、カール11世は決断できないようだった。


「恐れながら、陛下。

 もはや戦況はひっ迫しており、エドゥアルド公爵のおっしゃられる通り、ノルトハーフェン公国軍を殿として、撤退する他はございません」


 その時、エドゥアルドの申し出に同調したのは、アントン大将だった。


「腹案あり、と申しましたが、すでに時期を逸(いっ)しました。

 もはや、立て直すことはかないませぬ。


 となれば、今、我らにできることは、できる限り損害を抑え、なるべく多くの将兵を帝国領へと帰還させることでございます。


 陛下。

 陛下がエドゥアルド公爵のことをお考えになるお気持ちは、臣も、そしてエドゥアルド公爵も、重々、承知の上でございます。


 さりながら、今、動かねば、ノルトハーフェン公爵家だけではなく、他の帝国諸侯にも多くの害が生まれるのです。

 ヴェストヘルゼン公爵も、ズィンゲンガルテン公爵も、オストヴィーゼ公爵も、その他の諸侯の皆々様も、そろって討ち死になされるようなことがあれば、いったい、将来の帝国が成り立ちましょうか? 」


 そのアントンの言葉に、カール11世は顔をうつむける。


 そんな、未だに決断を下しかねている皇帝に向かって、アントンは重ねて申し出る。


「不肖、このアントンも、陛下の親衛隊の一部を率いまして、エドゥアルド公爵と共に戦いまする。


 そして、必ず、エドゥアルド公爵を、再び陛下の御前へとご案内いたしましょう。


 もはや、他に打つ手はございません。

 陛下、なにとぞ、ご裁可を」


 エドゥアルドと共に、自分も戦う。

 エドゥアルドがちらりと見上げたアントンの横顔は、すがすがしい、雑念のない真っ直ぐな顔だった。


「……あい、わかった」


 そしてそのアントンの言葉に、皇帝、カール11世は、うなだれたまま、重々しくそう言った。

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