オリエント撤退

せりもも

1 亡命貴族、フェリポー


 「戦いましょう!」

 自分の倍の年齢の男に向かって、フェリポーは言った。


 異国の男の、砂と潮風に洗われた声が答える。

「無理だ。すでに兵どもは逃げ出している」


 アッコの太守、ジャッザール・パシャ(地方長官、軍の長官)の言うことは真実だった。そもそもトルコ軍でまともに戦う意志があるのは、ジャッザールの親衛隊と、スルタン(皇帝)の軍隊イエニチェリくらいのものだった。現地採用の兵士らは、自分の身が危ないと見るや、すぐさま軍を捨て、逃げていく。


「ここで喰いとめねば、フランス軍は、コンスタンティノープルへ一直線です。フランスに国を乗っ取られていいのですか?」


 フランスを悪く言うのは、フェリポーには忸怩たるものがあった。

 自分もフランス人だからだ。彼は、革命政府に異を唱え、王に忠誠を誓って国を捨てた亡命貴族だ。


「兵士も武器もなければ、勝ち目なぞ、」

ジャッザールが言いかけた時だった。


「武器なら、運んできましたよ!」

威勢のいい声が聞こえた。栗色の髪の痩せた男が微笑んでいる。


「シドニー! 帰ったか!」

思わずフェリポーは叫んだ。


 シドニー・スミスはイギリスの海軍将校だ。迫りくるフランスの脅威に対し、祖国イギリス政府の利益と、トルコ宮廷政府ポルトの信頼の元に戦っている。


「うん。祖国イギリスから大砲や火薬をどっさり集めてきた。それで、」

不敵なこのイギリス人は、くすりと笑った。

「途中、フランスの輸送艦と鉢合わせたんだ。エジプトから来たは、喫水線ぎりぎりまで荷物を積んでてね! もちろん、遠慮なく強奪させてもらったよ」


 シドニー・スミスは英国の海軍将校だ。かつて彼は、私掠船の船長だった。国が彼の活動を認めなかったからだが、その経歴から、海賊まがいのことは得意だった。


 下の武器庫から、大きな歓声が上がった。シドニー・スミスのフリゲート艦、ティグル号が運んできた武器が、水揚げされている。大量の武器と弾薬が、そろそろと陸地に下ろされていく。


「よし。アッコに残るぞ」

見下ろし、ジャッザール・パシャは言った。しわがれた声が張りを取り戻している。

「あんたらと一緒に、最後まで、スルタン・ケビルと戦おう」


 スルタン・ケビブは、フランスのエジプト遠征軍最高司令官ボナパルトにつけられたあだ名で、「偉大なるスルタン(帝王)」という意味だ。現地の人が誇張し、ボナパルトとフランス軍の武力におもねった呼び名だ。


 トルコでスルタンといったら、もちろん、セリム3世だけだ。ジャッザールは、エジプトの民のトルコ皇帝への忘恩と、その腰抜けを揶揄したのだ。


 フェリポーとシドニー・スミスは顔を見合わせた。口の端を引き上げ、スミスが笑う。反対に、フェリポーはにこりともしなかった。


「者ども集まれ! フランス兵の首の報奨金を引き上げるぞ!」


ジャッザール・パシャが叫ぶ。わらわらと兵士らが、彼の周辺に集まり始めた。






 「また君に助けられた」

要塞の階段を降りながら、フェリポーが言う。


「助けられた?」


怪訝そうな声が降って来る。シドニーは、後ろから階段を降りているので、フェリポーより高い位置にいる。それが、癪に障った。


「亡命貴族の俺を、君はイギリス軍に紹介し、君の国は俺に大佐の身分を与えてくれた。そして今また、太守をアッコに踏みとどまらせてくれたのも君だ」


「何を言ってるんだ。パシャがアッコに踏みとどまったのは、俺の力じゃない。武器弾薬の力だ」

「君が運んできた武器だ」


 階段を下り切り、フェリポーはため息を吐いた。少しよろけた体を後ろから来たシドニーが支えた。


「大丈夫か? 俺の留守中、君は不眠不休だったと聞いたぞ」


 アッコは、海に面した古い城塞都市だ。司令塔は十字軍遠征の頃からのものだし、城壁も崩れかけていた。


 砲兵出身のフェリポーは、王立の士官学校で、火薬の調合や軌道計算などの他に土木技術も学んだ。それらを生かし、彼は塔や壁を補修し、さらに、半月堡など、この町の守備を固めてきた。


 彼は、指揮官であると同時に監督だった。確かにここ数日体調が悪かったが、気にしている場合ではない。


「暑いだけだ。君こそ、目の下に隈ができているぞ」

「そうか?」


 飄々とシドニー・スミスは答える。この男は、辛さやしんどさを感じる感覚センサーに欠けていると、いつもフェリポーは思う。



 エル・アリシュを攻略してシリアに入ったフランス軍は、途中、豊かな田園都市ヤッファを陥落させ、スルタンの宮廷政府ポルテのあるコンスタンティノープルへ向かっている。


 途中にあるのが、古い城塞都市、アッコだ。ここが、コンスタンティノープル防衛の最後の要衝となる。


 祖国イギリスへ武器を集めに行ったシドニー・スミスが、ろくに眠らず、船を走らせてきたことは、一目瞭然だった。



 彼は肩を竦めた。

「俺はともかく、君の顔色はひどいもんだ。土気色だぞ? 無理をするなと言ったろ? ただでさえ君の健康は万全とはいい難いんだから」


 フェリポーには、4年前に革命政府により投獄されていた過去がある。死刑の前日、親戚の女性の手で脱走に成功したが、ひどく健康を損ねてしまった。

 もちろん、すでに健康は回復している。仲間に対し彼は、そう主張している。


「俺の留守中、どうせくそ暑い真昼間から、外で穴掘りをやってたんだろ?」


 シドニー・スミスが言った時だった。

 ひゅるひゅるという摩擦音が長く音を引き、着弾した。地を揺るがすほどの破裂音が耳を弄する。

 息を呑む暇もなく、塔全体が、この世の終わりのように揺れた。


 たまらずフェリポーは両手で頭を庇い、うつ伏せた。天井から、小石の混じった土埃が落下してくる。


「フランス軍だ!」

塔の下層階から叫び声が上がった。


「早かったな。だが、ぎり、間に合った」

同じように身を伏せていたシドニーが起き上がった。軍服に着いた埃をはたく。

「どれ、ちょっと様子を見て来よう」


「俺も行く」

今下りてきたばかりの階段を、二人は屋上に向けて駆けあがった。






 塔のてっぺんでは、すでに、トルコ人兵士らが応戦していた。

 下を見下ろし、フェリポーはぞっとした。


 フランス軍は、いつの間にか、外壁の外側まで塹壕を掘り進めていた。塹壕の中には、手榴弾兵はじめ、大勢の兵士らがひしめいている。


 遠くからは砲兵隊が外壁を崩そうと、狂ったように砲撃を重ねていた。


 外壁は、特に慎重に修復を重ねた。しかし、資材が圧倒的に不足していた。土砂や瓦礫が間に合わず、大量の綿を濡らし、詰め込んだひび割れもある。


 ……敵の本隊はどこだ? フランス軍はどこから砲撃している?


 双眼鏡を目に当て、東の方角を覗く。

 遥か向こうの丘陵に、野営地が見えた。ずらりと大砲が並んでいる。


 丘陵の真ん中あたりで、なにかがきらりと光った。目を凝らし、フェリポーは、自分と同じように双眼鏡を目にこちらを見ている、小柄な男の姿に気が付いた。


「ナポレオン・ボナパルト!」


 スルタン・ケビルが、フェリポーを睨み据えている。

 フェリポーとボナパルトは、知らない間柄ではない。士官学校の同窓生だった。同じ砲兵科で、机を並べて学んだ。


 ボナパルトの右手が上がった。砲撃の振動が、地震のように辺りを揺るがせる。


「ああ、くそっ!」


 フェリポーは叫んだ。綿の補修部分は燃えることはなかった。しかし、壁の古い部分が崩れ上部に裂け目ができてしまった。


 塹壕の向こうから、梯子が運ばれてくるのが見える。敵は外壁をよじ登ろうとしているのだ。


 「銃を貸せ!」


 シドニー・スミスが塔から身を乗り出し、狙撃を始めた。近くにいたトルコ兵から銃を奪い、フェリポーも、外壁真下の塹壕にいる兵士らを狙う。


 ……同じ国、同じ血の流れる兵士だ。


 頭を振って、その考えを打ち消した。自分は王党派だ。そしてあいつらは革命軍、王の敵だ。



 「何をしている!」

 後ろで恐ろしい叫び声がした。指令室で報奨金を吊り上げていた筈の、ジェッザール・パシャだ。

「イギリスの友人が死んだら、兵士らのまとまりがつかなくなるだろうが!」


 パシャはシドニーとフェリポー、二人の首筋を捕まえ、物凄い勢いで、後ろに引き戻した。


「守備隊! なぜ彼らを通した!」


 次の瞬間、トルコ兵の体が吹っ飛んだ。「ジェッザール」という彼の名は、肉屋という意味だ。アッコのパシャは、残虐なことで有名だった。


 眼下のフランス軍から、失望の声が上がった。梯子は、外壁のてっぺんまで、ほんの少しだけ足りなかった。


 一人の兵士が、梯子を上り始めた。足りない分は、壁のでこぼこに手足を掛けて、なんとかよじ登ろうという算段だ。


 塔の上からトルコ兵が発砲した。勇敢な兵士は、梯子から転がり落ちた。


 それなのに彼らは諦めない。上官に叱咤され、入れ代わり梯子に足を掛ける。

 次々と登ってくるフランス兵を、司令塔のてっぺんから、トルコ兵が狙撃に余念がない。狭い塹壕は、あっという間に死体でいっぱいになった。


 それは、恐ろしい地獄絵図だった。


 ……同じフランス人の、血。



 「おい、フェリポー、どうした!」


 遠くでシドニー・スミスの声が聞こえた気がした。ぐずぐずとフェリポーは、足元へ崩れ落ちていった。






 倒れた彼は、すぐさまシドニー・スミスの戦艦、ティグル号に運びこまれた。

 4月30日に倒れたフェリポーは、2日後早朝、過労と、暑さからくる発熱から死に至った。


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