思い出す話と今の場所

@rabbit090

第1話 忘れることはできない

 私はずっと苦しかった。

 こんな表現をよく使われるような気がするけれど、”救われた”まさに最適当だと実感している。

 苦しい渦中にいる時は、苦しいということにも鈍感であって全く気付くことすらできていなかった。

 私はどんどん知りたいことが増えていって、今日初めて人間になったような心地を覚えている。

 風が吹き抜ける公園で初めて出会った。

 偶然ではなかったけれど、私たちは惹かれあっていたような気がする。

 「ねえ、なんで私なんかと一緒にいてくれるの?」

 あの人の顔を見つめながら私は心の中で呟いていた、何度も繰り返して吐き出すようにして。

 愛おしい目が、いや私を愛おしく見つめているその目が、きっと愛の証拠なんだとその時知った。

 こんなに愛おしい小動物を見るような目で見つめられたことはない、人生の中で一度も、本当にたった一度も、決してなかったと思う。

 愛されるというのは、非常に至福なのだと初めて、初めて知ることになった。


 「ぎゃあ、ぎゃあ。」

 私の家の中はこのような感じ。

 いさかいと争いと無意味を繰り返す、そんなものだった。

 後ろ暗いことなんて私には当たり前で、だからきっと一生幸せになんてなれないと分かっていた。でも本当はそんなこと信じたくなくて、つい、ついすがってしまったみたいだ。

 だからあの人は、多分いなくなってしまった、私の近くから、手の届かないところへ行ってしまった。もうかすかな印象しか記憶には無くて、でもなぜだかずっと私の心に沁みついているのだから、消しても消しても絶対に消えてなどくれないし、本当は忘れたくなどなかったのだ。

 

 春が来てしばらくたった頃だった。

 オフィスの一番端っこのブースで仕事をしている彼は私のことを気に入ってくれたらしい。

 「町花さん。」

 私は町花京まちはなきょうという。

 「あ、手元てもと君。どうしたの?なんかミスでもしちゃった?」

 彼は手元君といって、私より一歳若い。

 いつもいつもぼんやりしているのかうっかりしているのか、仕事上でのミスが多く、私はお世話を焼かされることが多々あった。

 でも彼は非常に礼儀正しくて、ああ、きっとこの誠実さがこのポンコツを(失礼だが)入社させてくれたのだろうな、と常々思わされていた。

 私はどちらかというと仕事は速い方で、上司からの信頼も厚かった。

 だけど手元君はやっぱりミスが多いから、どんどん周囲から孤立していき今味方になってあげられるのは私だけなのだと思う。

 そして、

 「町花さん…。」

 少し色っぽい声で私は自分の名前を認識する。会社から帰ったらいつものように二人でホテルへ向かい一緒にベッドで寝転がっていた。

 感じるところでは、もはや男と女ではなく仲の良い姉弟のようだった。ゴロゴロと寝返りを打ちながら私たちはじゃれあって触れ合っていた。

 私は情事が終わった頃合いを見計らってぼんやりと天井を見上げる。

 昔から薄く明かりをつけて天井を見上げると、どうしても眠れない夜というものが全く来なくなっていた。だからずっとこの習慣を繰り返している。

 「ねえ、手元君さあ、転職とか考えてないの?多分君にはちょっとこの仕事は向いていないんじゃないかなあ?」

 私は手元君に思っていることをぶつけてみた。そんな風に何でも言い合える関係を私たちは築いていた。

 「馬鹿だなあ。馬鹿だなあ。俺はいっつもそう言われて生きてきたんだ。」手元君は少し苦しそうな顔をして私を押し倒した。

 「……うん。でも私ちょっと分かってたよ。手元君がおかしいってこと。変な言い方しちゃってごめんね。」

 私たちは忖度という相手へのおもんぱかりを廃絶している。

 それが可能になったのは一重に手元君のおかげだと思っている。彼は純粋で、非常に極端なほど透き通っているように感じる。

 私はこんなに綺麗なものに手を近づけていいのかと、いつもおどおどと困惑してしまうことがある。

 「町花さんにはきっと分からないってことだけ俺は知っている。俺は俺であることがきっといけないことなのだと思う。」

 手元君は私に抱きついたままそう言って眠ってしまった。

 私はそんな彼がすごく愛おしかったのだ。

 だが、私は。

 私はこんな時にでもつい、あの人のことを思い出してしまう。

 「京。」

 端的に私を呼びかけるのは大好きな人だ。

 私はあの人の全てにくすぐられていた。

 …来ないなあ。待ち合わせをしていたはずなのに、あの人はやって来なかった、いやまだだ。まだきっと仕事の調整がつかないだけで、きっともう少し待てば何とかなると思う。

 「寒い。」

 もう冬になりかけていて、寒々とした空気になじめていなかった私は凍えるような感覚を覚えていた。

 分かっていた。

 私は分かっていた。

 こんな風に私を粗雑に扱えるということはもう終わりだっていうことを、はっきりと気づいてしまっていた。

 私はいつも至らない人間で、すくい取る理由なんか全くなくて、単純に面倒くさくなったら手放せばいいだけなのだ。

 あの人は余裕を持て余していて、私はただすがるように苦しかったのだから。

 あり得ないことなんてなかった、ただいつも通りに捨てられただけなのだと思う。

 思い出すのは心地よかった思い出の数々で、あの人が私に話しかけてくれたこと、私があの人に話しかけたこと、その反応、全部が全部愛おしく無意識に笑顔を引き出す綺麗な思い出なのだった。

 だからその後、こんなくだらないことの後、私はなぜか死にそうな心地で、なぜ死にそうなのかも本当は分からず、でも執着であったら嫌だなあ、なんて思ったりして…

 望んでいるのは真実なのだとふとぼんやりとトイレの中で考え付いた。

 夜中の底寒い場所だった、だけど私の心は自然と落ち着いていた。

 なぜ、私はこんなにも苦しいのか、本気で好きだったからなのか、ただ私を幸せにしてくれる都合のいい人間を失ったという些末な理由であったのか、知りたい。

 求めているのは本物だったという事実で、私はそこに答えが行き着くように何度も何度もシュミレートを重ねてしまう。

 「何でよ…。」

 「どうしたの?ごめんね。俺、何かしちゃった?」

 複雑そうな顔で心配そうに私を見つめているのは手元君だった。

 私はその瞬間すごく安堵したし、でも計り知れないほどの罪悪感を抱えたりもしていた。

 なぜ私はこんなに大事に思って当然のはずの手元君に恋をせず、あの人のことばかり考えているのだろう。

 よく考えれば私はずっとあの人以外に恋をした経験がしばらくないのだから、これはまさしく締め付けられているといっても過言ではないだろう。

 「…、ねえ、手元君はさ。私のこと、本気で好きではないでしょう?」

 恋というのは人間二人の化学反応で、どちらかが好意を自覚していなかったらそれは多分不完全な状態なのだと私は思っている。

 ずっとそのような恋しかしたことはなく、別段ドキドキするだけの片思いとは全く違うものなのだと思っているし、痛感している。

 本物の恋は、私の知る限り、ものすごく痛いのだ。

 「町花さんのこと、俺はすごく好きだと思ってる。」

 手元君は真剣な顔で見つめていた。

 私はだから少し視線をそらしてしまった。後ろ暗くて、直視などできなかったのだ。

 「でもきっと、手元君は知らないだけだよ。私は分かっているの。」

 驚いた顔で私を見つめている、彼はまだあどけない少年のような顔をしていた。

 「ごめんね。やっぱり手元君のこと、大事だけれど、好きではないみたいなの。だから、ごめん。別れよう。」

 そう言って、私は裸の体に服をまとい抑えても隠し切れないくらい体が震えているのに、手元君の顔を一切見ず部屋の外へと駆けた。

 「京。」

 もう一度ささやいて欲しかった。

 私の耳をくすぐるのは、どうやらあの人だけだったようだ。

 どれだけほかの何かを探しても、決して見つからなかったのだし、もう揺らぐことのない現実にただ茫然としてるだけだったのだ。

 ひどく苦しい気持ちのまま、でも手元君のことは頭には思い浮かばず、やっぱりあの人の名前を呟いていた。

 私を救ってくれた人、私に多くのものを与えてくれた人、考えても考えても状況は変わらず、いったい私は何を求めているのだろうか、と延々とした疑問の沼に、思考の溝にどっぷりと浸かってしまっていて、ああ、何だか辛い、それだけだったみたいだ。

 寒い。

 寒いのに私はずっと一人でどんどん深みへとはまっていく。

 「京!」

 私は立ち止まって、震える。

 父の声だった。

 理不尽だった、どう理不尽なのか説明することも難しくて、誰かに分かってもらえるはずなどなかったのだから、

 でも、でも。

 私は、私は?

 なぜだかいつもは理不尽の応酬が続くのに、私はただすり減らしていくだけなのに、今日はなぜか耐えられなかった。

 体中が震え、涙が出てしまって止まらなかった。

 父は仰天した顔をしていたけれど、私はもう全部がどうでもよくなって逃げ出したかったけれど、やっぱり足は動かなかった。

 だからその場に座り込んでしまって、ただしゃくりあげていた。

 子供のように、ヒックヒックと、いつまでも。

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