怪しい噂

第1話 早朝の職員室

 少し肌寒さが残る春。益荒男高校では新学期の初日を迎えていた。そんな日は生徒たちが浮き足立ち、心なしかいつもより学校が賑やかになる日である。とはいえまだ早朝。校舎にいる生徒の数は多くなかった。



 教室のある本館から職員室のある別館へと続く渡り廊下を歩く青年がいる。


 整った顔立ちで学ランも着こなしている。ホックは外しているあたり、校則への意識は低いように見えるが許される着崩しの範囲なのだろう。彼を注意する者はいなかった。


 彼の名は宍戸裕次郎。この春から三年生となる。そして万年学年一位に君臨する優等生なのだ。


 宍戸は職員室の前に来ると、指の骨を鳴らし、手を職員室にかける。


「さっそく潜入だ」


 建てつけの悪い扉を開くと静かな職員室内に大きな音が響く。しかし宍戸にとってそれは些細な問題に過ぎなかった。


「失礼しまーす」


 宍戸が一歩踏み込もうとすると、ちょうど廊下に出ようとしたのか、死角から志摩一成が姿を現した。


「お、宍戸じゃないか」

「志摩先生! おはようございます」


 志摩一成は一年生と二年生の時に宍戸の担任だった先生だ。担当科目は数学。生徒思いの性格だが、始業式の日にジャージで来るような人だ。その辺りへの意識は薄いのだろう。


「おはよう。今週末のテスト、お前に今度こそ百点を取らせないような問題を考えたから。楽しみにしとけよな?」

「本当ですか? 俺完璧に解いちゃいますよ?」

「いいや、そんなことはさせない。どんな不正をしてでもお前にはもう百点を取らせたくない。たとえ職を失おうとお前を倒す!」

「定期テストの趣旨変わってません?」

「退学の準備をしておくんだな」


 志摩は宍戸の額にデコピンをし、その場を去って行った。そんな彼の背を見送りながら、宍戸は冷静にツッコミを入れた。


「いや、不正してでも百点を取らせない先生の方が危ういだろ。ま、俺も先生のことは言えないからな。さてと、じゃあまずは志摩先生のデスクはっと……お、あっった」


 目的地である志摩の机へたどり着く。数学の教科書や課題プリントで散らかった机だ。学年が変わり、教員らの机の位置も変わったわけだが、探すのに苦労はしなかった。


 宍戸は周囲に他の人がいないか確認する。職員室に自分しかいないことがわかると、静かにガッツポーズをした。


 彼はこの時をずっと待っていたのだ。


「えーっと、志摩先生は一体どこに模範解答を隠しているんだー?」


 彼は学年一位に君臨していると同時に、模範解答盗みの常習犯だった。ある意味、それが学年一位たる所以である。

宍戸は机の引き出しを下から順に開け、中身を漁る。しかし獲物は出てこないようだった。


「随分と汚い引き出しだなあ。新聞に、きのこの山、古臭い教科書、たけのこの里、メガネ、パイの実……」


 出てきたものを机の上のプリントの上に載せて、首を傾げる。


「なんだこのラインナップは」


 結局、模範回答は見つからなかった。出直すしかないと宍戸は考え、散らかしたお菓子などを引き出しに戻そうとした時だった。


 職員室の扉を開く音が聞こえた。


 教員か、生徒か。そんなことは宍戸にとって問題ではなかった。誰だろと学年一位の優等生が誰もいない職員室で机を漁っている絵面はまずい。


 宍戸はすぐさま志摩の机から距離を取る。


「あら」


 しかし訪問者は彼の様子に気づいていたようだった。並べられた机の間を縫って、その人はゆっくりと宍戸に近づいてくる。


 宍戸はどう言い逃れをしようか考えていたが、良い案が思い浮かばない。とにかく目を合わせることができなかった。


「宍戸、裕次郎くんよね?」

「は、はい。そうですけど」


 不意に自分の名前を呼ばれて反射的に返事をしてしまう。それと同時に初めて彼女の姿を見た。スーツを着ているので、おそらくこの学校の教員、もしくは関係者であることは間違いないだろう。しかし宍戸は彼女が一体誰なのか分からなかった。


 タイトスカートの裾から伸びる黒いタイツの脚はどこか艶かしく、潤いのあるリップからは色気が感じられた。まさしく大人の女性といった風貌だ。


 宍戸の記憶にそのような女性はいない。その筈なのに、彼女は宍戸の名前を知っている。


 既に頭がパンクしそうなのに、混乱材料が増えてしまっていた。


「ふーん……」


 その女性は視線の先を宍戸の上から下へと移す。


 この状況に耐えることができず、宍戸は頭の中だけで考えることを放棄した。


「何ですか。あと、誰ですか? どうして俺の名を?」

「もう、一度にたくさん聞かないの。女性を困らせちゃダメよ?」


 彼女は宍戸の手の甲に自分の手の甲を当てながら、腕を撫で、肩に手のひらを持ってくると、人差し指で宍戸の頬を突いた。


「一つだけなら答えてあげるわ。あなたが私について一番知りたいことは何?」


 一言一言を放つごとに動く唇から宍戸は目を離せなかった。全て

お見通しだと言わんばかりの所作に、宍戸は何を尋ねればいいか分からなかった。


「何者か……教えてください」


 と、結局思いついた質問はそれだった。


「そんなに私が気になるのね?」

「いやそういうわけじゃ」

「いいわよ。あなたのために教えてあげるわ。私は汐崎美里。今年度からこの学校に赴任した国語科の先生よ」


 汐崎美里という名前をしっかりと咀嚼する。あながち間違った質

問ではなかったのだと思った。いくつか合点がいくことがあったのだ。


「新しい先生だったんですね、……通りで知らないはずだ」

「まあでも、あなたなら私のこと先生じゃなくて美里って呼んでもいいわよ」


 汐崎の唇が宍戸の耳元へ近づく。湿り気のある吐息が彼の鼓膜を刺激した。


「は? え?」

「ふふ、冗談よ」

「教師が生徒をからかわないでくださいよ!」

「志摩先生はきのこの山、たけのこの里、パイの実が好きなのね」


 汐崎は宍戸から離れると、散らかった志摩の机に視線を向ける。


「……みたいですね」

「何をしてたかわからないけれど、黙っておいて欲しかったら大人しくしておきなさい」


 汐崎は宍戸の肩を両手で抑えながら、職員室の外に押し出す。肩が動かせないので宍戸は抵抗もできず、されるがままだった。


「え? ちょ、何をするんですか!」


 体が完全に廊下へ出ると、汐崎は一瞬宍戸に微笑みかけ、勢いよく職員室の扉を閉めた。


「えー……どうしよう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る