凍 微糖
@Talkstand_bungeibu
第1話
雪にまみれたコンクリートの上に寝そべり、かれこれ1時間以上が立っていた。寒いという感覚だけはあるが、もうすぐそれもなくなっているのかもしれない。すべての感覚がなにしろマヒしているようだった。
寝返りをうちたくなり、首を動かすと、自分の歩いてきた足跡が雪によって消えていることがわかった。
自分のこれまでの人生も消えていくように。
地面が動いているのを見て、私が誰かに引っ張られているのを感じた。口の中に雪が入り込んでいく。
しばらくしてから、僕はとある店の軒下に連れていかれたのが分かった。
私を連れて行ったのは60前後の浮浪者のようだった。
「行き倒れがでると見回りがうるさくなるんでな。どっか別のところで野垂れ死んでくれ」
そんなことを言われたが歩ける自信はなかった。筋弛緩剤を打たれたように体は脱力しきっていた。
「おいあんた、ここで死なれちゃ困るんだよ。名前はなんていうんだ」
私はシラキだと名乗った。
「じゃあシラキさんよ、もしよけりゃ生い立ちについてでも話してくれねえか。その後どっかに行ってくれりゃいい」
浮浪者は私の意識を保たせようとしているようだった。面倒ごとになりたくないのだろう。
そして私はこれまでの人生を話し始めた・・・。
8年前の私はとある会社で営業の仕事をしていた。その時のことはあまり思い出したくもない。もともと内気な性格な上に精神的に圧迫されるとあっぷあっぷになってしまう。体育会系の先輩にこきつかわれ、仕事が終われば連れだって飲みにいかなければならない仕事だ。
その日も酒におぼれて目を回しながら帰ってきた。吐き気を抑えながらベッドに横になり、右側を下にした。こうすると消化にいいときいたことがある。
こんなことじゃ鬱になる暇もなくアル中になるな・・・。そんなことを思い出しながら、すこし冷静さを取り戻して気づいた。書類!
明日までに仕上げなければならないパワーポイントの書類があったのだ。期限が今日までと言われていたが、毎日の疲れと休みの日の飲み会の中で後回しにしていたのだった。
なんとかノートパソコンの前に座り、少しでも仕上げようと文字を入力していくが、吐き気と頭痛が押し寄せ、使い物にならなかった。焦る。なんとかしないと。酒に酔って書類ができなかったと言えばどう言われるか分かったものじゃない。
しかし、神経はぼんやりとしていて頭が回らなかった。
ふとタスクバーを見てみると、パワーポイントの横にワードが目についた。
今考えれば現実逃避かもしれないが、書類の上に思いついたままに文字を走らせた。内容はエッセイのような小説のような、詩のようなサイエンスフィクションのような、ありとあらゆるものが混ざったものだった。
夜が明けるころ、私にとっての処女作が出来上がっていた。もちろん書類は手つかずのままだ。
飲み会の席で笑い話に、自分の上司にこのことを伝えた。上司は見せてみろ、という。なんでも文学部出らしい。仕事でもないしネタにでもしてくれればいいとコピーし、(ワードは保存せずに消してもわざわざ残してくれる機能があるのだ)翌日出社してみると、目玉クリップで止められた原稿を渡してきた。丁寧に赤ペンで校正がされてあった。
「主人公の見た妄想についてはありがちでこけおどしにすぎないが、生活している日常にはお前の伝えたいことが書いてあって生々しい。比喩表現には個性を感じた。もう一度書き直したらいい」これが評価だった。
本を読むなんてなにが面白いんだろうと考えていた自分がそんなことを言われるとは、それも普段褒めるようなタイプではない上司がだった。
校正には半年かかった。丁寧に行ったというのもあったが、仕事が忙しいというのもあった。なんせ営業先との遊びも休日のうちに入る業種だ。
「ずっと昔何かのコラムで読んだんだが」校正はずっとその上司にやってもらっていた。今思えば彼もよくやってくれたなあと思う。
「ある作家は。シングルマザーらしいが、娘を保育園へ送り、自分が朝食を食べて仕事へ向かうその30分の間に執筆するらしい。毎日毎日。その時に集中し、ノルマ分の原稿をあげるんだそうだ」僕が上司の言葉で記憶に残っているのは、この言葉と手に人と書かなくても緊張が取れる方法、麻雀で嫌われない勝ち方の3つだけだった。
そこから半年して私は仕事を辞めて、2年たって窮地に追い込まれていた。仕事を辞めた理由は出来上がった作品が抜群に売れたから、ということとさっき言った上司との喧嘩別れだった。
処女作「想念の坩堝」はコネクションが8割、実力が2割だった作品に思えた。その上司の取り計らいでころころと作品が出版され、増刷までかかった。だが、自分の生み出したものが評価される、ということがなかったからか、仕事の鬱憤がたまったせいか関係を断ち、その場の勢いで辞職することにした。
編集に頼まれ、雑誌へ短編を載せた。そこまではよかった。
一切言葉が現れなくなった。パソコンの前に立つ。キーをたたく。作品ができあがる。まるでだめだ。魅力も味もまったくない。文字を適当に打ち込むのと同じだ。
毎日パソコンの前に座り、3時間たって死にたい気持ちになり、コンビニへ行って酒を飲んで一日が終わった。
ラッキーパンチが当たっても第二ラウンド、第三ラウンドが残っているのだ。
「ひどい作品ね」
焼肉屋でイトダは言った。
「出来栄えじゃなくて、内容が」
ごくりとウーロンハイを飲んだ。前職ではあれだけ飲みたくなかった酒を今は欲しがっている。うまくはないが。
「家庭内暴力を振るわれた少女が男性と恋に落ちるが、その男は結婚詐欺師。借金を晴らすために自らも犯罪に手を染めるが、最後には捕まってしまう・・・。救いも何もないじゃない」
「自分でもいやになるよ」続ける。「でも思いついたのがそれなんだ」
「最初の作品はこんなことなかったじゃない」
「最初の作品はぬるかったし青かった。これが本当の作品だ」
「2年前まで芥川龍之介も知らなかったくせに」
火を前にしたイトダは綺麗だった。
「今のうっ憤を小説にぶつけてるようにしか見えないな」
「それのどこが悪いんだよ」
「プロ意識がない気がする。自分が酔っぱらってどうすんのよ。読者を酔わせなさいよ」
バスに揺られながらも、イトダの声が耳に残っていた。
確かに読んでも誰も喜ばない作品だ。暴力を描くにしても、そこにはなんの意味も背景もメタファーもない。ただの暴力だ。
何より自分が苦痛で仕方なかった。
暗く陰惨な人生の中で暗く陰惨な物語を描く。なんて暗く陰惨なんだ、と一人笑う。
それでも書ききったのは、書いては捨て書いては捨てを続けてはいられないと思ったからだ。
バスを降りると自転車に乗った女子高生がマスクの上からでもわかるほどの笑顔で通り過ぎていった。
スマホを触ったりハンズフリーのイヤホンをしていないらしい。なぜあんなに一人でも楽しそうなんだろう。
あんな笑顔がページの上から浮かび上がるような作品を書きたい。
そして人の心に自分の記憶を刻み付けたい。
そこで気づいた。今の自分は女子高生を眺めてぼーっとしている男だ。慌てて視線を戻す。
目の前には街灯が数本しかたっていなかった。
「どう、調子は」
「まるでだめだ」
イトダは部屋の中に入り込んで顔をしかめた。太ももまである本の山の塔と、こぼした酒のにおいと、カビの生えた生ごみがあちこちで見えた。
「まともに小説について勉強しようと思ったんだ。ぜんぜんだめだな」
「この本は?」
「泣けて笑える、って書いてあったが泣けもしないし笑えもしないどっちつかずだった」
「この本は?」
「ただ分厚いだけで紙の重しにしかならない紙の束だ」
「これは?」
「恋愛小説らしいがもてない男の妄想だ」
「できもしない自分の作品が一番美しい訳?」
顔に酒のつまみのカスがついているのにやっと気づいた。机の上に脱ぎ捨ててあった靴下でそれを拭いた。
「一度見ただけで美しさに震える文章」キャスター付きの椅子を回転させる。
「予想だにしない演出の演劇。口が開いて戻らなくなるトリックのミステリー。」
本の山。本の山。窓。イトダ。ノートパソコン。本の山。
「悲しすぎて自分も命を断つ恋愛小説。永遠にラストシーンのかからない映画。」
「子供みたいなことを言わないでよ」
「子供みたいかな」
天井を見上げた。電球を変える気力がないので暗いままだ。
「ナイフで傷つけるみたいに、トラウマを抱えるほどのグロテスクな画像みたいに、生理的に訴えかけるような小説があれば。少しはやる気がでるかもしれないな」
こんなことをいってさすがに呆れた顔をされるかと思ったが、イトダは何かを考えこむような顔を見せた。
「・・・元田はどこにでもいるような会社員の男だ。まさか彼がこの世にも奇妙な殺人事件にまきこまれるとはだれも思わないだろう。しかしまずは彼の凡庸な生活から語らねばなるまい。まず彼は朝7時に起床し・・・。」そこまで読んで彼は目をあげた。
イトダは殺人鬼が動物実験で使うモルモットを見るような目つきでこちらを見ていた。
「なんだいこりゃ」
「言ってたじゃない。読者に生理的に訴えかける本が欲しいって。それがその本」
手の中にある本を眺めた。カバーもなく、表紙には味気ないイラストが描かれている。出版社も見当たらないことから、自費出版かもしれない。ページ数も載っていないが、厚みからして200~300ページといったところだろう。
『真夏のようにつめたい 笹井 太』 これがタイトルと著者名らしい。
「ミステリーか?」
「さぁ」
「さぁって・・・。読んだんじゃないの?」
「メインの筋書きは殺人事件を追ったものだけど、それだけじゃない要素が複雑に絡み合ってる。まぁいいから読んでみてよ」
「・・・生理的に訴えかけるってところで履き違えているかもしれないけど、僕のこの前の作品を読んだろ?ただグロテスクな作品ならざらにある。興味がわかないな」
「まぁ読みたくないならいいけれど。私は普通に飲んで帰るだけでも」
そう言って僕の酒も勝手に注文して手渡してきた。
「一章だけ読んで考えてみるよ。わざわざ重い腰をあげてきたんだし」
駅のベンチで打ちひしがれていた。
これまでに経験したことがない体験だった。文章は平易なもので美しさもなく、むしろ普段なら鼻じらむほどのものだった。比喩は稚拙だし、筋は退屈な時代遅れぐらいだ。トリックは登場人物ができったところで見えるほどだった。
なのに。なぜこれほどまでに衝撃を受けるのかわからないが、その背景描写がイメージできた。ぞくぞくとした感動がわきあがり、胸の中になつかしさがこみ上げる。登場人物はありきたりなキャラクターなのに彼らの人生の苦しさも悲しみも伝わってきた。
ミステリーでありながら世界のありようについて描かれている、いや正確には文章として書かれてはいないがそれを感じることができた。大袈裟な言い方だが、一つのジャンルとして擁立されたといえるほどだった。
あまりに素晴らしい作品を見た時に感じる、こんな作品を読んだ後では自分のような存在が何も作ることができないという自己嫌悪と、逆になぜか自分でも生み出すことができるかもしれないという理由のない創作意欲が心に湧き上がってきた。
物語の余韻に浸りながら、星もない空を見上げていた。
それから数作作ったが、どれも「真夏のようにつめたい」を超えることはできなかった。何作かは文芸誌に載り、何作かは編集部預かりという形になった。私は重いスランプとやらを抜けることができたようだったが、どうしても心にはひっかかるものが残った。
何作か作品を読むにつれ、読者が読みたいと思うものを書くことができるようになっていた。自分の中で及第点をつけることができないものもあったが、売れっ子作家が原稿をあげられなかった時に載るようになった。
なにせ処女作が人気だっただけに、ネームバリューとしてはそこそこの価値があったのだろう。だが、「商品」を作っていくにつれ、自分の中での葛藤はどんどん深くなっていった。
「真夏のように冷たい」は、やはり大手の編集社で出されていないからか、まったく書店では見当たらず、担当してくれた社員の人に話をしても知っている人はまったくいなかった。
研究書や評論などを読んでなぜそこまでに魅力的なのかを探ろうと思ってみたが、まるでだめだった。代表的な技術やテクニックはまるで存在していないようだった。不安をかきけすかのように、何作も作品を書いたが、書けば書くほどにのどの渇きは増していくようだった。
制作にのめりこむようになっていくにつれ、イトダと会うことも少なくなっていった。もともと恋人でも友人でもない女なのだ。しかし日を追うごとにもう一度あの本を読みたいという気が増し、思い切って電話をかけてみたが、反応がなかった。
モリタは前会った時よりもずっとやせた姿をしていた。モリタは文芸界の唯一の友人と言ってもいい存在だった。キャリアは断然向こうの方が長かった。高校在学中に鮮烈なデビューを遂げ、人気の作家と言っていいほどの知名度をもっていた。ミニシアター系ではあったが作品が映画原作にもなっていた。彼の文章はバラエティ番組を見るように軽快でポップだが、読み終わったあとにずしんと後味の悪いものが残った。作るジャンルもキャリアも違ったが同い年ということもあり、世代に共通して感じるものがあるのだろう、しきりに連絡しては長電話をするような仲だった。
「まずそうだな、その飯」モリタの食べる病院食を眺めてそういった。モリタはまるで手を付けていなかった。
「まずくても口に入れないと体がもたんぞ」モリタの暮らすB棟は長期入院した患者のために作られたものらしい。同室の老人は全身をチューブでつながれていた。
モリタの表情はずっと険しいものになっており、40代や50代と言っても気づかれないほどだろう。文筆家に特有の陰鬱な性格でなくからっとしたタイプの彼とはまるで別人のようだった。数日前に連絡があった。彼の妻からだった。実は数週前から気を病んで入院しているとのことだった。仕事を休めば大丈夫かと思っていたが、まるでだめらしくじっと口をつぐんでうわごとを言い、異常な汗をかいて震えているとのことだった。会いたい人物はいるかとの問いにようやく自分の名前を出してくれたそうだ。
「なぁ、視点を変えればこんなに魅力的な環境はないじゃないか。飯は勝手にでてくるし、わずらわしい人間関係もない。作家にとっては魅力的な庵と考えればいいだろう」
部屋に入ってからモリタはまるでこっちを見ない。石ころぼうしをかぶっているかのようだった。どちらかが。
「おみやげにゼリーを買ってきた。ゼリーなんて普通3つで100円ぐらいだろ?なんと一個500円するんだ。感想を聞かせてくれよ」
「焼き付けるようなイメージの小説を読んだことがあるか」
ノイズのようにか細い声だった。おそらくずっとしゃべるのを忘れていたんだろう。それでも聞き取れたのはその内容のせいだった。
「どこで読んだ」モリタの言う本が「真夏のようにつめたい」であることは明白だった。「イトダに教えてもらったんだ・・。幸せだった。あの瞬間だけは」
モリタとイトダもまた、友人の友人といった調子の関係だった。しぼりだすように言葉を選んでいたようだった。続けて言った。
「ありとあらゆる印刷所に電話をかけたが、まるでだめだった。チップをはずんだが、手掛かりはつかめなかった。」
モリタがこうなるのも理解できた。E.T.は子供なら友達になれるが、大人の科学者なら発狂するに違いない。
「探してみるよ」僕にも、モリタにも必要なことだった。
「あの作品は・・・。世界の鍵だ。あれを読むことですべてが意味を持つ。白黒の世界が色づく。どんな独裁者でさえサンリオのキャラのように愛らしく思える」
探さなければならない。「真夏のようにつめたい」を。あるいはその作者の笹井 太を。
「ここの病院は9時消灯なんだ。夜になると全部の電気が落とされる。何も見えない世界の中で、永遠のような時間が流れる。どんどんと汗が浮かんでくる。小説のアイデアを練ろうと思う。でもだめだ。何も浮かばない。自分がむしけらのように感じる。・・・手をにぎってくれないか?5分でいいから」
日が沈んでも僕らは手をにぎっていた。
奇妙なことに、ありとあらゆる情報が集まるWeb上にも作品は見つからない。あらゆるデータベースや蔵書について調べてみても見つからないことから、あの本は市場に上がってもいないのではないかという仮説を立てた。
図書館司書から送られてきたメールを眺めた。該当するような本はタイトルも著者名も見当たらない。一部一致している作品について記しておく、とのことだった。3つの作品はどれも読んだことのあるものだった。
ノートパソコンを閉じる。この街ではまだ当たり前にベンチや噴水や街路樹がある。古本街として有名なここならまだ何かを知っている人もいるかもしれなかった。
街を歩くと昨日の夜に降った雨のにおいが目立った。僕は行きつけの古本屋へ入った。カウンターにはべっ甲の眼鏡をしたマスターがなにやら作業をしているようだった。
「いらっしゃい」画面を見ながらそういった。
「どうだった?」
「だめだな。自費出版やインディーズの本ばかり集めてる書店を訪ねてみたんだが、見つからないらしい」
「そんなことだろうと思った」
「探し方を変えないといけないんじゃないかと俺は思うがね」
「というと?」
「だからさ。流通していない本ならタイトルや作者名で調べるよりほかの手がかりから調べた方がいい気がするがな」
店内には2,3人の客が出入りしていた。3月の涼しい風が抜けていた。
「本当に実在すると思うか?」僕は聞いた。
「都市伝説だと思うが・・・。あんたたちが見たっていうならそうなんだろ。気が済むまで探したらいい」
とうとう私は作家であることを辞めてしまった。
本のありかを探すのに時間を取られ、悪癖の遅筆がでてしまった。わずかだった貯金も底をつき、夜勤のバイトを始めるようにしたが、今度はそれに時間をとられるようになってしまった。規則と規律を重視される環境の中で創造性はどんどんとしぼんでいった。
そんな中でも「真夏のようにつめたい」を探すことはやめなかった。タイトルから探し当てるのは不可能なら、表紙に描かれていたイラストから見つけ出すことができるのではないだろうか。本人が書いたものではないなら、イラストレーターに発注したものかもしれない。
何人かの知り合いを頼り、見覚えのあるものがないか、担当した人物はいないかを調べてもらうことにした。久々に会ったかつての担当者は変わりようをみて驚いたようだった。確かに今の姿を見ればやむなしだ。濃いくまが目立つようになってしまっていた。
季節は流れ、私はアルバイトも辞めてしまった。半年もたなかった。作家を辞めた時にくらべれば簡単に流れていった。理由を考えれば、「真夏のようにつめたい」を突き止めることだといえるが、実際のところは定まった職につくことが向いていなかったのだろう。空想を追いかけているようにみえて、現実に追いかけられていたのだ。
友人の家で3か月暮らしていたが、とうとう追い出され、まさに家をなくした状態になってしまった。
そこから失踪生活が始まった。昼間は各地の図書館をめぐり、閉館まで過ごす。本は読む気になれなかった。どんな名著も「真夏のようにつめたい」に比べれば、高級な葡萄酒の後に安酒を飲むように胸やけがするだけだった。
それでも図書館を選んだのは壁があって空調設備があって座椅子があるからだった。夜になると外に出されるので寒空をあてもなくうろつき、公衆トイレか地下通路で眠り、冷水で髪を洗った。
小説を書いてみようかとメモ用紙とボールペンをつかんでみもしたが、洞窟に石を投げこむようになにも浮かんでこなかった。
フィクションは読まなかったがその代わりありとあらゆる書籍は読み込んだ。「世界のばね図鑑」「国旗の歴史」「精神現象学」「中村毅のこれでわかる民法」「ギリシャ人に学ぶお金の増やし方」「iphoneができるまで」
食べ物は手持ちの現金と相談し、菓子パンで埋め合わせるようにした。
新聞の一部の記事に、ペンネームで書かれていたがモリタが死んだことが書かれていた。退院した2日後に投身自殺したらしい。
驚きはしなかった。1分間手も合わせずに合掌した。
死ぬだろうと思っていた人物が死んだだけだったが、自分の暗い未来のヴィジョンを見たようだった。
私の前に警官2人と知らない男が現れた。知らない男は自分のことを覚えているかと尋ねてきたので知らないと答えると、つかみかかってきた。二人の警官は演技でもするように大げさに止めに入った。
その男は私が万引きしたスーパーの店員だと名乗った。身に覚えはあった。
笹井 太・・・「真夏のようにつめたい」の作者に会ったのは留置所であった。
予想していたよりはましな留置所の生活を私は送っていた。身元引受人がいなかったことと、店員がかなり怒っていたこともあり、一見はこじれていた。
ある時、一室で座っていたら(横になることができない。就寝以外で横になるには横臥許可がいる)、担当官に呼び出される。
何かと思ってついてくと、一室には私よりひとまわり上の年齢の青年が取り調べを受けていた。
「見覚えはないな?」担当官が言った。
なかった。
「笹井太。そいつだ」と言い終わるとほぼ同時に私は彼につかみかかろうとし、担当官に慌てて止められた。笹井太と呼ばれた男は身動きもしていなかった。
なぜ私が殴りつけようとしたのかはわからない。おそらく自分の人生を狂わせるほどの作品を生み出したこと、そしてもう一度読みたいという本能的な理由からだろう。
笹井の見た目は文豪という感じでも新進気鋭の人気作家というわけでもなかった。ただのさえなそうな中年男といった感じだ。いやむしろ、その年齢にしては力がなさすぎる、といった感じだった。
「彼の犯した罪で君にかかわることがあったから、詳しく聞かせてほしい」
「罪?」
「指定薬物取締条例だよ。」
笹井は呼吸するように肩を上下させた。
「メタンフェタミン系の合成麻薬。名前をコールディという。覚醒剤型でありながら、興奮作用のほかに強い多幸感・酩酊作用がある。心当たりはないか?」
ぴんとこなかった。
「続けよう。メタンフェタミン。早い話がシャブ、覚醒剤だ。使うと血管全体に冷たい感覚が走ることからアイスとも呼ばれている。最もこの薬物を作ったはいいが、まだ試作段階だ。
高い効果、通常の覚醒剤の5倍から10倍と言われているが、金がえらくかかる上に、こいつ。単なるすかんぴんの科学者だ。流通の仕方もわからない。暴力団排除条例ができて以降、傷もんは景気が悪い。半グレはおっかない。そこで自分で売りさばこうと思ったらしい」
心なしか、気分が悪くなってきた。
「その理由はこいつの特性にもあった。頭頂葉の楔前部・・・。人間の創造に関連する領域の活動を強める効果があったらしい。
つまり、普通に吸引するだけではトびは少ないが、芸術に触れることでその効果が数倍になるそうだ」
まさか。そんなまさか。
「さらにこいつには目的がもう一つあった。コネクションだ。口コミで芸術家たちに広めることによってリピーターを増やす。そうすれば潤沢な資金源が生まれると思った。
君も知っているだろう、イトダと呼ばれた女。まだみつかってないが、彼女がその仲介をしていた。
粉タイプになっており、知り合いの芸術家の酒に混ぜる。そして・・・」
担当官はファイルに収められた原稿用紙を見せる。「これを読ませる」
数年ぶりに読んだ「夏のように冷たい」は綺麗なほどにつまらなかった。ありがちな設定、退屈なトリック、べたべたとしたメロドラマ、一貫性のないテーマ。
「まぁもともと作家志望のないやつが書いたもんだ。読めたもんじゃないだろう」
僕は部屋の中で脱力しきっていた。自分の探していたものが、こんなにもぱさぱさと退屈なものだったとは。
「夏のように冷たいは・・・。」笹井が口を開いた。
「真夜中に書いたラブレターだ。夜がかけた魔法がとければ、はずかしい文章がただ並んでいるだけだ」
「その後、拘留が終わった。留置所の中では私は泥のように生きていた。やれといわれたことをして、寝ろと言われたら寝ていた」
もうすぐ話が終わる。もう夜が明けそうだった。冬の寒さがぱりっとした空気を与えてくれた。
「ずっと数年間の間、僕が欲しかったのは最高の作品だった。それがあるからこそ、世界が存在する理由があり、僕は生まれてきた理由があったんだ。ただその作品は、しらふで見れば色あせた存在だった。」
ホームレスの男は私を見ていた。その表情は嘲りにも同情にも驚きにも見えた。
「留置所を出てからはすべての糸が切れたようだった。僕の人生にとって最後の意義がなくなったから。そこからはあまりおぼえてもいない」
こうして話が終わった。
「なにか質問は?」
「もう小説は書かないのか?」
「なにを書くって言うんだ」
「なんだっていいだろ。それだけ壮絶な経験をしてきたんだ。それをそのまま書いてもいいし、フィクションにしてもいい。言いたいことがあるなら言えばいいし、何かを得たならそうしてもいい。まったく関係ないことを書いてもいい。」
「だめだ」かぶりをふった。「想像してくれ。一番圧倒的な体験をしてしまった後でそれがまやかしだったことに気づいたらどうなるかを。自分の想像力じゃこれ以上のものなんてできない」
「なんでそれ以上のものを作ろうとするんだ?」
「それ以上のものを作らないと意味なんてないよ。どんな想像力ある作品だって現実に起こったものにはかてっこない。今の俺にはなにもない。ただのジャンキーだ」
「なんでそんなこと言うんだよ」
続けざまに言った。
「あんた小説家なんだろ?なんで話の世界が現実に負けるなんてこと言うんだよ。なんでもできる想像の世界が現実に負けるなんて言うんだよ。意味なんてなくていいだろ。意味なんてなくても話はできるだろ。もう一回言うぞ。
あんた小説家なんだろ?
なら作らないとだめなんだよ。
どんなに世界が味気なく思えても。もしあんたがみた物語がまやかしで、本当の作品じゃなかったとしたら、あんたがそれを作ればいいだろ?あんたがほんとに求める小説を。それがどこかでこの世界を味気なく感じてるやつを楽しませることができるんだよ」
それから一年がたち、書店ではある本がベストセラーになっていた。その本は実験的でありながら物語の楽しさをしっかり守られたものであった。
それまで本を手に取らない層の人にもその本は普及し、その作家のフォロワーも多く出てくるようになった。評論家たちの一部には批判的な立場をとるものも少なくなかったが、心の底ではその実力を認めざるをえなかった。
その作家がシラキなのか、そして今も生きているのかは、わからない。
凍 微糖 @Talkstand_bungeibu
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