【短編】はだかのおんなのこ

スタジオ.T


 最初は人違いかと思った。

 久しぶり、と声をかけてきた彼女は、僕が知っている荻野おぎのとは印象が違った。


「分かる? 目、いじったの」


 ぱっちりと開いた二重まぶたを指差しながら、荻野は笑った。

 茶色い髪をお腹のあたりまで伸ばして、黒いシャツにタイトなジーンズを着ていた。暗い照明で、細い二の腕がぼうっと浮かび上がっていた。


 夜の渋谷は騒がしかった。学生時代の友人がイベントをやるというので、やって来たハコで僕はひどく退屈していた。面白みのない単調な音楽で踊っている連中から離れて、隅の方でタバコをふかしていた。


「ねえ。今、何してんの」


 荻野は僕に聞いてきた。


「東京いたなんて知らなかった。学生?」


「いや、フリーター兼劇団員」


「へえ、苦労してそー」


「楽しくやってるよ。金はないけど」


「じゃ私がおごってあげるから飲もうよ」


 細長いストローみたいなタバコを灰皿に捨てて、荻野は言った。金も無くて腹も空かしていた僕は、ほいほいと荻野の後について、焼き鳥屋でシーザーサラダとつくねをご馳走になった。


「いつぶりだっけ。高校卒業してから会ってないから……やだ、もう六年くらい経ってるね」


 赤く塗られたネイルの指で数えて、荻野は呆然とした顔をした。ぽってりした丸いグラスにはロックの梅酒が入っていた。共通の友人とか昔の話をした。荻野は今何してるんだ、と聞くと広告の会社で仕事をしていると言った。


「お店のね、ポスターとかチラシとか。ホームページのデザインしてる」


「ぴったりじゃん。そういや荻野、絵うまかったからな」


「私、そんな印象?」


「美術の時に描いたスニーカーの絵。市役所かどっかで飾られてただろ」


「ああ。よう覚えてるね」


 嬉しそうに、クシャッと表情を崩して荻野は言った。頬は火照ったミカン色をしていて、まあまあ酔ってるなという様子だった。


 今のくだけた感じの方が、僕の印象にあった荻野に近い。中学の頃の、朝練で疲れてうたた寝していた時の彼女の横顔を、僕は思い出していた。


「家、お邪魔したこともあったっけ」


 荻野の言葉に「そうだったな」と僕は返した。彼女がグラスを突くと、水面がかすかに波打った。その後の沈黙は気まずかった。


 僕と荻野は中学生の頃、一緒に暮らしていたことがある。暮らしていたと言っても、二日三日くらいの話だけれど、荻野は僕の家に寝泊まりしていた。


 原因は彼女の両親の離婚だった。


 荻野の家が荒れてどうしようもなくなって、近所で仲の良かった僕の母親が彼女を一時的に預かることを提案した。荻野の母親が精神的に病んでいたんだと、後から僕は知った。


 大きなリュックを背負って学校のジャージ姿で現れた彼女は、ひどく疲れた顔をしていた。


「ごめんなさい。お邪魔します」


 彼女は僕の両親に丁寧にお辞儀をしていた。猫背気味で、髪は肩のあたりで無造作に切られていた。当然今みたいな二重でもなかったし、鼻の横に二、三個ニキビを作っていた。


 すごく美人じゃないけれど愛嬌あいきょうがある。そんな子が何だかんだモテるし、荻野もそうだった。当時はサッカー部の先輩と付き合っていた。


 学校では良く喋っていた同級生を、家で見るのは変な感じだった。お風呂上がりとか、食卓を囲んでいる時とか。他人のプライベートをのぞき合いしているようで、ムズムズした気持ちを良く覚えている。ひたすら落ち着かなかった。


 対する荻野は見ていて心配になるくらい落ち込んでいた。心を支えていたものを、ぐちゃぐちゃに壊されてしまったみたいな顔だ。僕は彼女に強く同情したけれど、不用意な言葉で傷つけてしまうのが嫌で、ほとんど何も声をかけることができなかった。


 雨粒の大きな、七月の夜だった。


 両親は遅くまで荻野の母親と話し合っていて、帰ってくる様子はなかった。リビングで僕たちはテレビを見ていた。何か会話したけれど、良く覚えていない。リビングの時計の音の方が、よほど印象に残っている。


「先に寝るよ」 


 居心地の悪い僕は、荻野をリビングに残して自分の部屋に戻った。


 それから十分くらい経った頃だったと思う。僕は部屋を暗くして、ベッドに寝転んでいた。


 屋根を叩く雨の音が一層強くなった。部屋のドアがすーっと開いた。両親じゃない。帰ってきた様子はなかった。だから、僕の部屋に入ってきたのは荻野しかいなかった。


 荻野は「起きてる?」と小さな声で言った。何も答えずにいると、するりと僕のベッドに潜り込んできた。触れた肌は柔らかくて、溶けた氷のしずくみたいに冷たかった。

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