第51話 フィンリスの奇跡

 フィンリスの空気が、大きく揺れた。

 あたりの空気が振動し、同時に真っ赤な炎が出現した。


 ――ドッ!

 ――ドドドッ!!


 炎は次から次へと誘爆し、ついには建物に引火した。

 周囲一帯の建物に火が移るのは、一瞬のことだった。


 それは、通常ではあり得ない引火速度だった。


「フレアライト!?」


 リリィは炎が燃え移った〝シルバーウルフの死体〟を眺めながら吐き出した。

 シルバーウルフの胃袋の中に、可燃性のフレアライトが詰め込まれていたのだ。


 ある程度シルバーウルフが倒されたとき、誰かが使った火魔術が、そのフレアライトに引火した。

 結果は、ご覧の通り。

 周囲一帯が火の海に包まれた。


 建物だけでなく、フレアライトが飛び散った石畳さえ燃えている。

 これでは逃げることさえ出来ない。


「わ、わたしの……お店が……っ!!」


 リリィの店もまた、炎の魔の手を逃れることが出来なかった。

 いとも容易く燃え移った炎が、リリィの店をあっという間に炭にしていく。


 リリィの店は他の住宅よりも、火の周りが早かった。

 店の商品が魔術書――紙だったためだ。


 水魔術を使おうとしたリリィだったが、既に店の商品のほとんど火が燃え移っていた。

 完全に、手遅れだ。


「わたしの……商品が……」


 これまで努力を重ね蒐集してきた魔術書の数々が、あっさり焼失していく。

 そんな光景を、リリィは為す術なく見守ることしか出来なかった。


「皆さん、井戸の水を使うのです! 水を使って、火を消してくださいまし!!」


 そんな中、ルカの必死の声が響いた。

 その声を聞いて、魔物と対峙していた冒険者が一人、また一人と消火活動に加わっていく。


 井戸から伸びるバケツリレーは、すぐに長蛇の列となった。


 その光景を、リリィは見るともなく見ていた。

 ルカの指揮によって、冒険者が井戸から水をくみ上げる。その井戸の片隅に、ぷにぷにとした生物が固まって落ちていた。


 その生物は苦しそうに、体を震わせている。

 まるで助けを求めるかのように、ぴたん、ぴたんと触手を伸ばしていた。


 自らの店が焼けてぼんやりしていたリリィの思考が、その生物になにかしらの引っかかりを覚えた。


(あれは、井戸のスライム? なんで井戸の外に? それに、なんだか死にそう……)


「――ッ!」


 まじまじ眺めていたリリィだったが、とある可能性に思い至り、息を飲んだ。

 普段の回転を取り戻した思考が、可能性を吟味する。


 偶々閃いたとはいえ、まさか〝そんなこと〟があり得るのか? という思いが強かった。

 そこまでやるか? とも……。


 しかし、考えれば考えるほど、それしかあり得ないと思えてくる。


 そもそも、シルバーウルフの大群がフィンリスを襲撃したこともおかしいのだ。

 入れないはずの市内への魔物の侵入に、胃袋の中のフレアライト。


 この状況をつなぎ合わせ、引き起こされる事態と人の動きを考えた場合。

 ――最悪の状況を生み出す可能性とはなにか?


 確信を得たリリィは、咄嗟に叫んだ。


「そ、その井戸水を使ってはダメ! それは……くっ!」


 しかし、リリィが声を上げるタイミングは、あまりにも遅すぎた。

 リリィは急激に体が痺れ、声が出なくなった。


 それと同時に、ガクンと膝から崩れ落ちる。


 井戸水をくみ上げ、バケツリレーで消火活動が行われている。

 燃える家屋に投げ込まれた水が、炎によって蒸発していく。


 その蒸発した水蒸気が、フィンリスの人々の呼吸器に入り込む。

 ――もしその井戸水に、毒が投げ込まれていたら?


 水蒸気によってフィンリスの住民が倒れていく。

 体の自由を失った人たちは、炎と魔物の手によりじわじわと殺されていく。


 炎で焼け死ぬか、魔物に食われて死ぬか、未来は二つに一つしかない。

 なんと、悪魔的な策略か!


 毒の可能性に思い至ったリリィは、素早く体内で魔力を練り上げ抵抗力を高めた。

 しかし呼吸するだけで毒物が摂取されてしまうため、全く中和されない。


 姿を現わした死神を前に、リリィは強く奥歯を噛みしめることしか出来なかった。


(こんなことで、死ぬなんて……)


 下準備をしっかり行えば、低級ドラゴンさえ倒せるだろうBランク冒険者が、まさかシルバーウルフと火の手だけで、あっさり死んでしまうとは。

 なんとあっけない。


 一滴の雫が、リリィの頬を濡らした。


「……ん?」


 水蒸気によって毒物が拡散したことで、既にバケツリレーは終了している。

 水を運ぶ者は誰もいない。


「あ、め?」


 もくもくと黒い煙が上る空は、憎らしいほどの快晴だ。雨が降る気配はない。

 では、この水滴は?


 疑問を抱いたリリィの目に、その答えが映り込んだ。


 いつの間にか現われた少年が、火の手が上がる建物に向けて、手の平から水を放出していた。


 水が放たれると、焼けた建物がアッという間に鎮火していく。


「あ……ありえない」


 フィンリスの建物はほとんどが木造だ。

 火災が起こると、水をかけてもすぐには鎮火しない。

 なのに、少年の水は建物の火をあっという間に消し去っていく。


「そんな。なん……えっ?」


 そこで、リリィははたと気がついた。

 先ほどまで身動きが取れなかった体から、痺れが消えているではないか!


 恐る恐る体を起こし、体の感覚を確かめる。

 間違いない。体が復調している。


 でも、何故?


 リリィは己の手を眺め、先ほど雫が落ちた頬に指を這わせた。


「……まさか、神の聖水!?」


 神の加護を受けた水は、様々な効果を持つ。

 とはいえ、聖水を使ったからといって、強力な術理が働くものではない。

 効力はあくまで、不利な状況を改善するサポート程度だ。


 しかしながら、この場面においての聖水使用は、まさに絶好のタイミングだった。


 聖水のサポート効果によって鎮火力が底上げされた水が、次々と火を消していく。

 また気化した聖水が広がることで、フィンリスを覆っていた毒の空気が一気に中和された。


 毒物を吸引しなくなったおかげで、リリィの中和力が毒の浸食を上回った。

 立ち上がったリリィは、カツンと杖で石畳を叩く。


 瞬間。

 穢れた空気が上空に送られ、新鮮な空気がフィンリスに流れ込んだ。


「……すっきり」


 綺麗な空気で深呼吸すると、ずいぶんと気分が良くなった。

 死を前に、完全に諦めていたリリィはもういない。


 いまは逆に、〝なんとしてでも生き延びてやる〟という気迫に満ちていた。

 それもそのはず。

 目の前で、高価の聖水をあれだけ大量に、惜しみなく振りまく若枝の少年を見れば、人生の先輩として、冒険者の先輩として、黙ってなどいられるはずもない。


(あの少年の名前は、たしか……)


 リリィはすぐに思い出し、再度深く胸にその名を刻み込んだ。


 世界で唯一であろう〝ノネット〟の少年。

 ――トールの名前を。

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