A Mythtical Girl~ミスティカル・ガール
光村涼
Gentle Rain
僕は取引先に向かうため電車に乗っていた。心を無にして乗降口の窓から途切れることのないビルの壁を眺めていると、ぴたん、ぴたん、と水滴が窓の外側に当たり始めた。
しまった。
油断していた。会社を出た時、頭上に泣き出しそうな空が広がっていたことに気づいていたのに、傘を取りに戻ることはせず、電車に乗ってしまったのだ。今日アポイントメントのある取引先は最寄駅から徒歩10分だ。
走れば5分、少しの雨なら突っ走ろう。
僕は雨がこれ以上ひどくならないように願いながら、遅い鈍行列車が少しでも早く駅に着くようにと、列車の進行方向を見つめた。
ようやく駅に着き、階段をかけ上がって改札を抜けた。コンコースの出口に向かって走ると、乾いたアスファルトの匂いが雨に舞い上げられて鼻についた。外を見ると激しくなった雨が視界を白く曇らせ、僕の足元に強く打ち付けていた。
売店でビニール傘を買おうと思いコンコース内に戻ったが、もう売り切れていた。
ずぶ濡れで取引先に向かう訳にはいかない。
取引先に連絡しないとまずいな。
カバンからスマホを取り出し、連絡先を調べて電話をかけた。
「すみません、もう最寄駅まで来ているのですが、この雨で」
「ああ」
電話の向こうで年配の男性が声をあげると、少し間があいた。外の様子をうかがっているのだろう。
「ひどい雨ですねえ。こちらに来るのは難しいですか」
「傘を持ってこなかったもので」
「そうなの」
電話の相手がみるみる不機嫌になっていくのがわかった。傘くらい持ってこいよ、と。
「まあ仕方ありませんね」
電話の相手は自分を納得させるように話した。
「雨脚が弱まったらなるべく早く来て下さい。こっちも予定があるんでね」
「申し訳ありません」
通話を終えると、急にじっとりした湿り気が身体にまとわりついてきて、僕はため息をついた。
周りを見ると、出入り口に観葉植物が飾られた大きな
ドアを押して一歩入ると、コーヒーの香りがむんと迫ってくる。中はおそらく僕と同じように雨宿りに来た人であふれていた。タイミングよく窓際の人が席を立ち、僕はその後に座った。
「いらっしゃいませ」
店員の女性が水を持って席に近づいて来た。
「ご注文は」
「アイスコーヒー」
僕がメニューも見ずに告げると、店員は頷き戻って行った。
取引先をこれ以上怒らせないために、なるべく早くここを出たい。それに早く会社に戻らないと午後のミーティングに遅れてしまう。
僕は自分を恨めしく思いながら、窓の外を見た。
硝子窓が雨に叩かれ、大きな音を立てている。
空は暗く、とても正午前とは思えない。
時間の感覚があやしくなり、腕にした時計を見ると、針がいつもよりのろのろと動いている。
もう一度売店に行ったら、傘を買えるだろうか。
僕は右の人差し指でたんたんたん、とテーブルの上をタップしながら、硝子を流れる無数の雨粒の行方を追った。
その時、隣の席から女性の声が聞こえた。
「あのう」
かすかに聞こえた声は外の激しい雨音にかき消され、呼ばれたのは自分なのかさえもわからなかった。隣を見ると、そこに若い女性が座っていた。どこか小花のような、たおやかな気配を感じた。
「あのう、お急ぎですか」
苛立ちを押さえられない僕の態度は目に余るものだったに違いない。
「あ、いや……何か」
「お仕事ですよね。差し出がましいことを申し上げますが、もし傘がないのでしたら、これ、使って下さい」
女性は僕のスーツを見ると、膝の上にのせたバッグから男物の青い折りたたみ傘を取り出した。
「そんな」
僕は片手を上げ、横に振った。
「もう必要ないんです」
女性は僕のテーブルにそっと傘を置いた。僕は青い傘と、傘から離れる白い手を目で追い、最後に女性の顔を見た。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫です、私、別の傘を持ってますから」
そうじゃない。
その女性は泣いていた。いや、涙はこぼしていない。でも、
僕は、泣きながら微笑む女性から目が離せなかった。何故かはわからないが、大きく心を揺らす思いをしたのだろう。それなのに見ず知らずの僕を気遣う、この女性を見つめた。
その女性は顔をそむけると、下を向かないように手探りで膝の上のバッグからハンカチを取り出した。そして、さっと目を拭って席から立ち上がった。
「その傘、捨ててしまってかまいません」
「でも」
「もし気になるのであれば、そうね……、ここのマスターに預けておいてください。ここにはたまに来るので。でも気にしないで大丈夫です」
そう言い残して女性は席を離れ、カウンターの奥にいる男性に声をかけて何か言葉を交わした。マスターらしき男性は僕の方を見て相づちをうち、女性はガラスのドアを押して出て行った。
僕はもう一度、テーブルの上の青い折りたたみ傘を見た。そしてまだコーヒーが来ていないことに気づいて、小さく息を吐いた。
窓の外を見ると、まだ雨は強く降り注いでいて、さっきの女性が赤い傘をさして現れた。横殴りの雨と風が女性の傘を奪おうとし、彼女は傘のハンドルにしがみついていた。傘は用をなしておらず、後ろ姿はずぶ濡れだった。
駅のデッキで、遠ざかる赤い傘が小さな赤い薔薇のように、健気に強風に揺られていた。
ようやく店員の女性が席に来て、手にしたトレイから丸いフラスコとグラスをテーブルに置いた。一瞬、理科の実験を思い出したが、カウンターを見ると丸いフラスコがいくつも並んでいて、ここはサイフォンでコーヒーを淹れる店だったのだと気づいた。その様子はクラシカルであり、僕にとっては新鮮なものでもあった。
「お待たせしました」
店員が、僕の目の前にコースターを置き、その上にグラスをのせた。グラスには細かく砕かれた氷がたっぷり入っていて、店員がフラスコから熱いコーヒーを注ぐと、かちかちと小さな音をたてて氷が解け、香ばしい香りが広がった。
「ごゆっくりどうぞ」
店員は目の前にフラスコを置き、軽く頭を下げると、隣のテーブルを片付け始めた。さっきまであの女性がいたテーブルには、二人分のコーヒーカップが置かれていた。僕が来る前に誰かと会っていたようだった。
気を取り直してアイスコーヒーを口にすると、思ったより軽い味わいだった。サイフォンで淹れたコーヒーを飲むのは初めてだった。
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