ファルシ・トマト・サンドウィッチ・カマンベール サーヴィ アヴェク ソース デミグラス
佐倉涼@10/30もふペコ料理人発売
第1話 若き天才シェフは超絶激弱メンタルの変人
東京都は武蔵野市、二十三区外であるにもかかわらず多くの人が訪れる食やファッションの街、吉祥寺の大正通り、東急百貨店の裏にある個人店が軒を連ねる道の一角にそのビストロ店は存在している。
父である先代から店を受け継ぎ、今では若き天才シェフ東堂 歩がその店で自慢の料理を振るっていた。父の頃にハイソでお洒落なビストロ料理店として名を馳せ、このグルメ激戦区である吉祥寺で常連を着実に獲得しており、地元の雑誌などに何度も掲載されたことのあるちょっとした有名店だ。
吉祥寺には数多の飲食店が軒を連ねてしのぎを削り合っている。ビルに入っている有名チェーン店はもちろんのこと個人で経営しているカレー店、カフェ、昔ながらの喫茶店、ハンバーガーショップ。
休日には人でごった返す吉祥寺であるが、平日は意外にも街は空いている。華々しいオープンを飾った新進気鋭のお店が、馬鹿高い賃料を払えずにあっという間に閉店に追い込まれ看板を掛け替える……というのも珍しくない光景だった。この街で五年、店を続けるというのは想像以上に大変なことであり、そのような場所で三十年以上にわたって営業を続けているこのビストロ店はなかなかの老舗といえよう。
地元のマダムや家族連れ、近所の大学に通う学生などに親しまれるこぢんまりとした店は休日のランチやディナー時になると店の外に行列ができるほどの人気っぷりであった。
…………であるのだが。
「っはああああぁぁああ!!! 駄目だっ!!! 俺にはもう、料理なんて作れない!!!!」
若き天才シェフ、東堂 歩 二十七歳(独身)は今現在、店の厨房で頭を抱えてかきむしり、キッチン台にガンガンとおでこをぶつけていた。
「もう駄目だ、俺には才能なんて無い……!! 料理を作る才能なんて無いんだ!!」
彼は絶望の表情で上半身をくねくねと前後に折り曲げ、叫び続けた。
「東堂シェフッ、今度はどうしたんですか!?」
シェフの一大事に、店で働く女子大生の北条 一花はテーブルを拭いていたダスターを握りしめたまま厨房に目を向けた。厨房はカウンターから見えるので、東堂の痴態はすべて筒抜けである。
東堂は全身をわななかせながら暗い瞳を一花に向け、その紫色になった唇を開いた。そして地獄の底から這い出るような声で言う。
「……昨日のドラマで……推しの女優が俳優とキスをしていた」
そして瞳に涙を浮かべると、口をへの字に曲げて再びおでこをグリグリとキッチンカウンターに押し付ける。
季節は夏真っ盛りの八月、一歩通りを見ればアスファルトが熱気でゆらゆらと揺れ、蜃気楼が見えるほどの灼熱の気温である。だというのに店の中は東堂が放つ湿っぽく陰気臭い空気のせいで、ジメジメジトジトとしている。まるで梅雨に逆戻りしたかのようだ。
東堂はその陰鬱な空気を纏ったままにさらに言葉を重ねた。
「あんな男のどこがいいって言うんだ……! うっ、ショックで昨日の夜は眠れなかった。とてもじゃないがもう料理ができるメンタルでは無い!! 店を閉めよう!!」
この世の不幸を一身に背負ったかのようなオーラを漂わせながら、東堂は実にどうでもいい理由を述べる。
一花は拳を震わせ、手に持っていたダスターを振りかぶった。
「そんなくだらない理由で、店を閉めるなーっ!!」
「べふっ」
東堂が顔を上げた隙を狙って飛んで行ったダスターは、見事その顔面に直撃した。
「もう、東堂シェフはメンタル弱すぎますよ!? そんな事で凹んでいたら、お店が続けられませんからね!」
「だが、推しの女優が……」
「恋愛ドラマ見てればキスシーンの一つや二つ、出て来るでしょう! もう観るな!!」
一花の一喝に東堂はヘニャリと情けなく眉尻を下げ、瞳を潤ませる。今にも泣きそうだった。
東堂 歩は一花が出会った時から一貫してこのような人間である。本場フランスで修行を積み帰ってきた新進気鋭の若手天才シェフはーー超絶激弱メンタルの持ち主であった。
寝癖が直らないと言っては嘆き、道で犬に吠えられたと言っては凹み、コンビニの店員に冷たい目で見られたと言って落ち込む。そういう非常に面倒臭い性格の持ち主だ。
しかしノっている時の彼が作る料理は筆舌に尽くし難い美味しさであり、その味わいたるや天上の神々も食べたことがないだろうという絶品だった。
何を隠そう一花もこの料理の味の虜になりこうして店でバイトをすることに決めた。
だから一花は今日も今日とて、この面倒臭いシェフのやる気を引き出すべく奮闘する。
「シェフッ! こういう時は料理、料理のことだけを考えましょう!!」
一花は東堂との約半年にわたる付き合いの中で、彼の取り扱い方法を熟知していた。
東堂は余計なことを考えている時はネガティブでやかましい奴だが、料理の世界に没頭しだすと凄まじい集中力を発揮する。一切の雑念を頭から追いやり、ひたすらに料理のことだけを考え、調理に邁進することができるのだ。
そんなわけで一花は東堂の前に、先ほど届いたばかりの新鮮なお野菜たちをどどんと箱で置いた。
「見てください、この美味しそうな武蔵野のお野菜たち! 今日はトマトの出来がいいって、配送にきたおじさんが言ってましたよー。国分寺の畑で丹精込めて育てたお野菜ですって」
「…………」
「今年は豊作らしくって、サービスしてくれたんです。それもこれも東堂シェフの腕がいいおかげですね!」
「…………」
「ホラッ、これなんて最高に美味しそうじゃないですか? あー、東堂シェフがこのトマトを美味しく調理するところを見たいなぁ!」
一花は半ば無理やり東堂の鼻先にトマトを押し付け、見せびらかした。
東堂はそんなトマトを一つ、繊細な手つきでそっと一花の手からすくい上げた。
トマトは店の窓から入る光を浴び、その真っ赤な表面にツヤツヤとした光沢を与えていた。
店で使う野菜たちは地元武蔵野の農家から仕入れている。
ここで言う武蔵野というのは武蔵野市のことではない。明確な定義はないのだが、埼玉から東京までの武蔵野台地一帯を指し示す言葉らしい。東京と言えども二十三区を飛び出し西に行くにつれて田畑の広がる地域も珍しくなく、そこでは四季折々の野菜や果実を育てる農家もそこかしこに存在しており、地元の小学校の給食などでも武蔵野の野菜が使われたりしている。
夏にはトマト、とうもろこし、枝豆、かぼちゃ。
冬にはネギや大根、白菜など。
果てには巨峰やシャインマスカット、キウイフルーツ、ブルーベリー、梨なども生産されているのだから驚きだ。日本の中心地である東京の概念が覆される人もいるだろう。
東堂はそれら農家に赴いて、丹精込めて作った野菜を実際に確認して契約しているのだ。そうしたところにも東堂のこだわりが透けて見える。
身近な場所で作られている新鮮な野菜を新鮮なうちに調理する。小さな店だからこそできる事だ。一花も地元農家の野菜を配送のおじさんから受け取るのは日々の楽しみであり、箱を開けた時の新鮮な野菜と少々の泥臭さが鼻腔いっぱいに広がるのにえも言えぬ嬉しさがあった。
「…………ふむ」
東堂の目つきが変わったのを一花は見逃さなかった。
「このかぼちゃと、こっちのいんげんもどうですか?」
言って次々に綺麗に箱に詰められていた野菜を東堂の目の前に置いて並べた。どれもこれも素晴らしい。ハリがあってみずみずしく、「今が旬だよ、食べてくれ!!」と言わんばかりの出来である。ちなみにかぼちゃはハロウィンのイメージのせいか秋が旬だと思われがちだが、実は夏野菜だ。
夏に採れたかぼちゃというのは水分が多くあっさりとした味わいで、追熟させると甘みがぎゅっと詰まったかぼちゃになる。
東堂は並んだ野菜を一つ一つ吟味し、それから自らしゃがんで箱から野菜たちを取り出してカウンターの上へと置いた。顎に手を当て、じっくり眺めている。
これを逃す一花ではない。
東堂のやる気を着火させるべく、次に冷蔵庫を開いてチーズの塊をどーんと出した。
「ホラッ、先ほど届いたこのカマンベールチーズも! どうです? こんなに丸々として綺麗な白カビのついたチーズなんて、滅多にお目にかかれるものじゃないでしょう?」
「おぉ…………!」
東堂の目に、輝きが戻る。一花はトドメを刺すべく厨房に移動し、巨大な寸銅なべの蓋を持ち上げた。途端に厨房中に濃厚なデミグラスソースの香りが充満する。
「あー、シェフが三日かけて仕込んだ渾身のデミグラスソースも、出番を待ち望んでいますよ! どうです? 店を閉めたらこのソースの行く先がなくなってしまいますけど」
「! それはダメだ!!」
東堂は叫んだ。
デミグラスソースの寸銅なべの前に大股で歩み寄って、おたまを持ってその出来具合を確認する。とろりとした茶色いスープは様々な材料の旨味を凝縮し、おたまから滝のように流れ出る。
見ているだけで涎が出るような光景だった。
それから東堂はカウンターに目を走らせ、カニのように横歩きでカサカサと歩いて移動し食材を見つめる。右手でトマトを手に取り、左手でカマンベールチーズを握ってから目を閉じた。そのまましばし時が流れる。
数十秒、数分が過ぎ、微動だにしない東堂を一花は見つめる。一花は知っていた。この状態の東堂は、頭の中で恐るべき勢いで様々なレシピを考えているということを。今店にある食材でどのような料理を作ればいいのか……高速回転する脳みそで弾き出しているのだ。
やがて東堂は目をかっと見開き、腹の底から声を出す。
「閃いたぁ!!!」
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