5

 頭上から聞こえたその音に、友香は勢いよく上階に続く階段を見上げた。

「おや、驚かせてしまっただろうか」

 いつの間に現れたのだろう。壮年の男が踊り場に立っていた。仕立ての良い黒の三つ揃いを着た、紳士然とした男だ。紳士服売り場の店員にしては服の質が高く、ハイブランドの従業員にしては飾り気がなさ過ぎる。

 先程の青年が「スーツの男に頼まれた」と言っていたことを思い出す。だがそれ以上に、視線が合った瞬間、背筋を駆け上った得体の知れない感覚が、男がただ者ではないと告げる。

 ――何者……?

 背中を冷たい汗が流れる。目の前に何気なく立つ男の力量は、間違いなく自分よりも遙かに上だ。この男がその気になれば、最後まで何一つ気づかせないまま、自分を屠ることさえできただろう。なのに敢えてその存在を気取らせ――足音を立て、姿を見せた。

 一体、何のために。

「そう、構えなくてもよかろう」

 余裕のある様子が、一層危機感を募らせる。だが、怯むわけにはいかない。しかし下手に動くのは命取りだと本能が告げる。闇雲に攻撃をしたところで通用するような相手ではない。逃げるのも、またしかり。焦る内心を落ち着け、友香は時間を稼ぐ。

「睦月を襲わせたのは、あなたね?」

 訊ねると、男は僅かに口元を緩めた。

「バルドは物のついでだ、別にあれでなくとも構わなかったのだがね」

「……?」

 ――睦月のことをバルドと言った。なのに、睦月が狙いじゃない?

 嵯峨の手の者ならば、何はともあれ睦月の――バルドの命を狙うはず。ならば、睦月が目的ではなかったというこの男は一体何者で、何が目的なのか。職務上、それを聞き出したいと思う気持ちと、今すぐここから逃げるべきだと警告する本能とがせめぎ合うのを感じながら、友香は男の死角になる位置で、鞄に手を差し込んだ。

 コツコツと靴音を響かせながら、男が階段を降りてくる。

「逃げるタイミングを見計らっているようだな」

 友香の次の動きを読んでいると言った顔で、男が嗤う。

 ――あと、もう少し。

 狙う間合いに男が足を踏み入れるのをじっと待つ。既に、鞄の中を探っていることには気づかれているだろうが、別に構わない。自分が手にしたは、きっと相手には予想できない筈だから。

「ふむ。この辺りか?」

 友香の様子から「間合い」を読み取ったのだろう。寸分違わぬその位置で、男は立ち止まった。ふっと口元に笑みを刷き、両手を広げる。

「どうした? 攻撃をするのではなかったのか? 私の隙を突き、そして逃げる。そうだろう?」

 挑発するようなその言葉は聞き流し、友香はじっと待った。後ほんの数センチで構わない。それだけで成功率が飛躍的に伸びる。友香は敢えて視線の動きを隠さず、男を誘導しようと試みた。

「――ふむ」

 おそらくは友香の思惑を読んだのだろう。男は面白そうな表情を浮かべ、一歩、足を踏み出した。その刹那、友香もまた大きく一歩を踏み込むと、右手を振りかぶる。

「甘い」

 思い切り投げつけたそれを、男は手を翳すだけで払い落とした。だが、本命はそちらではない。

 カシャン!

 男が友香の右腕に気を取られたその一瞬、足を使って下から蹴りつけた小さな瓶が、男の足下で粉々に砕けた。

「――!?」

 男が足下に視線を移す。その瞬間を見逃さず、友香は踵を返してフロアへと駆け込んだ。マネキンの間を抜け、売り場の陰に身を隠す。

 ――まずは一手。

 友香の足音を聞きつけた販売員がこちらを振り返り、不思議そうに首を捻っている。その様子を陰から眺めながら、息を殺し、気配を探る。相変わらず、男の気配は微塵も感じ取ることができない。

 だが。

 ――来た。

 鼻先に、ふわりと花の香りが漂ってくる。友香は音を立てないよう、そっと動き始めた。匂いの来ない方へと。

 ――エリカさんに感謝ね

 先刻、男の足下に投げつけたのは、昼間エリカにもらった香水の小瓶だった。

 気配を感知できないのなら、他の方法で探知できるようにすれば良い。そう考えた時、友香は鞄の中に香水瓶が入っていることを思い出した。睦月の連絡を受けたのが自室に帰り着いてすぐだったから、持っていた鞄もそのままに出てきてしまったことが幸いした。

 ――使い方を知ったら、また叱られそうだけど。

 匂いのしない方へとそっと移動しながら、友香は鞄から携帯電話を取り出す。どうせすぐに見つかるのだろうから、今のうちに次の一手を打たねばならない。照明が半分落とされたフロアに、不用意に光が漏れないように気をつけながら、画面を操作する。仕込みはすぐに終わった。

 友香は携帯電話を握りしめ、そっと売り場を離れた。こんなところで戦闘になったら、店に迷惑をかけてしまう。せめて、人や売り物のない場所に向かわなければ。とはいえ、売り場フロアにそんな場所はない。結局、辿り着いたのは先程とは別の階段室だった。

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