大賢者

 天文台に戻る森の中。木々の枝の隙間に、晴れ渡る青空が覗いていた。風が花の香りを運び、小鳥の声が鼓膜を擽る。のどかな景色の中、俺の一歩前でポニーテールが揺れる。


「俺が思ってた以上に、ロロってセレーネに懐いてるんだな」


「かわいいとこあるよね。私に萎縮してるだけかもしんないけど」


 セレーネの髪は、日の光で透き通って見えた。


「初めて会ったときに、私がとある男にキレてぶん殴ったって話したでしょ。それ、ロロのことだからな」


「えっ、当時九歳の子供を殴ったの?」


「あいつが『月影読みは、職業を選べず生まれながらにして運命が決まってて気の毒だね』なんて腹立たしいこと言うからさ。一発殴って、首根っこ掴んで壁に投げて撤回と謝罪まで追い込んださ」


「大人げない……! ああ、でも神経を逆撫でするような言い方するロロも悪いな。知性が子供のそれじゃないから、余計に質が悪い」


 そういえば、ロロからもセレーネと大喧嘩をしたと聞いている。

 ただ、ロロは月影読みに憧れがあったと話していたから、その言葉は恵まれた存在であるセレーネへの嫉妬だったのだと窺えた。セレーネも、散々殴ったあとロロの本音を知ったのだろう。のちにお互いを認めるようになったと、ロロが言っていた。


「あいつのおかげで私は腕力鍛えるようになったわけで、パッチに勝ったし山賊生活の間もそれが役に立った。ロロにはお菓子でも買ってやんなきゃな」


 セレーネが冗談を言っている。こんなふうに話しながらのんびり歩くのなんて、いつ以来だろう。


 ずっと捜していたセレーネという人間が、今ここにいる。それなのに、今までも傍にいたかのような感覚だ。なんだか不思議と、子供の頃からの友人と久しぶりに会ったみたいな心の軽さである。


 俺は顔を真上に向け、木の枝に切り取られた青空を仰いだ。昼間の空にぼんやりと、白い月が見える。


「眠りの病……。ロロは薬を吸ってるけど、あれで治るの?」


 ロロは自ら月の雫を飲んだというが、蝕まれた体は元には戻らないのだろうか。セレーネは虚空を仰いだ。


「それもまだ実験段階だ。今のところは、薬があれば、そうなった体と付き合いながら生きていけるという感じ」


 晴天に浮かぶ白い月の影は、青い色画用紙に落ちた白いインク汚れみたいだ。


「眠りの病は、正確には病じゃなくてさ。神様からのお節介なプレゼントなんだよ」


 木洩れ日を浴びたセレーネの髪が、きらっと艶を孕む。突然「神様」なんてセレーネらしからぬ単語が出てきて、ちょっとびっくりした。彼女はこちらを振り向かずに続けた。


「月の女神……今は霊獣アズール・ルーナ。あれは夜と癒やしを司る神様だ。月のエネルギーには、大地の民を強制的に眠らせる力がある」


「月の民は逆に、月の雫を飲むと起きてるのに?」


「月の民はアズール・ルーナの子孫たちだからね。大地の民がゆっくり体を休められるように、大地の民が眠る時間を守る使命を持った民族なんだよ」


 神様とか、世界の仕組みとかは、俺には難しくてよく分からない。でもなんとなく、言葉尻から雰囲気は察した。


「月の民と大地の民は、本当なら助け合って生きていける体質だった、のかな」


「そうかもしれないね。初代月影読みは、案外余計なお世話しちゃったのかもね」


 セレーネが頭の上で、両手の手のひらを縦にして並べた。


「アルカディアナの月の力は、耳の神経に強く作用する。月の民の耳は、月の光を取り入れやすいようにアンテナとしての役割があるんだってさ」


「あっ、だからあんな変わった形してるの?」


 クオンとシオンを初めて見たとき、あの獣のような耳に驚いた。セレーネが小さく頷く。


「うん。あと、アズール・ルーナが霊獣、獣だから」


 話したあとで、セレーネはふははと笑った。


「こんな基礎中の基礎の話も知らないなんて、ロッド家の親戚のカツラギ家なんて、存在しないんだろうなあ」


「ん……はい。多分しないです……」


 涼しい風が吹く。セレーネの髪がはらはらと広がり、彼女の肩に無造作に垂れた。

 当然ながら、セレーネは俺が月影読み代理ではない事実も、カツラギ家なんて親戚がいないのも、知っている。知っている上で、今こうして、俺を連れて歩いている。

 俺はセレーネの歩みに合わせて揺れる金色に、目を奪われていた。


「月影読みの代理なんて用意してないはずなのに、俺が現れて、警戒したよね。クオンとシオンの身になにかあったら、って」


 なんの情報もなかった中、彼女は新聞で俺を知った。議会の回し者かもと、慎重になったという。セレーネはああ、と間延びした声で返事をした。


「そりゃあね。でも山で会ったあんたは、クオンとシオンのために危険を犯して月の雫を捜してた。そんな飴ちゃんが悪い奴なわけないんだよ」


 だから彼女は、俺が追われていると知って、自らの危険も省みずに助けに来てくれた。今もこうして、俺を天文台から追い出したりせず、リラックスして散歩なんかしている。


 セレーネに会う前、俺は、セレーネがどんな人なのか、全然見当つかなかった。

 変人と呼ばれ、字が汚くて、どこかへほっつき歩いて何日もいなくなり、迷惑かける。そのくせ、誰からも慕われている。

 そして今、俺はそのセレーネを前にしている。彼女は自由でマイペースだ。クオンとシオン、フレイ、ロロが言っていたとおり。なにを考えているのか分からない変人だ。

 俺はつい、ふっと笑った。


「まだ『飴ちゃん』って呼ぶ」


「だってなんか、しっくりきてるから」


 セレーネの声が弾む。


「飴ちゃんは本当は、どこから来たの?」


「分からない。記憶喪失なんだ」


「大変だな。クオンとシオンから聞いたけど、書く文字も違うんでしょ? 会話は通じるけど、読み書きは違う言語だって」


 彼女が首を傾けると、ポニーテールと赤いチョーカーも、ふわりと揺れた。


「これも月の影響かね? 聴覚の情報が脳に到達するまでに、月の刺激が加わって再構築されて……」


「えっ、なになに?」


 セレーネがなにやら、よく分からないことを言い出した。俺が困惑していると、セレーネは上空の月を見上げて言い直す。


「もしかしたら、飴ちゃんと私たち、全く違う言語で会話してるのかも、ってこと。飴ちゃんは自分の国の言葉で喋ってるし、私たちの言葉もそう聞こえてる。でも私たちには、飴ちゃんがアルカディアナ語で喋ってるように聞こえてるのかも」


「つまり、お互いの間で、都合よく言語が変換されてる? 月の影響で?」


「うん。そうだとしたら、辻褄が合う。視覚にはさほど影響が出ないから、文字は都合よく読めたりしない」


 俺はしばらく言葉を失った。荒唐無稽な仮説だ。でも大賢者セレーネがそう考えるのなら、可能性があるのだろう。


 セレーネは変人だ。だけれど、この人が変人扱いされながらも慕われている理由が分かる気がする。


 この人の放つ、名状し難い安心感というか。彼女は奔放で身勝手でありつつ、計り知れないほどの責任を背負って生きている。


「記憶がなくて文字も分からない。飴ちゃんはそんな大変な中で、私がいない間、双子を見ててくれたんだよね」


 ポニーテールが横に揺れ、セレーネがくるっとこちらを向いた。木洩れ日が差す小道で、彼女の髪が逆光で煌めく。夜空色の瞳が、ふわっと俺を射貫く。


「あの子たちを守ってくれてありがとう。イチヤ」


 森の鮮やかな緑と澄んだ青空、白い月の下。青くて黒い瞳が煌めき、白味を帯びた金髪に光が透ける。

 眩しくて、俺は目を細めた。


「いきなり『飴ちゃん』やめたね」


「うん。なんか、呼んでみたくなったから。帰ったら、あんたの記憶の手掛かり、一緒に探そう」


 こちらに向けられていたのは、彼女らしい、いたずらっぽい笑顔だった。

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