青い影【彼女は幻】
ジョン・グレイディー
第1話 朧げに見える島影
「健ちゃん、また、その曲、流すんかい?
遊漁船には合わないよ~。」と
陽介が舵を握りながら、背後を振り返り、健人を見て、苦虫を噛み潰したように吐いた。
「海は演歌と決まっとるでぇ!うちの客も暇な年寄りと公務員や!客が嫌がるって!」
陽介はうねりを警戒するよう若干、船の速度を落としながら、健人に言ったが、
「しゃぁ~ないなぁ~」と
笑いながら言い、前を向き直した。
健人は、操舵室の後ろの丸椅子に座り、無線用のスピーカーの前に自分のスマホから英系ロックを流していた。
今、遊漁船は豊後水道のど真ん中をひたすら北西に進み続けていた。
今日のポイントは、山口県祝島沖から18kmの沖合で、南西に大分県姫島が見える位置であり、愛媛県伊予港近くの桟橋を午前5時に出港し、約2時間を要する所であった。
今日は、7月7日、晴れ、最高気温35度と夏日の天気予報であり、海を走る船上の気温は、午前6時時点で既に30度に近づこうとしていた。
また、海上の風は西寄りの風2m、波の高さは1.5mと可もなく不可もない釣り日和であった。
今日の客は、常連客で年金生活の年寄りが3人、それと県庁職員の釣り同好会のメンバー4名の計7名であった。
陽介らの遊漁船の船名は、「正栄丸」で陽介の父親から船名もそのまま引き継いでいた。乗員数は10名であり、遊漁料金は、餌のジャンボ(オキアミ)込みで、1人1万円であり、道具もレンタル可というシステムであった。
漁場は、主に愛媛県の伊予灘、大分県の豊後水道を主とし、主な獲物は、春は真鯵、夏はムロ鯵とイサキ、夜のケンサキイカ、秋は鯖と真鯛、冬は鰤、ヒラマサ、そして、近場の磯でのクロ(メジナ)、アオリイカを狙う。
出港して1時間、既に県職員の1人は船酔いし、船のエンジン室隣の休憩室で、真っ青な顔をし横たわっていた。
そんなことはお構いなしに、遊漁船はガッタンガッタンと船底を海面に打ちつけながら、うねりを越え、ポイントを目指して突き進んで行った。
午前7時、遊漁船はポイントに到着した。
陽介は船のエンジンを切ると健人に顎で準備を促した。
健人は徐に立ち上がり、操舵室を出て、船首に向かった。
そして、船首の錨鎖を杭から外し、錨と一緒に海に投げ込み、錨鎖と結束しているロープを手繰りながら、ゆっくりと錨を沈めて行った。
健人は、錨が海底に到着したのをロープの緩みで確認し、その緩みが大きくならないよう急いでロープを手繰り寄せ、ロープをキツく杭に巻いていき、巻き終えるとロープの先頭を一広取り、輪っかを作り、杭に引っ掛け、輪っかの中にロープの先を潜らせ、片足を杭に掛け、力一杯、ロープを引っ張り、海底の錨を固定した。
そして、健人は、操舵室の陽介に向けて、指でOKサインをし、準備が完了したことを知らせた。
サインを確認した陽介は、音楽を消して、ソナー(魚群探知機)を見ながら、客にスピーカーで合図した。
「はぁ~い、80mまで落として!
今、魚が来てるからね、錘が底に着いたら2m巻いて、竿をしゃくってください。
しゃくらないと魚は食い付かないよ!
しゃくって、しゃくって、カゴから餌を出して~、
直ぐアタリがあるよ!」と
客達は早速、餌籠にジャンボを詰め込み、仕掛けを海に落とし行った。
仕掛けは、通常、アジ用の白サビキ針5号を使い、それに錘80号の付いた餌籠をフックさせるといったシンプルなものであった。
釣竿は、船釣り用の80号、長さ4mで、リールは、電動リールのサイズ600、PE糸200mを巻いたものがスタンダードであった。
電動リールの電源は遊漁船のものを使い、船縁に電極の備付けがあった。
本日の狙いは、今が旬のムロ鯵とイサキであった。
稀に、鯵のアタリが分からない客がそのまま鯵が食い付いたまま放って置くと、5キロ級の真鯛や90㎝級のヒラメが食い付くこともあった。
健人は、客の面倒見は陽介に任せ、自分の竿を取りに操舵室に戻った。
そして、船のスピーカーに自分のスマホを置き、英系ロックを再び流し始めた。
休憩室の県庁職員は、船酔いで死体のように横たわったままであった。
船首で客の面倒を見ていた陽介は、スピーカーから例の曲が流れ出すと、やれやれといった表情を浮かべ、
「まぁ~、あの曲、流さないと、健ちゃん、竿を出さないから、しょうがないか!」と呟いた。
遊漁船での健人の一番の役目は、客が釣れない時の為に、客のお土産用の魚を確保することであった。
健人は、操舵室から竿と仕掛けを掴み、いつもの定位置である操舵室出口の船縁に竿を下ろした。
餌籠にはジャンボを詰めず、錘だけ仕掛けに付けて、海に落として行った。
健人は、客とは違い、籠餌からの撒き餌は行わず、リール糸をひと摘みし、それに左手の人差し指を引っ掛け、サビキ針に食い付く魚の微かなアタリを指の感触で探るのだった。
魚を寄せる撒き餌は、客の撒く分で十分であった。
健人は幼少期から釣りが好きな少年で、小学生の時は、家から自転車に乗り、近くの防波堤に釣りに行っていた。
中学生になると釣り好きの父親に連れられ船釣りを初め出した。
高校時代は、野球部を退部してからは、やはり父親と一緒に毎週のように船釣りに出かけた。
健人は、三半規管が麻痺しているかのように、どんな高い波の日でも船酔いしたことはなかった。
また、他の客が全く釣れない時でも健人だけは必ず魚を釣った。
いつも健人の隣で糸を垂らす父親は、何故、健人だけが魚を釣り上げるのか全く分からなかった。
遊漁船の船長はそんな健人を見て、首を傾げながら、よく父親にこう言っていた。
「あんたの坊主は龍神様みたいじゃ。魚が勝手にやって来とるわ。
わしも、平日は漁に出るが、あんたの坊主みたいには釣り切らん。」と
健人は、錘が海底に着いたのを竿先で把握し、リールを巻くこともせず、糸出しだけを止めて、竿を竿留めに固定した。
次に健人は、徐にカッパのポケットから角瓶のクォーターボトルを取り出し、一口飲み、シャツの胸ポケットに入ってるショートホープの箱から一本抜き出し、口に咥え、ジッポライターで火をつけた。
そして、健人は角瓶をもう一飲みし、ショッポを咥え直し、口から紫煙をくねらせながら、目を瞑った。
後藤健人、30歳、独身、大学卒業後、大手のIT企業に入社し、東京で2~3年間勤めたが、鬱病を罹り、会社を辞めて、故郷の愛媛に戻った。
故郷、愛媛の実家に戻った健人は、無職のままで、毎日、酒を浴びる日々を送っていた処、今から2年前、偶々、居酒屋で幼馴染の下野陽介に出会った。
昔話をしながら意気投合するうちに、現在、健人が無職であることを知った陽介は、自分は、近々、父親から遊漁船業を引き継ぐ、そして、今丁度、相棒(助手)を探している、是非、一緒にやらないかと持ちかけられ、今に至っていた。
生活費は、陽介から毎月、サラリーマン時代の給料からすると、3分の1程度の小遣い銭(賃金)を貰い、食費は実家を頼り、小遣い銭は専ら酒代へと消えて行った。
今、大海原で健人が行なっている瞑想は、毎回、釣りを開始する前のルーティンであった。
ただし、その表情は、眉間に皺を寄せ、目をぎゅっと固く瞑り、口元は歯が折れんばかり閉ざされていた。
その表情からして、瞑想により引き出そうとする一般的な目的、「心を無にする」、「神聖で平穏な気持ちになる」、「リラックスをする」といったものではないことは、火を見るよりも明らかであった。
健人は、屈辱感、恥辱感、絶望感、失望感、無力感、そして希死念慮といった負の感情を心の内から消し去るための手段として、彼が苦悩の縁で辿り着いた、
「怒り」のエネルギーを再生するために行なっていた。
健人が日常の生活の中で、唯一「自然」と真っ向面に対峙することができる、この瞬間に
彼は暫しの瞑想を終え、固まった瞼をゆっくりと開き、
真夏の太陽の陽射しに赦しを乞うかのように水蒸気を上げ続ける海面と、
その先で、蜃気楼の中に写っているかのように、朧げに映る島影を見つめた。
そして、そこに彼女の顔を重ね浮かべた。
「佐野詩織」のことを。
今は、「城下詩織」と名字を改め、元衆議院議員を父親に持ち、地元の市役所に父親のコネで入った男と結婚した昔の恋人を思い出していた。
やがて、健人は、
「仕方ない」と一言呟き、
咥えたショートホープを指で摘み、海の中に弾き飛ばし、竿を持ち、2、3回、大きくしゃくった。
遊漁船のスピーカーからは、相変わらず場違いな英系ロックが流れていた。
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