Flutter In Dawn
ソラノリル
Act.1-1
早すぎる初冬の夕暮れに染められた街。宵闇に滲むように灯るガス燈。新市街の東端に位置する主要駅の構内は、重厚な煉瓦造りの壁のあちこちに、風化しかけた銃弾の痕を遺している。かつての内戦の爪痕だろうか。しかし、今ここに、この国の歴史を悼む者などいない。占領、革命、独立……その度に刻まれた傷はあまりに多く、重なりすぎて、どれがいつできたものなのか、もはや定かではないし、人々の興味も大半が失われている。小さく、弱く、脆かったこの国は、強国に
駅の構内は、家路を急ぐ人々で溢れている。誰も彼も己の行き先だけを見つめ、他人になど目もくれない。何の変哲もない、見飽きた日常の風景と思いこんでいるものだけを、疲れた瞳の表層に映すばかりだ。だから、その陰に潜んだ非日常に、目を止める者はいない。
煤けて
(指定された時間まで、あと五分か)
アタッシェケースを持つ手に、無意識に力がこもる。雑踏を越えて絡みつく複数の視線。そんなに監視しなくても、逃げたりしねぇよ。逃げられるものかよ。再び舌打ちし、昴は雑踏から視線を外す。
(この国には、もう、正義なんてどこにもねぇのかよ)
上官からの命令だった。約束の時間に、約束の場所で、約束の相手にアタッシェケースを渡すこと。司法取引だと上官は言った。アタッシェケースの中身は、昴が身を置く公安組織の機密文書だ。それを、隣国の反社会的勢力に流せという。
――承諾するなら、君の出世は保証される。
そんなものは要らなかった。くそくらえだとすら思った。体の横で両手をきつく握りしめた昴に、上官は言葉を続けた。
――断るなら、我々は君の口を封じ、別の誰かに頼むが、それでも良いのか?
上官は笑った。こう言えば昴は従わざるをえなくなる。自分が処されることよりも、別の誰かが自分の代わりに手を汚すことになるのが、昴は我慢ならなかった。
だから昴は、ここに立っている。鈍く光る金属製のアタッシェケースに、無力な自分の姿が映っているのを、怒りと絶望のまなざしで睨みつけながら。
(この文書を、守る手はないのか)
この国を、守る手はないのか。
(犯罪をなくしたくて公安に入ったってのに……これからだって思っていたのに、こんな形で、犯罪の片棒を担がされて終わるのかよ)
唇を噛みしめ、両手をぐっと握りこむ。ここに来るにあたり、一切の武器の携帯を禁じられた。わざわざ体を
誰かを守ることも、できないまま。
(バッドエンドが確定しているシナリオかよ。クソが)
独りでは覆せない。腐敗した力は貪欲に肥え太り、
(それでも、諦めたくない)
最後まで、絶対に、自分から
考えろ。
考えるんだ。
何か手はないか。
何か。
誰か――
「失礼」
不意に、静かな声が昴を呼んだ。はっと振り向くと、青年が一人、無表情に昴を見上げていた。人の気配に敏感だったはずなのに、声を掛けられるまで昴は青年に全く気がつかなかった。
(考え事をしていたからか……?)
「道を聞きたいんだが……」
青年の左手には、折り畳まれた地図が握られていた。
「あ、あぁ……どこまで……?」
約束の時間が迫っているが、不測の事態だ。昴は青年の持つ地図に視線を落とす。青年は、右手をコートのポケットに入れたまま、左手だけで、器用にそれを大きく広げた。雑踏から昴を隠すように、高く掲げて。
「っ! お前……っ」
「聞け」
ポケットの中、青年の右手には拳銃が握られていた。気づいた昴が身構える前に、青年は素早く距離を詰め、地図の陰で耳打ちした。昴の体に銃口が押し当てられる。長めの前髪から覗く青年の瞳は、オニキスのような深黒で、一切の光がなく、何の情動も宿っていない。
「選べ」
「今ここで俺に殺されるか、それとも、俺に
「何、言って……」
昴は、警戒と困惑のまなざしで、青年を見下ろした。
「お前、何者だ? 目的は?」
「回答を拒否する」
昴の問いかけを、青年は刃を振り下ろすように、ばっさりと切り捨てた。
「時間がない。手短に話すから、聞け」
さらに声を低め、青年は言葉を選ぶように一呼吸置き、再び口をひらいた。
「文書を回収することは、こちら側にとって、既に前提条件として決定している。お前を殺して奪うか、お前ごと奪うか、その違いがあるだけだ。だから尋ねた」
青年の言葉に、昴はぴくりと眉を動かす。彼は、アタッシェケースの中身が何かを知っている。そして、回収ということは、この国側の人間である可能性が高く、なおかつ、反社会的勢力である可能性は低い。その上で、奪うということは、公安側の人間でもない……。
何より不可解なのは、
(なぜ俺に、死ぬか生きるかの選択を提示する……?)
文書が目当てなら、さっさと殺して奪えば良い。それに高官ならまだしも、今日で用済みとなる自分に、
昴は青年を見つめた。青年もまた、昴にまなざしを向けていた。
約束の時間まで、あと二分。
「……あと二つ、選択肢があるぜ」
「なに?」
不敵に笑った昴に、青年は僅かに眉を寄せる。
「一つ目は、お前を取り押さえて、命じられた仕事を完遂する選択だ」
「できるものなら、やってみろ。お前を殺すのが、お前の身内になるだけだ」
青年の目つきが鋭さを増した。銃口を押し当てる手に力がこもる。
「こっちの事情まで承知済みってわけだ」
はっ、と昴は乾いた笑みを浮かべて肩をすくめる。
約束の時間まで、あと一分。
「じゃ、二つ目だ。俺が選ぶ、最後の選択肢を言うぜ」
アタッシェケースを握る手に、昴は、ぐっと力を込める。
「俺が、俺の意志で、このクソなシナリオをぶっ壊す選択だ」
アタッシェケースを投げ上げる。同時に素早く身を翻し、昴は青年の銃をその手ごと
「他人の都合で生かされるのも、黙って殺されるのも、まっぴらだ! 生きるも、死ぬも、自分で決めてぇんだよ、俺は!」
青年の右手ごと銃を握り、昴はすぐ傍に迫っていた影に、そのトリガを引いた。
約束の時間だ。
「連れてけ!」
落下するアタッシェケースを掴み、昴は青年を振り返り叫んだ。取引相手だった男が、床に落ちた地図の傍らに、昴に撃たれた足を押さえて
血の気のない、白い手だった。
死人のように、冷たい手だった。
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