夜会の前の、たわいもない話

(それにしても……鍵、ねえ……)


庭園には、定期的に庭師が入る。書庫も使用人が定期的に虫干しをし、掃除している。否。


(あの部屋に無いなら、この邸には無いのでしょう)


見慣れない物、見慣れない人間。それが見つかれば、邸の主である父親に、報告が行く可能性が高い。それは妹も望まないだろう。


(けれど。だとしたら、どこに?)


そう。心当たりの場所を探そうにも、そこにはない可能性の方が高い。それでも、そこ以外、探せるところが無い。困り果て、アリシアが立ち止まったとき。


「アリシア様?」


邸に昔から務めている執事から、声をかけられた。


「あら。何かしら、ウィル」


「婚約発表の日の夜会ですが、この邸で行うことになります。ですので、アリシア様に取り仕切っていただきたく……」


アリシアは目を細めた。


「そうね。あの子はもう、いないもの」


「……期日は火の月までです」


執事は表情を変えずに言う。けれど、声と態度で、明確に伝わってくる。明らかに、気を悪くしていると。


「お父様がそう仰ったの? 時間が無いのね。すぐに手配を始めないと」


エミリーならともかく、アリシアが使用人を気遣うことはない。


「既に手配は始めております。アリシア様には、書類に許可さえ出していただければと」


「……そう。それなら、私が見る必要はないのね。部屋に届けておいて。印章を押せば良いのでしょう」


「わかりました。では、そのように」


執事は話が終わると、足早に立ち去った。取り残されたアリシアは、目を伏せて、ため息をつく。


(わたくしが取り仕切る、なんて。所詮、体のいい言い訳ね)


貴族社会における夜会とは、本来、その家の女主人が主催するものだ。社交の場であるとともに、女主人の力量が試される場。けれど、アリシアが本当に夜会の準備に関われたことは、1度もない。


(そうね。お父様は、私には出来ないと決め付けていらっしゃいますもの)


実の母と過ごした時間は短く、義理の母には嫌われていた。アリシアのための教師が雇われることは無かった。全て独学で、努力を重ねた結果も、認められることは無かった。


(……書類、ねえ……)


父は、義母が決めた手順を未だに守っている。アリシアが何かを変えたいと進言すると、いつも強く咎められた。エミリーには貴族のことなど分からない。故にアリシアのように反抗することもなく、全てを受け入れていた。きっと、それも、要因の1つ。


(……帰りましょうか)


素直な妹。可愛いエミリー。だから愛された。父に逆らわないから。妹の部屋の、扉を開ける。小さく黒くなった彼女は、扉の側でうずくまっている。


「あなたは、嫌だと思わなかったの?」


答えは返ってこない。それが、少しだけ、淋しいと思った。


「もう、話すことも、出来なくなってしまったのね……」


そうなったのは、他でもない、自分のせいだ。悲しむことも、悔やむことも、してはいけない。選んだのはアリシアだ。妹の側に座りこみ、その手を取る。真っ黒な枝のようになった手。


「罪滅ぼしではないけれど……あなたを捨てるなんて、そんなことは、私がさせないわ」


そう。遠くない未来に、アリシアは、今より多くの力を持つことになる。この家のたった1人の娘となったのだから。


「懸念は、ベルトルト様が何と仰るか、よね……」


夜会の日。2人だけで話せるように取り計らうことくらいは、アリシアにも出来るはずだ。その時に、エミリーを残してほしいと頼む。反対されるかもしれない。それでもと、言わなければならない。彼女の姉として。彼女をこんな姿にしてしまった人間として。それだけは最低限、果たさなければならない役割だったから。

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