概念獣--藤岡輝石--

@greenishapple

第1話

俺の仕事は概念獣を管理する事、及び適切に処理する事


朝は苦手だ。アラームは切る為にあるから何個もセットするんだろ?起きる為の労力は寝ている間に充電される携帯で補えるが、起きる為の理由はいたって平凡で、仕事をしなければいけないから、だから自分を奮い立たせなければいけない。今日出向く場所と時間は昨日送ってある。アラーム①解除。5分おきに変わる音塊は、初めの数秒はただの弱音で気にしなければ耳に入らない。少しづつ耳に届く音が増える度に脳裏を掠める声が混ざる。「おはよう」アラーム②解除。後もう少しだけと縋る様に寝返りを打ち自分のすぐ横に手をかざす。広いベッドの左側はいつもと同じだ。アラーム②とは違った音が鳴り響く。アラーム③解除。アラーム④解除。アラーム⑤解除。


オープンキッチンからは部屋が一望できる。薄暗い空間の中で冷蔵庫から冷えた水を出しそれをガラスコップに移す。温度差で白く曇ったコップを持ちながら窓のカーテンを開けると、部屋は朝日で満たされる。光に透かされたコップの水がゆっくりと体の中に入っていく。キッチンに戻り、密閉容器からもうすでに挽いてあるコーヒー豆と水を2杯分用意してコーヒーメーカーの電源を入れる。コポコポと水が温まる音が聞こえ、豆と熱湯の化学反応が部屋を飽和する。コーヒーメーカーの横に置いてあるオーブントースターに厚めに切られた食パンを2枚入れスイッチを入れる。焼き色が付くのを待ちながら、淹れたばかりのコーヒーをカップに移し、少しづつ啜る。熱々を取り出して、冷蔵庫から取り出したばかりの冷やりとした発酵バターはパンにこめられたその熱で溶けていく。立ちながらパンを食べコーヒーを飲み、シンクに溜まった皿の上に新しく汚れた皿を重ねる。朝パンを2枚食べるようになって少し太った気がするが気のせいだ。ベットから這い降りた後シャワーを浴びたが腰回りやお腹周りに皮下脂肪と呼ばれるものはまだ見えない。仕事中はなるべく有酸素運動を取り入れようと歩くことにしているが若干皮膚のハリが減っている気がする。年の功だけでは年齢と共に落ちると言われている基礎代謝の低下には抗えない。Old habits die hardとはよく言ったもんだ。


毎日ある仕事の殆どはクライアントとの日程を調整する事から始まる。第一級危険概念獣保持者の佐藤晋をどの頻度でどこに派遣させるのか。特殊な案件にどの程度関わらせるのか。彼の概念獣が変化・変貌する要素になる案件はあるのか。元来の研究では一度概念獣によって支配された脳の使用領域を取り戻すことは不可能と断定されていたが、佐藤晋は自身の食欲を数値化できそれをコントロールすることで他人の概念獣を完全に消す、または縮小する事が出来る。彼の概念獣は意図的に他の概念獣に影響を与えられるが、他の概念獣は彼の概念獣に影響を与えられる、又は、与えているとのデータは観測されていない。ここに相互作用は働いていない。取り込まれた他の概念獣は無になる。なっているとしか言いようがない。今のところ一種の概念獣との共生の成功例として観察が継続されている。


教育現場で概念獣についての正しい理解の推進を行うことが数年前から実施されている。まず生徒の異変に気付く事を第一に、その後の対処方法のノウハウを国の概念獣研究所から派遣された講師による教育者への研修が義務付けられている。ただでさえ差別やいじめの対象に成りやすく、概念獣のように増長した負の感情を向けられた生徒は自殺を選ぶ事さえ少なくない。理解できない者、理解したくない者、自分と同質でないと思われる者に対する社会の拒絶反応はいつの時代もどの人種や文化でも同じ現象を引き起こす。排除すればいいだけだと短絡的な解決方法が取られる。個人でも、社会でも、国家でも、地球規模でも、人間が介在するとその性質は変わらない。思春期に入る前ある程判断力や洞察力が養われたとされる小学校高学年で初めての講習を受ける生徒にあるのは興味だけでなく、恐怖もすでに芽生えている。親や地域の大人から伝わる全ての情報をコントロールする事は出来ない。正しい情報をどう若い世代に伝えていくのか、社会のモラルを構築していく大人をどう育んでいくのか、先人は分断を回避する為に知恵を絞らなければいけない。まだ概念や観念が揺れ動く世代を前に教壇に立つとき、試されていると感じる。概念獣はまるで人類を試しているのだと。


佐藤晋はその容姿から第一印象で損をすることは少ない。研究者並みに博識であり誠実な質疑応答をする姿に教育者や保護者からの信頼は厚い。研修後に行っているアンケートでもポジティブな評価が多い。彼の様な状態の人は沢山いる、研究している人達も沢山いる、その研究記録がデータバンクとして集められ一般に公開されている、その情報にアクセスして自分の事の様に考えて欲しい、概念獣監察官という職業についている俺と協力して社会に貢献している。砕いた言葉で生徒たちに分かりやすく自分の立場や環境を伝える努力をしているようで、生徒受けもしている。木村真一ともこのような笑顔で優しく対峙すればいいと思ってしまうが、佐藤晋なりの信頼の築き方なのだろう。親密さの度合いを暴かれまいとするように名前で他人を呼ぶ事を嫌うのに、初めて会った時から真一と呼んでいることに驚いた。木村真一が成りたい職業に概念獣監察官を入れてから、子供達への概念獣監察官についての説明に時間を割くようになった。少しづつ確実に説明時間を増やし、バイアスを掛けない様に偏見を生まない様に慎重に言葉を選んでいるのが分かる。外見や学歴ですでにポジティブな印象を植付けているから認知バイアスはすでにかかっていると思うが、まぁ、それは置いておこう。


学校訪問を終えた佐藤晋はいつも疲れた様子で、帰りにラーメンを食べたいと懇願する事が多い。ラーメンの味はどれでも良いようだが、店によっては大盛りを2杯食べる事もある。そういう日は決まって明日ジムに行くからと自分に言い訳し、細い体のどこに大量の麺とスープが入るのだろうかと目を見張る。特に油が浮いている豚骨スープを一滴残らず飲み干した時には今まで俺にもあった若いゆえの食欲や胃の丈夫さを羨み、半分以上もスープを残してしまった老いを恨んだ。


仕事でより多くの成果物を創出することを目標としていない社会はない。研究もしかり。現在の概念獣の研究は殆どが基礎研究と応用研究の間を行き来している。アメリカの軍と国際概念獣研究センターが共同で実用化研究をしているが、確実な安全性の確保には至っていない。今回の試験で未達成な事項が多く出ると最終段階の評価が低くなり、次の段階に進めず開発中止や研究自体が凍結になる可能性もある。膨大な資金が動いてる研究がすぐさま切れることはないと思うが、被験者の脳に直接装置を埋め込み経過を測るのを人体実験と捉え人権の侵害と唱える事は可能だろう。同じ脳内で起こっている事だからと概念獣を人間の人格や感情と同等に考えている人は多い。そう考える人々は概念獣の制御=人間の制御の方程式が簡単に成り立つ。部外者は依然として人権擁護と言う名の圧力を強めており、高い価値が認められるのは既存の研究に対する優位性を証明した時だけ。


概念獣による社会実装を考えるようになったのは大学の研究課程で行き詰っていた時、恩師の酒井教授が概念獣を社会福祉の一部になりえる未知の資源と捉えてはどうかと助言してくれたのがきっかけだ。確固たる制御方法が確立されていない現在、起こりうる人災に備えたリスク回避の善後策がなければが社会実装をするのは一足飛びだと馬鹿にされた。大学での研究テーマは方法論に終始していたが、アメリカはこの社会実装の研究に興味を示し国際概念獣研究センターのフェローとして俺を招いた。早苗は統計の専門家として、佐藤晋は特別な概念獣保持者として運命の様な偶然が重なり同じ時期に同じ場所にいることになった。佐藤晋の概念獣は予想以上の成果を出したが、3年間の特殊な研究施設での特殊な成果だけでは説得出来なかった。世界各国の心療内科と監獄を回り見た現実、社会実装が実現すれば不当に扱われている人々がこの檻の中からでられるだろうと何度思った事か。国外で論文を発表するのは良い一手だった。国際的な研究だと見られたのだろう。はじめからそうすればよかった。日本の大学での地位を確立し、暫くして国の概念獣研究所に誘われたとき佐藤晋の概念獣を売り込むチャンスが訪れた。何年もかけて用意していたデータを活用したプレゼンテーションで第一級危険概念獣保持者に対する初めての特別借地を勝ち取り、その経過観察及び管理の為に特定概念獣監察官になることになった。仕事はデータを収集する今までとそんなに変わるものではなく、むしろ権限や裁量権が広がったことは研究を行う上で都合がいい。佐藤晋が享受できる自由も広がった。概念獣分野の仕事は誰にでもできる物ではないと思う。知識はさることながらその場に応じた判断力、小さなことも見逃さない観察眼、公僕としての社会奉仕の志、人を選ぶ仕事だ。選ばれた人物が良心をもってこの特別な仕事に従事する事を望むが、アレプッシの老人で溢れかえっている分野でもある。人間の良心を再定義する事も視野に入れて研究している研究者もいるかもしれない。毎日新しい論文がデータバンクに上がるが、概念を覆す革新的な研究はいまだ出てきてはいない。いきた佐藤晋の概念獣についていつか研究論文を発表できる日が来るだろうか。概念獣の研究が進み、制御方法が確立し、法の整備が進み、理解が促進されれば、社会福祉に限らず様々な分野で概念獣による更なる付加価値が生み出されるだろう。概念獣保持者は多様性の一つに数えられ、概念獣が親しまれ生活の一部になっている社会基盤と社会基準を構築したい。


家にある全ての皿を使い切ってシンクに溜まった汚れの落ちない皿を永遠と洗わなければいけないような終わりがない悪夢にはしたくない。

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