氷雨
有明 榮
第一章
1-1
本郷かなでがここ三週間ほど総合図書館に通っているのは、主に二つの理由からだった。一つは編集部から期待されている――というよりはせっつかれている――新たな小説のためのインスピレーションを得るため、もう一つは巷で密かに話題になっている、この図書館の「とある司書」をその目に収めるためである。彼女にとっては後者の方が主目的のようなところがあった。その司書は「国内初の女性綜合司書」という肩書を、なんと国家試験一発合格という偉業と併せて得ていた。かなでは彼女の名前こそ知らなかったが、苗字が「藤原」であるということだけ知っていた。何度か彼女に読書案内を受けた時、濃紺のスーツの胸ポケットを挟んでいる名札にそう書かれていたのである。
かなでから見て――というより一般的に見て、藤原は美人であった。深い青色にさらりと光る髪を背中まで伸ばし、やや面長の透き通る白い顔は鼻が高い。その顔のシルエットの鋭い反面、まつ毛の長い、鳶色の瞳をした大きな両目の形は猫のそれを思わせ、そこだけ見ると意外と幼く見える。「かわいい」と「綺麗」をいいとこどりしている顔立ち――というのが、かなでのアルバイト先の同僚が示した反応だった。
藤原が綜合司書という役職にあるからというのもあるが、やはり彼女の美貌には人を遠ざけるものがあるように、かなでには思われた。人間においてあまりに強大な特徴は、むしろ美点を越えて、ある種の禁忌となる。その人の持つ美は崇高へと変わり、その人を囲む人々の感情は憧れから恐怖へと変わる。そしてまさに、司書藤原のどこか冷たい美貌は人に恐れを抱かせるのだった。
しかし、藤原がかなでにとっての憧れの対象となるのに時間はかからなかった。藤原はかなでとは対極的だった。何もかもが正反対の存在といってもいいだろう。かなでは物心ついたときからよく「紙の」本を読んでいたが、それは電子書籍が主流となったこの時代にあってはかなり少数派だった。東京の私立大学に入学後は小説を書くようになったが、それはもっと少数派だった。東京ならば自分のように紙の図書に親しむ人はたくさんいるだろう、というアテが完全に外れてしまったので、かなではかなり意気消沈した。学生数二万という標準的な規模の大学にあって、文芸サークルの部員はたった六名、学祭に出店するにしても他大学との合同でようやく参加最低人数の二〇名に達するか否かという程度だった。図書とは無縁の人々が中心の世界にあった人間が図書の世界の頂点にある人間に憧れを抱くのは、ある意味妥当な反応ともいえる。対する藤原の経歴は殆ど判明していない。綜合司書が国家資格となった現在においても、彼等の経歴は「図書館大学院綜合図書館学府修士課程修了」以外明かされない――明かしてはならないことになっている。情報の価値が高騰し、伝播速度が加速度的に上昇した現代で、学術的な立場からその信憑性を判断できる人材は非常に貴重なものになった。彼等の素性をできるだけ秘匿しているのは、彼等が悪用され、社会に混乱がもたらされないようにするという国の方針によるものである。
そもそも司書の一部が「綜合司書」として国家資格となり、藤原のようにそれを得た者達が国家によって守られるようになったのは、半世紀前に起きた悪夢と、そのトラウマによる急激かつ大規模な政治改革によるものだった。
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