第15話 「美」の意味
やってきたのは、東京美高等学校の校門。夕日もそろそろ落ちてくる時間になった。後もう少しで黄昏時になる具合だ。
千花どこか焦り、学校に向かっていた。それはまるで、この好機を逃したら、もう二度と見ることはできない。
「ごめんね、健次くん。急いだりして。そして、無理をして、私をここまで連れてきて」
「いいさ。それより、「美」はどこにある?それを俺に見せるのだろ?」
「ええ。急ぎましょう。時間に間に合わせないといけない」
「間に合わせる?」
俺ははてなマークを頭上に浮かばせる。
一体何を急いでいるのか、彼女の意図が全く読めない。だから、彼女の顔を窺える。
千花は苦しさを隠し、どこか楽しそうに目先はとある場所を向けていた。
そこはこの学校の象徴である施設。教会だ。
一年前には屋根の修繕を行い、ステンドガラスを付け替えたと言う話は妹の由美から聞いた話だ。
「教会に行くのか?」
「ええ。そうよ。そこには私の「美」はその教会に隠しているわ」
ここまで歩いたので、千花の顔は汗だくになっていた。前へと進めようとするが、倒れそうになる。
病人がここまで自力で来たのは、負荷が重すぎたのだ。千花の体調はそこまでよくないのだ。リハビリをするほどまで、健康状態は良くないのだ。
だから、俺はあることをする。
「ちょっと失礼するぞ、千花!」
「え、うわ」
俺は、千花をお姫様抱っこする。唐突のできことで、彼女はきゃ、と小さな悲鳴をあげた。が、俺はそれを無視して前へと走っていく。
この方が早く、教会に駆けつけるからだ。
全力で走り、俺は教会の重い扉を開く。
本日二度目の訪問に、俺は複雑な気分になった。
ついさっきまでいた場所に……「美」……が隠れているなんて、俺は思いも寄らなかった。
一体、ここに何があるのか、好奇心を揺らされる。
「着いたぞ!」
教会の中に入ると、俺は彼女を近くに長椅子に座らせる。
千花は息切れするように、はあはあと吐息が激しくする。
俺は彼女を置くと、左右に顔を向ける。由美を探し出す。彼女がまだこの教会にいることを祈る。
壇の奥から、妹の由美は背後にある扉から現れる。
「姉さん!どうして、ここに来たのですか?」
「ちょっと、用事があってね……」
「安静にしてください!」
「それより、そろそろ見せたいものがある」
千花は立ち上がり、ふらふらと壇の方へと向かっていく。俺たちはただ、彼女をふらふらと歩くのを呆然と眺めているだけだった。
「ねえ、健次くん。「美」は何だと思う?」
「美か……」
千花の言葉に俺は考え込む。美とは何か?
ある人物はこう語る、美の存在は、事物や事象が備える固有の性質であるとする。つまり、美は絶対的な存在であり、事物や現象の性質だ。
例を挙げれば、虹は美しいのは、虹自体の性質は美しいからだ。
しかし、ある人物はこう語る、美の存在は事物に帰属するのではなく、それを知覚し、認識する人間主観が、事物や事象に付与する性質である。
例を挙げれば、虹は美しいのは、我々が美しいと感じるからだ。虹には美しさはない。人間が勝手に虹の七色を美しいと解釈しただけだ。美はその人の経験上の概念でしかないのだと。
だから、俺はこう答える。
「美は美だ。この世に普遍で存在するもの。美しいものは俺たち人間の常識に感じていることだ。それが美だ」
これが俺の美の答えだ。美は人の中で共有している、人が美しいものを見た時、美しいと感じるのは、この世界の人間の共有な認識。言語を超越したもの、心に共有するものだ。
「うん。私もそう思う。でもね、少し違うんだ」
千花はゆっくりと、壇の方に着くと壇の背後の上にある大きな十字架を見上げた。
一年前に……このガラスを新しく設置されたものだ。
もしや、これが千花の作品なのか?
「私は、美は美の世界があると信じている。ほら、美には絶対的美がある。それは、美の世界があって、人はその美の世界に触れて、初めて美の世界に入り込めるんだ。美は、絶対的な世界。人がいなくても、美は美で存在し続けていく」
千花が唱える美は、神様のようだった。
絶対的美。人間がいなくても、美はそこに存在する。
数式理論と同じだ。人間がいなくても、数式理論は存在し続ける。
人が発見しなくても、美は美で存在し続けているのだ。
そんな理論を告げた千花は倒れそうになる。が、両手で壇をつかみ、支えるようにした。
俺はそんな彼女を見ていられなくて、千花の方へと駆け抜けて行こうとするが、彼女は片手を挙げて、俺をそこに見るようにと合図をする。
「健次くんはそこにいて」
「でも……」
「後、もう少しで「美」が誕生するから」
俺は彼女の言う通りに、ここから動かずにいた。彼女が息苦しくしている様子を黙って見ることしかできなかった。
そう、悔しく思えるが、俺は彼女の言う通りにする。
一体、彼女は何をしようとしているのか?
俺は歯を食いしばり、千花の方を見る。
すると、千花は上を見上げる。俺の背後にあるステンドグラスを見つめていた。イエスが十字架に貼り付けられている模様のスタンドグラスがあった。
「ここのスタンドグラスと位置、実は一年前に取り替えたんだ。私が2年間もかけて設計したものなんだ。この教会に訪れる人に対して、ちょっとしたサプライズを仕掛けようと思ってね。去年の修繕工事に取り替えたグラスだったよ。由美のおかげで。神父様を説得出来てありがとう」
「いいのよ、姉さん。私は姉さんの味方だから」
「うん。それを聞くと、すごく嬉しい」
千花はまたも、倒れそうになる。が、壇を使って自分を支える。顔は真っ青になる。眉をハの字にする。汗だくになり、息苦しそうに息が荒く呼吸をしていた。
正直見ていられない。俺は、今でも、彼女のところに駆け寄りたかった。力になりたかった。
だけど、彼女は「大丈夫」と俺を止める。
どうやらそのスタンドグラスが「美」の秘密である。
「そろそろ時間になるね。由美、最後にお願いがある」
「何?お姉さん」
「讃美歌を歌って……」
「いいわ。姉さん」
由美はそう答えると、目を閉じる。息を吸ってから、讃美歌を歌うようにした。
その讃美歌は心地よく、耳を励ます歌。鳥の囀りよりも美しく、自然を模倣する歌だ。神を信仰している姉妹。その姿は神秘的でどこかの儀式の光景で感動する。
讃美歌の中で千花は目を閉じる。そして、両手を上げる。
それは、まるでこの讃美歌で神秘を降臨する要でもあった。
「そろそろだね」
「千花?」
「はい。みなさん。ご覧あれ。これが……私の作品。私の美。作品名は……『イエスの博愛』」
「何を言っている……なっつ!?」
その瞬間、時刻は夜になった。
太陽は落ち、消え去る。黄昏時が、終わる。
夜に包まれる教会。それは真っ暗に包まれる。そんな闇に包まれている教会の中に、一滴の光が、周囲を照らす。
それは月の光だ。月光がスタンドグラスを照らす。
すると、光は七色の輝きを取り戻し、イエスキリストの絵を反射する。反射先は千花の背後にある大きな十字架だった。
……イエスキリストが十字架にかけられる映像が出来上がる。
俺はそれを見て驚愕した。
なぜならば、それはあまりにも美しかったのだ。
巧妙な技、光の当て方の計算が必要な技術。千花が一人でその月光の反射する位置とステンドグラスの模様を設計したのだ。
それは神秘的で、言葉に表せない美しさがここにあった。
イエスキリストが降臨したかのように錯覚するほどの美しさがそこにあったのだ。
そこで俺は理解する。この現象は一年に一回しか見られない。なぜならば、月の位置は毎日変わっていく。だから、この卯月の月に、一年に一度の満月じゃなければ見られない現象。このスタンドグラスの向かい側の位置に月が昇らなければ、この美に見られない光景だ。
だから、この作品は一年に一度しか、見られない芸術作品だ。
千花は天才ではない。けど、彼女は努力家だ。そんな努力家は天才を殺してみせた。
俺は……完敗する。千花の作品の前に跪いた。
この設計は2年もかけて設計し、この教会の神父に持ちかけた千花の努力は到底真似できない。
「千花。お前はすごい芸術家だ。俺には2年間も我慢して、こんな作品を作ることはできない。お前しかできない作品だ」
「ありがとう……健次くん」
千花は満面な笑みでお礼を言う。その笑みの裏には嬉しさが隠されているのは今でもわかる。
だって、この作品は天才の俺が誉めた作品だ。彼女が嬉しくない訳が無い。その証拠に彼女は今でも子供のように嬉しそうに顔を真っ赤にしていながら、涙を流していた。
俺はそんな彼女の努力に惚れ込のだ。千花と言う芸術家は努力という才能を持つ芸術家なのだ。
「あ……」
「千花!」
千花はゆらりとふらつき、倒れこんだ。俺は彼女の元へと走り出す。そして、彼女の姿を抱き抱えたのだ。
まだ、息はある。だが、荒い息をしていた。虫の息で今でもかき消えそうになっていた。
由美は讃美歌を歌うのをやめて、こちらに駆け寄る。
「姉さん!」
「大丈夫よ。私は、大丈夫……」
「由美!救急車を頼む。彼女を病院に搬送するんだ」
「は、はい」
そう言うと、由美は教会の扉まで走り、姿を消した。
俺は千花の頭を支える。彼女を一番楽な体勢にし、頭を支える。
彼女は、息が小さくなっていった。瞳も細めていた。
俺は千花の名前を叫ぶ。彼女が消えないように、叫んだ。
「おい!大丈夫か!千花!」
「ええ。ちょっと疲れただけ」
「無理するなよ!病人だろう!」
「ねえ、聞いてほしいことがあるの。健次くん」
「なんだ!何でも言ってくれ」
「この作品……「イエスの博愛」は、この水原千花の最後の作品になる」
千花は息切れそうにそう告げるが、彼女の瞳には微かな炎が燃えていた。それは、芸術に満足した芸術家の目だ。
最後のフィナレーを創作した作品に恍惚している瞳だ。
……それはとある指揮者の物語に似ている。
エフゲニー・ムラヴィンスキー。彼はあるリハーサルであまりにも完璧すぎる演奏があった。彼はその演奏は二度と再現できないと感じ、本番の演奏をキャンセルしたのだ。
千花もあの指揮者と同じく、その感情に飲まれた。
二度と、これ以上の作品を作ることはできないと、感じてしまった。
だから、千花はこの作品が最後の作品になると、公言する。
「それ以上何も言うな」
「ねえ、健次くん」
「何だよ」
「私たち…………別れましょう」
「え……」
思わず、俺は情けない声を漏らした。
だって、彼女の口から放たれた言葉は、別れ話だ。
……最愛の彼女から、別れ話が告げられた。
俺は何が何だか、わからずに、彼女の頭を過ヵえたまま
「何を言っている」
「私はもう芸術を作れない。この作品が、最後になる。だから、あなたの側にはもう一緒に歩けない」
「何を言っている」
「健次くん……あなたはわかっているはずよ」
ああ、わかっていた。
千花は何を伝えたいのか。
けど、俺はそんなことを知らないふりをして、彼女の言葉を傾けたくなかったのだ。
だって、俺は彼女を愛している。
「私はもう芸術を作れない。天才のあなたとは、もう一緒に歩けない。だから、別れましょう」
「何を言っているんだよ。俺は、芸術を作らないお前でも、俺はお前を愛している!」
「ううん。ダメなの。それじゃあ、私があなたの錘になっている」
「錘になっても良い!俺が支えるから!」
「……健次くんは優しいね」
今でも、消えそうな声に、俺はしっかりと彼女を抱き抱える。この手を離したくはないと、彼女の温もりを今でも感じたいと、俺は願った。
「でもね、健次くん。私は、あなたみたいに芸術を創作することはできないわ」
「それ以上、何も言うな。俺は君を愛している」
「……ええ。私も愛している。だから、あなたの才能はここで止まってはいけないわ。もっと、この世界のために使うべきよ」
水玉が一滴、ぽたりと千花の頬に落ちていく。
それは俺の涙だと、すぐにでもわかった。
彼女の言う分はわかる。俺が彼女の隣にいると、周囲が認めない。
天才芸術家が、一般の少女と付き合っている。
そんなことは、彼女のプライドが許さなかったのだ。
だから、俺を振ろうとした。
……それはかつて、俺がしようとしたことだ。相手を振ろうとしたことだ。
だから、千花が別れ話には、俺は反対できない。顔を横に振れないのだ。
ただ、鼻水を垂らしながら、涙いっぱいになっているのだ。
そして、俺は彼女に口付けをする。
小さな口付け、唇と唇が当たるだけの口付け。
これが千花と、最初で最後の熱い口付けをする。
数秒間の口付けをすると、俺は彼女の顔を見つめ合う。
千花は微かに笑みを浮かべると、俺と別れを告げる。
「……さよなら、健次くん」
「ううううああああああああ」
人生三度目の号泣。
俺はまたも情けない声をあげながら、この教会で泣いた。
それは、最愛の彼女の別れ。
俺は、その絶望に、耐えれることはできなかったのだ。
その後すぐに、救急車がやってきた。そして、千花を搬送する。
彼女の体調は問題なさそうだが、病人に無理させた所為で、今は眠っている。命には別条はなかった。
だけど、これが俺と彼女の最後だ。
僕の初恋はもうすでに終わってしまったのだ。
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