あの日の約束

紗織《さおり》

あの日の約束

 「おはよ!朝だよ~、蓮君。お・き・て!」

 毎朝、朝食の準備が終わると甘く優しい声と共に、恋人の美晴が僕の枕元まで起こしに来てくれる。


 「ねぇ、先に朝ご飯食べ始めちゃうよ。もう起きてくれないと、会社に遅れちゃう時間になっているんだからね。」

 そう言うと、美晴は居間の方に歩いて戻って行った。

 

 「う、う~ん。はい、今起きます。」

 朝が弱い僕は、目を擦りながらなんとか上半身を起こして布団から出ると、そのまま居間へ向かった。


 この幸せな朝を迎えている僕の名前は、小林 蓮。社会人3年目の26歳。

 そして、可愛らしい声の持ち主の名前は、鈴木 美晴。僕と同じく社会人三年目の24歳。年齢が違うのは、僕が大学院を卒業してから就職しているから。


 居間のこたつまで歩いて行くと、向かいには既に美晴が座っている。

  

 「おはよ、美晴。それじゃあ、いただきます。」

 向かいに座ると、僕は笑顔で挨拶をして朝食を食べ始めた。


「偉い。ちゃんと起きてきたね。はい、いただきます。」

 美晴も挨拶をすると少し急ぎながら朝食を食べ始めた。


「ねえ、蓮君、今晩の約束ちゃんと覚えている?私も頑張るから、蓮君も頑張って早めに来てね。」

美晴が約束の確認をしてきた。


「今晩?ごめん、何か約束していたんだっけ?」

僕が少し驚いて聞いた。


「いやだ、忘れちゃったの?この間ちゃんと約束したじゃない。

あの日は頑張って眠らないようにって、私コーヒーまで飲んで、蓮君の帰りを待っていたんだからね。」

美晴が少しほっぺを膨らませながら言った。



 まずい!美晴が夜中にコーヒーまで飲んで待っていてくれたなんて、これはかなり大事な約束だぞ!

 そう、カフェインに弱い美晴は、普段夕方以降にカフェインが入った飲み物をほとんど口にしない。何故かというと、もしもそれを飲むと、夜中に目が冴えてしまって、なかなか眠れなくなってしまい、結局翌日寝不足になってしまうからだ。


さて、困った。約束を思い出せないぞ、どうしよう…。


「今日の待ち合わせに来てくれなかったら、本当に私、怒るんだからね!

 それじゃあ先に会社に行くね。行ってきます。」

 既に着替えてから食事をしていた美晴が、朝食の食器を流しに運ぶと、会社に行ってしまった。


どうやら怒っているようだ。


 …どうしよう…

 

 自分も急いで食事を終えて、食器を流しに運んだ。


 そう言えばこの間機嫌が悪くなった後で、食器が流しに残っていたのを見つけて、『いっつも私ばかりが皿洗いをしている気がする。』って怒りながら皿を洗っていた事があったな…。よし、今日位ちゃんと洗ってから出掛けるぞ。


(会社に行く前に家事を一つするだけで、結構時間って使うんだな…。)

 慣れない皿洗いに思いのほか時間が掛かる。慌てて落としそうになったカップを握り直して水切りラックに並べる。


(まずい、急がなきゃ遅刻だ。)

大急ぎで会社に行く準備を終えて、家から飛び出して行った。


通勤電車の中で、彼女が話していた約束を思い出そうとした。


(コーヒーを飲んでいたのがポイントだな。)

彼女が僕の帰宅した時に元気で起きていたのは…?


そうだ!1週間位前にあったぞ。

『今日はね、大事な話があるから、コーヒーまで飲んだんだよ。』って言っていたじゃないか。


僕がかなり遅くに帰宅した日で、疲れていたからかなり眠かったんだよな。

そうそう、あの時僕の肩に寄りかかってきた美晴ちゃん、可愛らしい笑顔だったよなぁ…

「ねぇ蓮君、ちゃんと聞いてる?」

そんなきょとんとした顔をしながらクリクリの瞳で見つめるなんて、絶対反則技だよ!


僕は、反射的に思わずキュッて抱き寄せた。

でもそのままキスをしようとしたら、


「蓮君、駄目だよ。お話が先でしょ。」

そう言うと、美晴が軽く顔を離しちゃうから…。

ちょっと悲しくなったんだったなぁ…。


こんなに可愛い状況の彼女が目の前にいて『待て』をされた男の気持ち、全然わかってないんだよなぁ…って。


だからかな…そのまま話を聞いていたはずなのに、結局眠気に勝てなかった僕が途中で寝ちゃったんだよな。


でも…、

「ねえ、今の話ちゃんと聞いていてくれたよね!」

少し怒った美晴の声に反応して、慌てて

「うん、大丈夫。最後だけちょっとウトウトしただけだから。」

なんて思わず答えちゃったんだよ。


あの日は、結局何も無く眠ったんだったな…。美晴の話をちゃんと聞けていたら、きっとそのまま楽しい夜になったはずだったのに…。

はぁ、今考えても眠気に負けてしまったあの時の自分がもったいないって思うよ。


あれ?

よく考えてみると、平日の夜遅くに美晴ちゃんがあんなにキラキラした目をして起きていたのって本当に珍しい事だったよな。


いっつも何とか頑張って起きていますって感じだもんな。

僕が帰ってくると、嬉しそうに『お帰りなさい。』って言って出迎えてくれるけれど、それが彼女の最後の頑張りなんだよな。


夕食を食べている僕の隣で、彼女は横になりながら食事が終わるのを待っているんだ。

でもほとんど毎日そのままこたつで寝ちゃてて、僕が食後に起こすか、起こしても起きない時は、布団まで運んであげているような状況だもんな。


改めてこうやって考えてみると、美晴ちゃんって、そんなに疲れているのに、夕食をいつも準備してくれて、僕の帰宅や食事をするのを毎日待っていてくれるなんて、本当に優しいよなぁ…。


(うわぁ、まずい!?もう降りる駅に着いてるじゃないか!)


「すみません、降りま~す!」




仕事で忙しく過ごしていると、約束について考える時間などあるはずも無く、あっという間に昼休みになってしまった。


(…まずい、あと半日しかない…)

こうなったら、社員食堂の一人席でランチをしながら思い出そう!


僕が眠る前の事を何か思い出さなきゃ…。


そうだ!僕がキス出来なくて、悲しい顔をしていた時、

「蓮君、そんな顔しないの。」

って言いながら、美晴ちゃんがおでこに優しくキスしてくれたんだった。


それで…、

「えへっ、こんな風に私からキスするのってあの時以来かもしれないよね。」

って照れながら言っていたんだっけ…。



…あの時?…


そうだ!思い出したぞ!

今日の待ち合わせの場所で、美晴ちゃんが初めて自分から僕にキスをしたんだって恥ずかしそうに話してくれていたじゃないか!


やったぁ!僕本当によく頑張った!


よぉし、じゃあ、待ち合わせに間に合うように、午後の仕事を全力でやっつけて早く帰るぞ!





ここは、二人が通っていたA大学。

今日は、クリスマス・ツリーの点火祭。


イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスまでの4週間を、教会暦では待降節と呼ぶ。この待降節の期間は、世の光として生まれ給うた救い主を迎えるための、大切な季節。その喜びの季節に入ることを心に刻むために、アドヴェントの前の金曜日に、クリスマス・ツリーの点火を行っている。それが点火祭の起源。


まず点火祭では、夕方からチャペルで、学生によるハンドベルやゴスペルのコンサートが行われる。

そして、銀杏並木の奥にある大きなモミの木がクリスマスイルミネーションを施されて、このコンサートの後に点灯するのである。

毎年多くの学生がカップルで点火祭に参加し、二人で幸せな時間を過ごしている。


そう、この点火祭の日に学生時代の蓮と美晴は、付き合い始めたのだった。



美晴の約束の内容は、今年の点火祭の日時を友人から聞き懐かしく思い、あの夜コーヒーまで飲んで、蓮とまた見に行ってみようと張り切って誘っていたのだった。


さすがに仕事をしている二人は、夕方のコンサートから参加する事は出来ない。

だから点火祭が終わり、人気も少なくなってきていたクリスマスツリーの前で、美晴は蓮の事を待っていた。


「蓮君、本当に約束を覚えていないのかな?そう言えば、あの日は随分眠たそうにしながら話を聞いてくれていたもんなぁ。どうしよう…。もう帰った方がいいのかな?


でも、もう少しだけ、待ってみよう…。」


約束の時間を過ぎてしまっても現れない蓮の事を待っていた美晴の前に、人影が近づいてきた。


「ごめん、美晴ちゃん。遅くなりました!」

両手を合わせて、ごめんのポーズを頭の上に作り、お辞儀をしながら蓮が美晴の前に登場した。


「頑張ってもっと早く来ようと思っていたんだけれど、結局こんな時間になっちゃった。本当にごめんね。」

蓮がまた謝る。


「ううん、大丈夫。来てくれてありがとう。」

美晴が嬉しそうに答えた。


謝っていた蓮が顔を上げ、美晴の笑顔を見て嬉しそうに言った。

「美晴ちゃんは、やっぱり僕の天使だ。大好きです!これからもずっと一緒にいて下さい。」


「蓮君、覚えていてくれたんだね。嬉しい…。」

美晴がさらに嬉しそうに笑った。


「今日は、笑ってくれたね。」

蓮が嬉しそうに答えた。



そうさっきの蓮の言葉は、『やっぱり』以外、蓮が美晴に告白した時の言葉だった。


告白された美晴は、驚きとあまりの嬉しさで言葉も無く、その場に立ち尽くしていた。そして溢れ出てきた涙を両手で覆い隠すようにしていた。


しかしその姿を見て、彼女は困惑して悲しんでしまっていると勘違いして俯き、落ち込んでしまった蓮。


そんな俯く彼を見て、誤解をさせていると気が付き慌てた美晴。

そうじゃないと伝えるために、必死に美晴は自分から彼の頬にキスをしたのだった。


そして、

「…ありがとうございます。…私も、ずっと先輩の事が大好きでした…。」

涙でとぎれとぎれになりながら、ようやく言った美晴の返事だった。


こうして二人は付き合い始めた。

それから3年…。


(あの日の思い出を、蓮君も大切に覚えていてくれた。)

美晴はそう思うと、とても幸せな気持ちになっていた。


「僕ね、今日の約束を思い出そうと色々頑張ったおかげで、美晴ちゃんが自分にとって大切な存在なんだって再認識できたんだよ。

あの時よりもっと、も~っと美晴ちゃんが大好きになっているよ。」


「ありがとう蓮君。

でもね、私も蓮君に負けない位大好きなんだよ。」


昔より自分の気持ちを伝えるのが上手くなったのは、二人の幸せな年月の積み重ねのおかげだろうか?

仲良く腕を組んで、そのまましばらく二人でクリスマスツリーを眺めていた。

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あの日の約束 紗織《さおり》 @SaoriH

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