不明のカミナ 〜落ちこぼれ引きニートな駄娘は、悪魔的にゃんこの策略で暴走分裂変態聖女になって生きていくことになりそうです〜
墨兎
プロローグ:煤色猫と灰娘
「んぅぅ……おぉん……ほぉ……おぅぅ……」
悩ましき情事の喘ぎ声——にはお世辞にも聞こえない残念無念な呻き声。
崩れかけた積石の陰、度重なる戦に踏み慣らされた泥土の上に、ひとりの少女が仰向けに転がっていた。
銀灰の髪。はだけた胸元。
乱れた夜着から突き出した肉の薄い肢体はぞくっとするほどに白く、あられもない姿を明るみ始めた空にさらす。
上る太陽。
聖なる光は大地を遍く包み込む。
死者を退け、生者に勝利を告げていく。
「——んもぉぅぅー……だめぇえ……」
陽光を受けるは巨大な島。人呼んで堰鼎都市フラガニール。
母なる大河の河口に浮かぶ、川と海——生と死を分かつための水門の島だ。
「……ぁあんんむぅ……いやあぁん………」
30万の民を擁する都市は、大いなる壁と堰により死者から守られる。
しかし、30万の生命は、死者を惹きつけ討ち滅ぼす餌でもある。
この都市自体が、上流に広がる生者たちの領域を護るための防波堤としての責務を担っているのだ。
「……んめえぇえ……だめぇぇ………たいよう……だめへえぇ………。」
そんな大いなる城塞の片隅で。
この世の恩恵たる陽光は、見目(だけは)美しい少女の顔を——大きな瞳を固く閉じ、ひとすじの涎を垂らした顔面を——絶え間なく無慈悲に炙りつつあるのだった。
「……おう……駄目なのは、おまえだな………」
枕は無いが枕元。ごうごうと鳴る水音に呑まれ、おれの囁きは儚く消えた。
溢れる水に囲まれた都市。
どこにいようと、轟く水の音、そして這い寄る死者たちから無縁ではいられないのだ。
——そろそろ起きろ。わが主人。
俺は器用な先端を伸ばし、やわらかな彼女の耳元をこそりとくすぐる。
豊かな毛並みの尻尾に触れられ、小さく形のよい耳がぴくんと動く。
こそばゆさから逃れて「んうぅぅ」と身をよじり、彼女の灰眼が薄く開く。
心底嫌そうな瞳の色が、面倒そうにおれを睨んだ。
灰色の彼女に煤色の俺。彩りを帯び始めた世界に取り残されたような物陰で、モノクロームの気だるい気配が漂っていた。
「……やめぇい……煤猫……駄猫……いじわるにゃんこ……。」
おれは猫。
今は、猫。
以前は犬だったのかもしれないし、いつかは虫や魚だったのかもしれない。人間だったことは何度もあるし、カミ、アクマなどと呼ばれていたこともあった気がする。
そして3日前までは、ただ一塊の石だった。随分長いことそうだった。
記憶はないが、駄猫ではない。
どちらかといえば美猫ですらある。
黒に近いダークグレーの艶やかな長毛の毛並みと、羽刷毛のようなゴージャスな尻尾が自慢なのだ。
「……駄娘。起きろっ。」
「……ごはん……食べるの……めだまやきは……3つ……!」
「……おい。カミナ……。」
少女は名前をカミナといった。
都市を守護する《篝火の騎士》たち——その副長の一人娘であり、少なくとも飛沫のかかる戦場で寝起きしていい身分ではないはずだ。
目覚めた《力》の反動とはいえ、この寝相。この態度。この自由。
どれだけ甘やかされたらこうなるのか、育てた者の顔が見てみたいような、いや、見たくないような……。
そんなカミナを起こし、食べさせ、暮らさせ、見守り、ときには教え導きもする。
そうした一切合切を彼女との《契約》に含めてしまった愚かなおれは、猫だけでなく、守護者で、保護者で、家政夫で……挙げ句の果てに、この引きこもりの駄娘の唯一の友人にもなってしまっていたのである。
「……う……うぅーん……ちがうの……パンのバターは……無塩がいいの……」
(……火力は至高。その代償は……困ったもんだな。)
カミナを無視して、おれは広がる戦場——いや惨状に目をやった。
朽ちた壁面、あるいは石畳に焼き付けられた、人型の黒い影の数々。かすかに残る残火の熱。
黒々とした炭の柱は、昨夜までは年を経たイチョウかなにかの木だったものだ。落雷ではない。あまりの高熱に芯まで炭と化したのだった。
そこかしこで煙と異臭をあげる石や肉。なにかの残骸。
大砲——ああ、この世界にはまだ無いか——で砲撃されたかのようにして抉られ盛り上がった地面が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
——いや、しかし。すばらしい。
この出力。この成果。
多少のデメリットや苦労には、少しは目も瞑ろうともいうものだ。
ざっ、がっ、ざっ。
いくつかの硬い靴音が聞こえる。
[——なんだこりゃあ? 黒焦げじゃないか!]
[——ひでぇなあ……。まさか、噂の【
[——気配がするぞ! 誰かいるのか!! いるなら出てこい!!]
遠間から人々——巡回の衛士たちの喧しい声が聞こえてきた。
おれもカミナも、見つかるわけにはいかなかった。
(致し方ない。かくなる上は。)
なにはともあれ、動かぬものは、動かすしかない。
猫たる我が身は、騒音と我慢が大の苦手なのだ。
朝の空気を吸い込んで、巡る魔力を尾に集める。
ふさふさした端部の輪郭が揺らぎ、微細な煤の粒子と化す。
ふわりと宙へ撒き散らし、渦巻く半球を形成して二人を包むと、この身で使える唯一の転移術式を起動した。
「……どこに跳んでも、恨むなよ?」
「……うぅー? むにゃあ……ごはんは……まだかぁ……。」
——
魔の吹き荒れる球面に、無数の文字や記号が輝いては浮かび、粒子に還り砕けては消える。どこへ跳ぶかは運次第。
明滅する鈍い光に崩れるように、一人と一匹——ふたりの身体はかき消えて。
幸運なことに、おれとカミナは。
人目につかず怪しまれない森の中。氷のように冷たい湖の上へと転移した。
抜けるような青空を映した湖面。
輝く飛沫を舞い散らせながら、少女は揺蕩う水底に沈んでいった。
なんだか不思議と寒くはない。
少女は思った。
きっと昨夜の残り火が、身体を焦がして燻っているのに違いなかった。
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