〈第4話〉 惑わせないでください。
「次、湯煎したチョコの中に卵黄だけ入れてよく混ぜて」
静かな家庭科室に、須藤さんの声が響く。
この時間、本来ならここを使ってはずの調理部の人たちはとっくに帰ってしまったので、今は僕と須藤さんの2人だけ。
室内には、溶けたチョコレートの甘い匂いが漂っている。
それにしても、学校の家庭科室がこんなに簡単に借りられるなんて。「友達に頼めば平気」と須藤さんが言っていた時は、正直信じられなかった。まあ、頼むというよりは須藤さんが調理部の子を脅しているようにも見えたけど…いや、やっぱり僕は何も見ていない。考えるのはやめよう。
そんな須藤さんは今、少し離れた椅子に座ってスマホを見ながら、のんびりタピオカを飲んでいる。
一方の僕は須藤さんの指示のもと、全神経を注いでクッキー作り。さながら、忠実な召使の気分だ。いや、下僕か。
――けれどそれも、クッキーを作り終えるまでの辛抱だ…!
さながら長距離マラソンのラストシーンのように、ここまでの道のりを振り返る。
2時間前はもう死んだと思った。「何でもする」と言わなかったら、今頃どうなってたんだろう。
買い物も大変だった。でもまあ、心を無にする術を学んだと思えばいい。
そして今は、最難関のクッキー作りに挑んでいる最中だ。すでに「絶対に失敗できない」というプレッシャーのもと、丁寧にチョコレートとバターを湯煎して溶かして、それとは別にメレンゲ?とやらを作るために20分以上泡立て器と格闘した。
本当に、自分を褒めてあげたい。
「混ざったら砂糖を数回に分けて入れて。30グラムから60グラム」
だが、最後まで気を抜いてはならない。絶対に失敗するわけにはいかないのだ。
須藤さんを不機嫌にしないように、指示にはすぐに従うことも大切…って、僕の聞き間違いだろうか。砂糖が30グラムから60グラム?
「あの。砂糖の量、なんて言いました?」
「は?なんでちゃんと聞いてないの。30から60だけど…何、その顔」
「すみません…でも、さっきメレンゲつくるのに50グラムも砂糖入れたのに、また入れるんですか?」
「へぇ、文句でもあるの」
「そういうわけじゃないですけど…でも、もうチョコだって3枚近く入ってるのに」
砂糖50グラムを計った時だって、あまりの量に若干引いた。それにチョコ3枚とさらにまた大量の砂糖を入れるなんて…分量、間違ってるんじゃないかな。激甘で食べれたもんじゃないんじゃ……
しかし僕の思っていることを察してか、須藤さんは呆れたようにため息をついた。
「あのね、これくらいの量普通だから。ケーキなんかもっと大量に砂糖入ってるし。わかったらさっさと手動かして」
「えっ。そうなんですね…すみません。でも、30グラムから60グラムっていうのは…」
「それは『好みで調整』らしいけど」
面倒くさそうにスマホをいじりながら、須藤さんがしれっと言った。
ちょっと待ってくれ。『好みで調整』?どうすればいいんだそんなの。
「そしたら…これを渡す人、甘いのどれくらい好きなんですか?」
「さあ、どうだろうね」
「え」
「あんたの感覚で適当に入れといてよ」
「ちょ、そんなことできないですよ。もっとちゃんと考えた方がいいんじゃ、」
「同じ男子なんだから大丈夫でしょ」
そんな適当でいいのか。男子だって、当然甘いものが好きな奴もいれば嫌いな奴もいるのに。
しかし、「でも…」と引き下がった僕を須藤さんはギロッと睨んだ。うん、何も言えない。
「後で文句言わないでくださいね」と、せめて聞こえないくらいの小さな声で呟いて、僕は砂糖をキッカリ30グラム計って入れた。
…けれど背後から、ずっと須藤さんの視線が僕とボウルに向けられているのを感じる。普通に怖い。何か言いたいことでもあるのだろうか。
無言の圧に耐えかねて、僕は勇気を出して訊くことにした。
「あの、もうちょっと入れます…?砂糖」
「別に。それより早く混ぜて」
「…すみません」
「混ざったら生地をメレンゲの中に数回に分けて入れて。最後は薄力粉とココアパウダー」
…僕の勇気は虚しく終わった。じゃあさっきの視線は一体何だったんだろう。須藤さんの考えていることがよくわからない。
いやでも、それは今に始まったことじゃないか。
美味しくなくて後でキレられるなんてことがありませんように。そう祈りながら、僕は一刻も早くクッキーを完成させることに集中することにした。
そして、数分後。僕は生地作りの全工程を終えた。はずなのだが…
恐ろしいほどトロトロだ。
何がって、もちろん目の前の生地が。クッキーの生地はもっとこう、綿棒で伸ばしたりするような固いものをイメージしていたのに。とてもじゃないけどそんな感じではない。完全に液体の部類に入る。
途中でなにか間違えた?もしかして、混ぜ方が悪いとこうなってしまうとか…もしくはどこかで、取り返しのつかない失敗をしてしまったのだろうか。
動揺と不安で手が震えてくる。恐る恐る、須藤さんの方をチラッと見た。すでにタピオカも飲み終わっていて、何をしてるのかスマホにくぎ付けになっている。
本当は言いたくない。けれど、このまま隠しておけるわけもない。
「あの…これ、こんな風になっちゃったんですけど。すみません、どうしましょう…」
思った以上に声が震えてしまった。判決を待つ罪人の気分だ。
須藤さんはスマホから目を離して、ボウルの中身を一瞥した。無表情なのが怖い。
「何が」
「何って、生地がこんなことに…。材料全部入れたんですけど、僕の混ぜ方が良くなかったのか全然クッキーになりそうには…」
「は?何言ってんの。これクッキーじゃないけど」
「へ…?じゃあ一体、」
「ガトーショコラ」
「ガトーショコラ!?」
「うるっさい。なんでそんな驚くわけ。焼き型のカップも買ってたでしょ。それに私、クッキー作るなんて言った?」
「でも、僕が壊したのクッキーだったし…」
「それとこれとは別。せっかくあんたが代わりに作るんだから、自分じゃ手間かかって面倒だから絶対作らないものの方がいいでしょ。メレンゲとか、手首死ぬから無理だし」
「………」
「で、言いたいことは終わり?」
「…はい」
「そしたらさっさとカップに生地入れて」
「わかりました」
失敗じゃなくて本当に良かった。けれど、まさか別のものを作らされていたとは…いや、でももうそんなことはどうでもいい。考えても意味はない。
それよりゴールはもう、すぐ目の前だ。耐えろ、僕。
ゆっくりと慎重に、全てのカップに生地を流し込む。それらを予熱しておいたオーブンに入れたら、焼き時間を20分にセット。完璧だ。
焼き始めて少し経つと、生地がちょっとずつ膨らんできた。見てても早く焼けるわけじゃないのに、つい眺めてしまう。なんか楽しい。
しばらくすると、甘くていい匂いも漂ってきた。須藤さんもスマホから顔を上げて、オーブンの中を覗き込みに来る。
「いい匂いじゃん」
ぼそっと呟く須藤さん。「そうですね」と、僕も相槌をうつ。
「味も、ちゃんとできてると良いんですけど」
「レシピ通りに作ったんだから大丈夫でしょ」
「そういうものですかね。でもお菓子作ったの初めてですし…ましてやチョコとかガトーショコラなんて、普段あんまり食べないから」
「お菓子嫌いなの?」
「そういうわけじゃないですよ。ただ甘すぎるのが苦手で…サクサクしたパイ系のお菓子とかは好きなんですけど」
「あー、わかる。中にジャム入ってる一口サイズのパイ菓子知ってる?あれ美味いよ」
「“リスの果実パイ”ですか?美味しいですよね。僕はマーマレード味が好きです。須藤さんは?」
「私はリンゴ味かなー」
――信じられない。須藤さんと、こんなに普通に会話しているなんて。
ほんの数時間前には考えられなかったことだ。
ましてやこうして2人で、ガトーショコラが焼きあがるのを一緒に待っているなんて。
僕のすぐ隣で、オーブンの中のガトーショコラをじっと見つめている須藤さん。こうして近くで見ると、すごく睫毛が長い。頬にかかる髪もきらきらしてる。あんなに怖かった鋭い目つきも、今は何故だかきれいに見えて…おかしい。あんなに須藤さんのことが怖かったはずなのに…
チョコの甘い匂いのせいだろうか。きっとそうだ。だから、
「…喜んでもらえると、いいですね」
つい気が緩んで、口からそんな言葉が出てしまった。表情も緩んでいたかもしれない。
すると踏み込み過ぎた言葉に気を悪くしたのか、須藤さんは「それは大丈夫。確実だから」と、不機嫌そうな顔をした。そして僕から顔を背け、
「そんなことより、食器洗い残ってるけど」
そう言ってオーブンから離れると、また遠くの椅子に座ってスマホを見始めてしまった。
さっきまでの穏やかな雰囲気が嘘のようだ。
――うん。ちょっと苦手意識がなくなったかもと思ったけど…
やっぱり須藤さんは、須藤さんだ。
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