思い出

霧村

初冬

 

 「ほら」

 そう言って先輩は愛車の鍵を僕に渡した。

 今は十二月の初旬、通っている大学の近くでクルマ好き同士のミーティングが開かれるからとこうして僕は先輩と連れ立って出かけたのだった。

 

 先輩とは大学のサークルで知り合った。厳密には先輩はもう卒業して社会人となっていたのだが、大学院生としてちょくちょくキャンパスに顔を出しているところに、たまたま部室に顔を出していた僕は居合わせたのだ。

 先輩はキャンパスまでクルマで通っていた。それは深い緑色をした二人乗りの小さなスポーツカーだった。元々は先輩が学生の時分に手に入れたもので、1990年代に作られた国産車だ。そもそも古いクルマとあって自分で各部に手を入れたりしながら、先輩は楽しそうに維持していた。その落ちついた色合いのボディとよくマッチしたタンの内装、そして1990年代のスポーツカーに特有の飛び出すタイプのヘッドライトが、落ち着いていながらどこか無邪気に僕に接してくれる先輩に雰囲気がよく合っていると思えた。

 そして僕はそんな先輩の様子を見て、いつかこんなふうになりたいと憧れていた。でも会うのはいつもキャンパスの中で、それも少し立ち話をするくらいだった。

 

 そんな先輩からお誘いを受けたのは二日前のこと。いつものように一日の講義が終わったタイミングで部室に顔を出すと、そこには先輩しかいなかった。今週末に大学から小一時間ほどの観光道路でクルマ好きが集まるミーティングがあるのだそうだが、ちょうど一緒に行くはずだった先輩の友人の都合が悪くなったとかで、「代わりに一緒に行かない?」と誘われたのだった。


 ミーティング場所である観光道路の途中にある広場に到着すると数十台ほどのクルマがすでに集まっっていた。先輩は係の人の誘導にしたがい広場の一角にクルマを停めると、僕に降りるよう促し、

「見に行こう」

と言った。先輩は僕と一緒に歩きながら目についたクルマについて話してくれた。特に先輩は古いスポーツカーが好きなようで、とても小さな真っ赤なスポーツカーを見つけたときは子供のようにはしゃいてオーナーの人としばし話し込んでいた。そのクルマは今は大企業となった国産メーカーが最初期に発表したものの一つのようで、当時は新参メーカーがこれまでの常識を覆すような高性能なモデルを発表したということで話題になったのだそう。

「タイヤをチェーンで駆動するなんて独創的だよね。でも何よりも小さくて今となっては可愛く見えるね」

そう言って先輩は笑った。その赤いクルマはどことなく先輩の乗っているクルマに雰囲気が似ていると思った。

 そうしているうちにお昼近くになっていることに気づいた。ちらほら帰りはじめているクルマもある。こういうミーティングは早朝から昼頃までがもっとも賑わう時間帯だのだと先輩は教えてくれた。


 「道も空いてるし、そろそろメインイベントかな」

そう言ってから「ほら」と先輩は愛車の鍵を僕に渡した。

「クルマ運転してみたくなったんじゃない?」

僕は少し驚いたが、先輩に言われた通りだった。免許はすでに持っているものの、初心者である自分に先輩が大切な愛車を一瞬であったとしても預けてくれることに少し戸惑った。

「こういうのって実際に体験してみないと分からないから。ほら早く」

先輩は事もなげに言った。僕も興味が抑えられなくなっていたのは事実なので、意を決して鍵を握りしめた。

 小ぶりなハンドルに人差し指を入れドアを開くと左足から屈みながら運転席に収まる。教習所で習った通りにシートの位置とミラーの位置を調整した後に、ハンドルの位置を調整しようとして戸惑った。

「動かないよ」

そう先輩は笑って続けた。

「古いクルマだからね。自分の方がクルマに合わせてあげないと」

なるほど、そういうものかと再び微調整した。鍵を差し込み右に捻ると、キュルルと短く唸った後、クルマが目覚めた。

「次いでだから屋根を開けよう」

先輩はそう言ってフロントガラスの上側左右にあるロックを外した。そのときに先輩が間近に迫ってきたので僕は少しどきりとした。

「クラッチのミートポイントを確認したら発進しよう」

先輩にそう言われて、僕はクラッチペダルを奥まで踏み込み、シフトレバーを一速に送った。そしてゆっくりと左足を上げた。左足を完全に上げる前にクルマが前に出たそうに少し震えた。

「そう、そこ」

先輩の確認も済んだので、パーキングブレーキのレバーを下ろし、右足で少しアクセルペダルを踏み込みながら、同時に左足を上げると、駆動力を得たクルマはゆっくりと走り出した。

「そこを左」

広場から左に出ると右足をさらに踏み込みスピードを上げた。目の前の回転計が3000回転を指したくらいでクラッチを踏み込み二速へと変速した。背中を軽く押されるような加速感を伴いながら軽快にクルマは進んだ。三速への変速を果たしたところで右へのカーブが迫ってきた。少しブレーキペダルを踏んで減速してから手応えの軽いハンドルを切った。少しロールを伴いながらクルマはひとつ目のカーブをクリアした。「これは!楽しい!」とても緊張していたはずなのに、カーブをひとつ走り抜ける頃にはすっかりこの感覚の虜になっていた。

「ふふっ、どう?」

先輩は愉快そうに声をかけてきた。「楽しい」と素直に感想を言うと、先輩はさらに愉快そうに続けた。

「さっきから顔緩みっぱなしだよ」

そう言われてはじめて自分が笑顔になっていることに気づいた。次の左カーブが近づいてくる。先ほどと同じように少し減速してからカーブに入った。曲率が緩くなってきたところで先ほどよりも強めにアクセルペダルを踏み込んだ。そうするとクルマは僕の意志を忠実に再現するかのように加速していった。なんということだろうか。まるで僕の身体の延長のように操ることができるような気持ちにさせられた。

「ちょっと慣れてきたね」

なおも先輩は笑っていた。万能感に浸っているのは僕ばかりで、先輩からすると辿々しい運転ばかりだろうにそんな様子はおくびにも出さなかった。


 そうして三十分ほど走っていただろうか。元の広場に戻ってきてエンジンを切ってから、しばし僕は惚けたようにシートに座ったままだった。先輩に促され助手席に移って、僕と先輩は帰路に就いたのだった。先輩は僕とは比べ物にならないくらい滑らかに、まさに自分の手足のごとく愛車を走らせながら、今日見たクルマや会った人について感想を話し続けた。その間も僕は先輩と先輩の愛車のことが頭から離れず口数は少なかった。

「それで、君の感想は?」

少し言葉を切った先輩にそう問われ、つい口をついて出てしまった。「好きです」

「……知ってた」

先輩はふふっと笑ってハンドルを握り直した。


(終わり)

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