Flutter In Dawn

ソラノリル

Act.1-1

 早すぎる初冬の夕暮れに染められた街。宵闇に滲むように灯るガス燈。新市街の東端に位置する主要駅の構内は、重厚な煉瓦造りの壁のあちこちに、風化しかけた銃弾の痕を遺している。かつての内戦の爪痕だろうか。しかし、今ここに、この国の歴史を悼む者などいない。占領、革命、独立……その度に刻まれた傷はあまりに多く、重なりすぎて、どれがいつできたものなのか、もはや定かではないし、人々の興味も大半が失われている。小さく、弱く、脆かったこの国は、強国にこうべを垂れることで存続する道を選んだ。大国の掲げる正義の下に布かれた民主化。解放という名の放棄。慣れと諦めで舗装された平和の上を、無表情に無感動に歩いている。

 駅の構内は、家路を急ぐ人々で溢れている。誰も彼も己の行き先だけを見つめ、他人になど目もくれない。何の変哲もない、見飽きた日常の風景と思いこんでいるものだけを、疲れた瞳の表層に映すばかりだ。だから、その陰に潜んだ非日常に、目を止める者はいない。

 煤けてひびの走ったコンコースの柱に背を預け、青年――スバル・シラハは、腕時計を一瞥し、小さく舌打ちとともに嘆息した。緩い癖のあるシルバーブロンドの短髪。切れ長の瞳はクォーツのように明るく澄んだ灰色。襟元を無造作にくつろげたシャツに羽織ったアッシュグレイのトレンチコートは、鍛えられた長身によく似合っている。

(指定された時間まで、あと五分か)

 アタッシェケースを持つ手に、無意識に力がこもる。雑踏を越えて絡みつく複数の視線。そんなに監視しなくても、逃げたりしねぇよ。逃げられるものかよ。再び舌打ちし、昴は雑踏から視線を外す。

(この国には、もう、正義なんてどこにもねぇのかよ)

 上官からの命令だった。約束の時間に、約束の場所で、約束の相手にアタッシェケースを渡すこと。司法取引だと上官は言った。アタッシェケースの中身は、昴が身を置く公安組織の機密文書だ。それを、隣国の反社会的勢力に流せという。

――承諾するなら、君の出世は保証される。

 そんなものは要らなかった。くそくらえだとすら思った。体の横で両手をきつく握りしめた昴に、上官は言葉を続けた。

――断るなら、我々は君の口を封じ、別の誰かに頼むが、それでも良いのか?

 上官は笑った。こう言えば昴は従わざるをえなくなる。自分が処されることよりも、別の誰かが自分の代わりに手を汚すことになるのが、昴は我慢ならなかった。

 だから昴は、ここに立っている。鈍く光る金属製のアタッシェケースに、無力な自分の姿が映っているのを、怒りと絶望のまなざしで睨みつけながら。

(この文書を、守る手はないのか)

 この国を、守る手はないのか。

(犯罪をなくしたくて公安に入ったってのに……これからだって思っていたのに、こんな形で、犯罪の片棒を担がされて終わるのかよ)

 唇を噛みしめ、両手をぐっと握りこむ。ここに来るにあたり、一切の武器の携帯を禁じられた。わざわざ体をあらためられ、隠し持っていないか確認されるほどの徹底ぶりだった。見張りに囲まれ、動くすべはない。文書の受け渡しは避けられない。告発も叶わないだろう。出世の口約束など、最初から噓っぱちだと分かっている。この仕事が終われば、自分は口を封じられ、明日の朝には死体になっているだろう。何ひとつ抗えないまま。何も成せないまま。

 誰かを守ることも、できないまま。

(バッドエンドが確定しているシナリオかよ。クソが)

 独りでは覆せない。腐敗した力は貪欲に肥え太り、足掻あがくことすら叶わないほど強大だ。

(それでも、諦めたくない)

 最後まで、絶対に、自分からこうべを垂れることはしたくない。

 考えろ。

 考えるんだ。

 何か手はないか。

 何か。

 誰か――

「失礼」

 不意に、静かな声が昴を呼んだ。はっと振り向くと、青年が一人、無表情に昴を見上げていた。人の気配に敏感だったはずなのに、声を掛けられるまで昴は青年に全く気がつかなかった。

(考え事をしていたからか……?)

 いぶかりながら、昴は青年に向き直る。約束の人物とは違う。年の頃は二十代前半……昴と同じくらいだろうか。癖のない漆黒の短髪。白い肌。昴ほどではないが、それでもこの国の平均よりは遥かに高い背。均整のとれた、すらりとした体躯を、黒いロングコートで包んでいる。

「道を聞きたいんだが……」

 青年の左手には、折り畳まれた地図が握られていた。

「あ、あぁ……どこまで……?」

 約束の時間が迫っているが、不測の事態だ。昴は青年の持つ地図に視線を落とす。青年は、右手をコートのポケットに入れたまま、左手だけで、器用にそれを大きく広げた。雑踏から昴を隠すように、高く掲げて。

「っ! お前……っ」

「聞け」

 ポケットの中、青年の右手には拳銃が握られていた。気づいた昴が身構える前に、青年は素早く距離を詰め、地図の陰で耳打ちした。昴の体に銃口が押し当てられる。長めの前髪から覗く青年の瞳は、オニキスのような深黒で、一切の光がなく、何の情動も宿っていない。

「選べ」


「今ここで俺に殺されるか、それとも、俺にさらわれて生き延びるか」


「何、言って……」

 昴は、警戒と困惑のまなざしで、青年を見下ろした。

「お前、何者だ? 目的は?」

「回答を拒否する」

 昴の問いかけを、青年は刃を振り下ろすように、ばっさりと切り捨てた。

「時間がない。手短に話すから、聞け」

 さらに声を低め、青年は言葉を選ぶように一呼吸置き、再び口をひらいた。

「文書を回収することは、こちら側にとって、既に前提条件として決定している。お前を殺して奪うか、お前ごと奪うか、その違いがあるだけだ。だから尋ねた」

 青年の言葉に、昴はぴくりと眉を動かす。彼は、アタッシェケースの中身が何かを知っている。そして、回収ということは、この国側の人間である可能性が高く、なおかつ、反社会的勢力である可能性は低い。その上で、奪うということは、公安側の人間でもない……。

 何より不可解なのは、

(なぜ俺に、死ぬか生きるかの選択を提示する……?)

 文書が目当てなら、さっさと殺して奪えば良い。それに高官ならまだしも、今日で用済みとなる自分に、さらうべき価値があるとも思えない。

 昴は青年を見つめた。青年もまた、昴にまなざしを向けていた。さざなみと凪。クォーツとオニキス。相反する二つの色が、かち合う。鏡のように、瞳と瞳が映し合う。青年の瞳は、底知れない黒さだった。どこまでも暗く深い。しかし、そこにふと、かすかに揺らめく影を見た。瞬きをひとつ置いて、青年の瞳が、すっと、わずかに大きく見開かれる。青年も、昴の瞳に、同じものを見つけたようだった。冷たく、くらく、深淵にうごめ常闇とこやみの炎。かつて大切なものを失い、守れなかった自分を、果てなくきつづける責罰の火。それを、ふたり、このとき確かに、互いの内に認めていた。

 約束の時間まで、あと二分。

「……あと二つ、選択肢があるぜ」

「なに?」

 不敵に笑った昴に、青年は僅かに眉を寄せる。

「一つ目は、お前を取り押さえて、命じられた仕事を完遂する選択だ」

「できるものなら、やってみろ。お前を殺すのが、お前の身内になるだけだ」

 青年の目つきが鋭さを増した。銃口を押し当てる手に力がこもる。

「こっちの事情まで承知済みってわけだ」

 はっ、と昴は乾いた笑みを浮かべて肩をすくめる。

 約束の時間まで、あと一分。

「じゃ、二つ目だ。俺が選ぶ、最後の選択肢を言うぜ」

 アタッシェケースを握る手に、昴は、ぐっと力を込める。

「俺が、俺の意志で、このクソなシナリオをぶっ壊す選択だ」

 アタッシェケースを投げ上げる。同時に素早く身を翻し、昴は青年の銃をその手ごとつかんだ。とっさに振り解こうとした青年の左手が地図から離れ、遮られていた光が銃口をひらめかす。

「他人の都合で生かされるのも、黙って殺されるのも、まっぴらだ! 生きるも、死ぬも、自分で決めてぇんだよ、俺は!」

 青年の右手ごと銃を握り、昴はすぐ傍に迫っていた影に、そのトリガを引いた。

 約束の時間だ。

「連れてけ!」

 落下するアタッシェケースを掴み、昴は青年を振り返り叫んだ。取引相手だった男が、床に落ちた地図の傍らに、昴に撃たれた足を押さえてくずおれる。頷くより早く、青年も動いた。昴の手を強く引き、駆け出す。昴を監視していた視線に動揺が走る。しかし、彼らも素人ではない。追え、と彼らの気配が一斉に動く。入り交じる怒声と銃声。迫り来る足音。だが、昴は不思議と、恐怖も焦燥も湧かなかった。奇妙な高揚感が、昴の足を、前へ前へと動かしていた。コンコースを抜け、バス乗り場を横切り、待機していた車に駆けこむまで、青年は昴の手を離さなかった。

 血の気のない、白い手だった。

 死人のように、冷たい手だった。

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