望遠鏡

 その夜は、煌々とした満月が空の闇を支配していた。青白くてまん丸で、夜空にぽっかり、穴が空いているみたいに見える。

 俺がここで目を覚ましたあの日も満月だったから、あれから大体一ヶ月が経ったのだ、と、ぼんやりと考える。


 天文台の観測室。望遠鏡の横に座るセレーネは、積まれた本を開いては、開きっぱなしで別の本を開けてと、そこらじゅうに散らかしている。

 そして望遠鏡を満月に向けて、じっと覗き込んでいた。


「もう、セレーネ様! 読み終えたらお片付けしないとだめなんだよ!」


 クオンが本を整理している。階段の下からは、シオンが食事の載った盆を持って、ゆっくり上ってきた。


「セレーネ様。お夕飯も食べずにずっとお仕事してる。そろそろ休憩しよ?」


 セレーネが帰ってきて、さらに数日が経った。

 双子に薬草をつけてもらったおかげで、怪我をしていた俺もセレーネも、すっかり回復した。


 役場に承認されていた「月影読み代理」の称号は、今はもう、解消されている。本物が戻ってきた今、その肩書きはなくなった。

 それでもまだこの天文台にいさせてもらっているのは、セレーネが「好きなだけいるといい」とあっさり受け入れてくれたからだ。


 今目の前で、セレーネは望遠鏡を通して満月を見つめている。望遠鏡は、神様とコミュニケーションを取るための魔道具だ。セレーネが無言で月を見つめ、月のエネルギーを取り込んでいる。


 そんな神秘的な時間のはずなのに、クオンとシオンが彼女の周りでドタバタしていた。


「お片付けお片付け!」


「クオン、走り回らないで! 転ぶよ」


 セレーネの邪魔をするな、と言いたいところだが、セレーネは気にしていないし、俺も彼女のいる望遠鏡の横に座って、セレーネの観察なんかしている。


 帰ってきてからというもの、セレーネは、記憶がなくて言葉も違う、そして突如この場所に出現した俺が何者なのか、その手掛かりを探っていた。


 俺はというと、一緒に調べようとしたが文字がろくに読めないせいでなんの役にも立たず、ついに観測室の外へつまみ出された。クオンとシオンと一緒に、お使いや家事手伝いをする方が、よっぽどお役に立てる。


 今日のセレーネはいつも以上に集中していた。戻ってきて夕飯の時間になっても、すっかり日が落ちても、観測室から出てこない。双子とともに様子を見に行ったら、このとおり。もとから散らかっていた望遠鏡の周りを余計に散らかして、そして空に浮かんだ満月を、望遠鏡で覗いていた。


 本を片付けていたクオンが、新たに一冊、本を拾う。しかしそれはセレーネの持つ文献資料ではなく、かわいらしい絵本だった。


「これはイチヤくんのだよね」


 クオンに手渡されたそれは、俺がフレイに貰った、「アズール・ルーナ」の物語である。


 太陽と恵みと生命力を司る大地の神と、夜の闇と癒しを操る月の女神が、この世界を守っていた時代。

 月の女神は、癒やしの眠りを人々に授けようとしたが、想いが暴走して碧い月の霊獣“アズール・ルーナ”に姿を変えた――。


 月のエネルギーの取り込みに集中していたセレーネが、ようやくこちらに顔を上げた。


「アズール・ルーナは封印の眠りについているが、満月の夜だけは、目を覚ます」


「え。じゃあ今夜はまさに満月だから、起きてるの?」


 俺は首を擡げ、上空を見上げた。ガラス張りの天井の向こうに、星空が広がっている。セレーネは小さく頷いた。


「そうだよ。だから月影読みは、満月の夜にだけ、月の雫を作ることができる。望遠鏡で満月の光を受け止めて、神様へ届けて、その涙を瓶詰めしたのが月の雫だ」


 以前クオンとシオンが、天文台の仕組みについて話してくれた。彼女らもセレーネからの又聞きだったが、望遠鏡から観測した月の光を、天文台に封印されているアズール・ルーナへ送っているとの話だった。ただし、その眠る獣自体は、見たことがないとも言っている。


「この望遠鏡は、目を覚ました神様と、私たち生身の人間が、唯一コミュニケーションをとれる魔道具だ。触ると熱を感じるでしょ。それは神様の霊力。向こうからの信号。これを受け取れるのが、月影読みの能力」


 セレーネに言われ、俺は望遠鏡に触れたときの手の中の感触を思い出した。ただの機械とは思えない、生命体らしさのある熱を感じたのを覚えている。セレーネはトントンと、望遠鏡を小突いた。


「作り話にしか聞こえないかもしれないけど、神話の化け物アズール・ルーナは、たしかに存在しているよ。今夜も望遠鏡を介して、月の光を受け取ってる」


 眠りにつき幽閉された女神は、満月の夜だけ、恵みの涙を零す。不思議な話だ。クオンがセレーネの肩に抱きつく。


「でも私もシオンも、アズール・ルーナ、見たことないよ。いるならどこにいるの?」


「ここ」


 セレーネが肘で望遠鏡をトントンつつく。クオンは周囲を見回し、目が合ったシオンもキョロキョロした。


「ここ? どこ?」


「ここ」


 しかしそこにあるのは望遠鏡であり、巨大な獣などいない。なにを言っているのやら。クオンとシオンが、ふたりで同じ角度で首を傾げた。


「ここって?」


「だから、ここ。この真下」


 セレーネは望遠鏡の根元を指さした。


「この天文台、塔の中心にぶっとい柱があるっしょ。この柱の中にね、アズール・ルーナが眠ってるんだよ」


「えっ、柱の中……!?」


 俺の驚嘆と同時に、クオンとシオンも目を丸くした。

 天文台の構造を思い起こしてみる。この建物は、真ん中に一本太い柱があり、それを囲むようにして廊下があり、外側に向かって部屋がある。最上階である観測室には柱がないが、真ん中に高い階段があって、その上に望遠鏡がある。つまり、ここが柱のてっぺんなのだ。

 神話の本の最後のページが、「アズール・ルーナが長い眠りに落ちた場所に、天文台を建てた」と結ばれていたことは覚えている。しかしまさか、天文台の軸になっている柱そのものに、神が封印されていたとは。

 セレーネが望遠鏡の鏡筒を撫でる。


「この魔道具は、ガラスの天井の向こうから月の光を受け、鉱石の鎖を伝い、柱の中のアズール・ルーナへと月の力を送り届けてる。これが、初代月影読み、アリアン・ロッドが構築したシステム」


「さっぱり意味が分からない」


 俺が正直に言うと、クオンとシオンも頷き、セレーネはふはっと笑った。


「まあ今のは理解しなくていい。問題は、その神話に語られない『裏面』があること」


「裏面?」


 俺は双子と顔を見合わせた。クオンとシオンも、疑問符を浮かべて首を傾げている。


「セレーネ様、裏面って?」


 双子が興味津々に、セレーネにすり寄る。

 セレーネは周辺のライトで辺りを照らして、散らかした文献から一冊、俺に手渡した。


「私も今の今まで読み飛ばしてたんだけどね。どうやら月の女神様は、アルカディアナの月と、別の世界の月、その両方が満月になる夜に、交わらないはずのふたつの世界を飛び越えられるらしい」


 文献の一部を指さして説明してくれたが、俺には難しくてさっぱり読めない。

 つまり俺たちのいるこの場所以外、所謂「異世界」があり、アルカディアナとその世界の月が同時に満ちるとき、アズール・ルーナは時空を超える、と。


「そしてその、ここではないどこかで、絶望と悲しみの縁に立つ迷える仔羊を見つけると、手を差し伸べる……らしい」


 セレーネの夜空色の瞳が俺を見据える。


「イチヤ。あんたはもしかしたら、異世界から来たのかもしれないね。なにがあったのかは知らないけど、アズール・ルーナが同情して救って、この世界へといざなった」


 俺は彼女の瞳を見つめ返し、か細い声を出した。


「……そんなこと、ある……?」


 あまりにも非現実的で、簡単には呑み込めない話だった。でも、なんだろう。ちょっと心当たりがある。

 セレーネにくっついていたクオンとシオンが、ぴょこっと俺に抱きついてきた。


「そうかも! だってイチヤくん、文字が分からなかったりおいしいものが分からなかったり、この世界での当たり前が、イチヤくんには当たり前じゃないもん!」


「私たちが知らないこと知ってて、不思議な道具を持ってたりとか」


 クオンとシオンがそれぞれ、仮説を裏付ける。セレーネはまじまじと俺の目を覗き込んだ。


「異世界なんて信じられないけど……あんたが来た日は、満月だったらしいしね」


 俺がこの天文台に突然現れたのも、ここに神様が眠っているからだったのか。望遠鏡の魔力でここに召喚されて、そのまま階段から落っこちて、記憶を失った。


 セレーネが望遠鏡に視線を移した。


「いるべき世界があったなら、そこへ帰れるもんなのかね。ふたつの世界の満月が重なれば、通路は開くのかな」


「うん……俺の居場所がここじゃないなら、帰るべきなのかな」


 口にした声は、少し、掠れた。

 俺には記憶がない。元の世界があったとして、そこで俺はどんな暮らしをしていたのか、全然分からない。帰ったとして、そこに居場所はあるのだろうか。


 するとクオンが、ぎゅっと俺の右手を握った。


「やだよ! それってイチヤくんがいなくなっちゃうってことでしょ?」


 シオンも、俺の左手を取った。


「そうだよ! これからもずっと、この天文台で一緒に暮らせばいいじゃない」


 小さな柔らかい手が、両方から俺の手を包む。俺は左右の双子を交互に見た。


「ふたりとも……最近セレーネにべったりで、俺なんか二の次だったくせに!」


「そりゃあご主人様はセレーネ様だけど、イチヤくんだって大好きだもん!」


「どっちかなんて嫌。両方いてほしいの」


 クオンが大声を出し、シオンは寂しそうに甘えた。ふたりの手は温かくて、優しくて、力は弱いのに、握った手を放さない意志を感じる。


 このふたりに詰め寄られると、俺はなにも言えなくなった。


 この世界で、大切なものを見つけた。今までの生まれ育った世界の記憶はない。でも、神様が放っておいてくれなかったくらいだから、多分まずまずつらい人生だったのだろう。きっともう、思い出せもしないだろうけれど。


 ここで過ごした時間の中、なにも分からない俺にも、守りたいものができた。クオンとシオンを守ろうと思ったら、命を張れる。そんな存在に出会って、そんな自分を知った。

 元の世界よりここの方がずっと、俺の居場所のように思える。


 クオンとシオンが俺の腕にしがみつき、上目遣いで見つめてくる。


「ねえイチヤくん。一緒にいよ?」


「ずっと一緒がいい」


 俺はふたりの顔をよく見てから、改めてセレーネに向き直った。目が合った彼女は、ひとつ、まばたきをした。


「帰る方法なんて、探さなくてもいいんじゃない?」


 白金のポニーテールが、照明の色にまだらに染められている。


「居場所は自分で決めるものだよ」


「いいのかな。俺はこの世界の異物なのに。邪魔にならないかな」


「いいんじゃない? 神様があんたを呼んだんだ。あんたは眠りの病の死に方を『自殺にうってつけ』だなんて考えるような奴だ、そういう人生だったんだろ。そんな記憶なら、無理に呼び戻さずにきれいに忘れて、やりなおしていいんじゃないの」


 セレーネは無責任にもそう言った。

 俺はため息のように、深く息を吐いた。


 自分が生まれた世界に、たくさん、忘れ物してきた気がする。

 時々思い出しては消えていた数々の記憶の断片が、それを物語っている。もしも元の世界へ帰ったとしたら、俺はその中でまた、ゼロからやり直すのだろう。

 クオンとシオンと出会えた今の俺なら、立ち向かえるのかな。


 隣で手を握るふたりの指に、ぎゅっと力が入った。

 居場所は、自分で決めるもの。


「ここに、いてもいい?」


 問いかけると、セレーネはふいっと顔を背けた。


「言ったろ、好きなだけいるといい、って。手続きはこっちでなんとかしてやる。議会やら役所やら神様やらのご機嫌取りは、この大賢者月影読み様に任せな」


「頼もしいなあ」


 夜空の月が俺を見下ろしている。天文台に月明かりが差し込んで、クオンとシオンの瞳をきらきら輝かせていた。

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