亜子稀
流川あずは
桜樹
私は花を咲かせる、桜の木の前に立っていた。祖母の家の庭に、昔からあった大樹だ。おぼろげな月光にも映える桜の花は、青ざめたような白に見え、春の温度を感じさせない。
かつて憂鬱な作家が、満開の桜をぼろきれのようだと例えたが、まさにそんな感じだ。夜桜が美しいと思うのは、多分見る側の気持ちの問題でしかない。特に桜は、あまりに人の心を映し出しすぎる。
私はふっと溜息をつく。額をぬぐおうとして腕を上げたが、そのままおろしてしまった。持ってきておいた脚立に手をかけた時、不意に声がした。
「何をしているのですか」
一瞬、桜が話しかけてきたのかと思った。しかし、声は後ろから聞こえた。振り向くと、そこには子供が立っていた。月明かりに照らされたシルエットは、顔や服装こそよく見えないが、小学生ほどの背の高さだった。声も幼い。
私は驚いたが、努めて冷静な声で言った。
「あなたこそ、こんな夜中にどうしたの。ご両親は?」
子供は私の質問には答えず、呟いた。
「立派な大木ですね。いつの時代も、桜は同じように咲く。そして」
その木の下には、死体が埋まっている。
ぞくり、と体に戦慄が走る。今まで温まっていた体が、急に冷えた気がした。なんだ。
なんだ、この子は。本当に人、なのか。
理性ではなく、本能が訴えかける。これは、なにかが違う。
私が何も言えないでいると、その不気味な子供はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。切った爪の破片のような頼りない月では、相手の姿は良く見えない。私は後退りした。
桜の木の幹に背中がつく。木すらもひんやりと冷たく感じる。足下の土はひどく柔らかく、それがまた、私を震えさせる。ああ、気持ちが悪い。
子供は私の前で立ち止まった。そして、桜の木を見上げた。
「これでは折れてしまいますよ。本気なら、もっと高い脚立を用意しなくては。ほら、あの枝くらいでないと」
子供が指をさしたのは、一番太い枝だった。私とあの人が、子供のころによく遊んだ…。
「でも」
子供は私の方を見て言う。
「そんな必要はきっとないでしょう」
茫然とする私の手から、そっと縄を取る。微かに触れたその子の手は、流水のように冷たかった。
「彼は、貴女にこんなことをして欲しくはないそうですよ」
子供が私の耳元でそう言った、その時。腰回りを締め付けられたような感覚を覚えた。それは、どこか懐かしい気がして、冷たく、温かい。なにかに似ている。なんだったか。
ああ、そうだ。これは。
私は緩慢な動きで、腰のあたりに目を落とす。そこには、指をしっかりと絡めて、組んだ手があった。
これは、あの人に抱きしめられた時の感覚だ。
私を抱く手の、左手の薬指が光る。銀色の指輪。私のそれと、対になっている、あの指輪が。
子供が言った。
「大丈夫、僕は怒ってないよ。これまで以上に一緒にいよう。ずっと一緒に生きていこう。彼はそう言っています。愛されていますね」
子供は笑った。私は、土まみれの手をそのままに、彼の腕を触ろうとした。触れるか試したかった。
分からなかった。感触があるのか、ないのか。すり抜けているのか、抵抗があるのか。これが現実なのか、幻覚なのか。
「私は…このまま、生きていくわけには」
「貴方がそう言っても」
子供は静かに言う。
「許されませんよ、きっと」
風が吹いた。冬の余りもののような、冷たい風だった。それは、桜を散らした。
花弁が私の鼻先をかすめる。かび臭いような香りがした。この桜はもうすぐ終わるな、と漠然と思った。
「それが、貴女の代償です」
その後私は、何事もなく過ごしている。ただ一つ、私の腰に、私にしか見えない彼の腕が絡まっていること以外は。
だから今も、彼はあの桜の大樹の根元に埋まったままだ。私の罪と同じく、消えも見つかりもせずに。
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