いたいけな心

今衣 舞衣子

前編

 好きな男には少しの憎まれ口を言われたい。

「君は髪が長いからね。部屋中に君の髪ばかり散らかっているよ」

 粘着クリーナーを転がしながらいう白いワイシャツに紺のスラックス姿の清掃員。家具と家具の隙間、ベッドの下、コロコロ、コロコロ。

 その丹精さをベッドの上から眺めていると、彼は私に目配せて笑った。爽やかな笑顔とは言えない。少し意地の悪い、歪んだ笑顔。

 この男を見ていると、つくづく人の生き様は顔に出るのだな、と17の私は痛感した。


 夏の湘南で恋に落ちた。といえば聞こえは爽やかだろうか。

 17と42という響きを帯びた途端、生暖かな風が肌を刺すのは気のせいだろうか。

 とは言え、あの灼熱の日から息白し今日こんにちまで私の心は彼にときめいているし、確かに恋をしている。たいして頑丈な鎧を纏っていない肉体も、自身の艶めく肌の触感を知らせてくれる乾いた皮膚も、かえって愛おしい。


 それにしても随分と念入りにクリーナーを転がすじゃないか。

 私は妙に笑えた。ついさっきまで彼が顔を埋めていた場所は体内の老廃物と快楽と正気の狭間で揺らめいた結果、湧き出た液を垂れ流す出口なのだ。己の舌で拭う、その根性は潔癖とは程遠い気がした。

 この執拗なぐらいにクリーナーを転がすわけは別の女を招く為の下準備なのではないかと疑ってみる。


 と、言いつつ今日はあいにく土曜日。学校もなく、この家で彼の帰りを待つ予定だ。自分の様な女を手放すわけがないと思いながらも、若さと制服しか取り柄のない私にも憂いは生まれるもので。


 いつの日か聞いたことがある。23時、レインボーブリッジを見たい、という要望に応えてシフトの重い車を走らせてくれた日だ。

 辰巳PAを2周した辺り、

「あなた、潔癖なのによく舐められるね」

 突拍子もない言葉をよく口にすることがある。

 そういった言葉を溢すと、まるで口端についたジャムを拭ってくれるような「君には教育が必要だね」というような、宥める視線が未熟な心をきゅっと摘むのだ。

 はて、彼は静かに笑うだけだった。

 かと思えば、レインボーブリッジを目前に

「君は勘違いしてるね」と言った。

 生意気心で彼の横顔をキッと睨むと、彼は余裕綽々とした顔つきで

「綺麗好きだから、隈なく舐めるんだよ」

 潔癖と綺麗好き。その言葉の違いを突きつけられた時、何となしに空を仰いだ。余計な隔たりのない、ひとつまみ程度の星屑が散った空を眺めた。

 秋風に晒された生暖かな車内が次第に凍てつき始めた頃、

「見逃したからもう一周してくれる?」

 私は精一杯の意地を張った。


 その後、過ぎていく幾千もの光の戯れを眺めながら、先程のやりとりを幾度も脳裏で繰り返し再生するのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る