Ⅻ.セレーネ・アリアン・ロッド

運命共同体

 焼きたてのパンの匂いがする。


「なんだあいつ。まだ寝てんのか?」


 部屋の扉の外から声が聞こえた。


「うん。だから起こさないように、そーっとごはん置いてきたよ」


「疲れてるんだよ。それだけ頑張ってくれたの」


 ふたりの少女の聞き慣れた声が、鼓膜を擽る。

 俺は重たい体をよじって起き上がった。久しぶりに帰ってきた、天文台の自室。ベッドの横のサイドテーブルに、盆に載せられたパンとスープがある。

 扉の外の三人分の声は、まだ続いた。


「はあ、それにしたって丸二日は潰れてんぞ。どれ、精のつくもん食わしてやるか。あんたたち、ゲラゲラ鳥のスープでも作ってやんな」


「だめだよセレーネ様! イチヤくんはゲラゲラ鳥のスープ嫌がるんだよ。初めて出会った日に作ったんだけど、なんかすごく怯えてた」


「鳥の頭が飛び出してるの、怖いんだって」


「スープが怖いってなんだよ。軟弱な奴だな」


 のっそりと起き上がって、腰を叩きながら寝台を降りる。高熱で怠い体を引きずり、よろよろと扉を開けた。


「本人の部屋の前で悪口言うのやめて、ボス」


 開けながら、訂正する。


「いや……セレーネ」


「おっ、起きてんじゃん」


 廊下の壁に凭れかかるポニーテールの女が、横につけた双子と一緒に俺に目をやる。


「おはよ。飴ちゃん」


 鳥の子色の長い髪に、夜空を閉じ込めたような瞳。

 セレーネ・アリアン・ロッド。大賢者月影読みは、不敵な笑みで俺を見ていた。

 俺もその濃紺の瞳を覗き込む。


「飴ちゃんじゃなくて、壱夜、ね」


 あの日から今日で、三日が経つ。

 俺たちは手配された馬車で、すぐに月の都へ帰されていた。

 そして俺は思い出したかのように高熱を出し、ぶっ倒れて魘される日々を送っている。

 セレーネは、手に筒状に丸めた新聞を持って、反対の手にパタパタ打ち付けていた。


「少しは顔色良くなってきたね」


 ポニーテールの根本には、蝶結びにした赤いチョーカー。彼女が俺を押し退けて、部屋の中に入ってきた。クオンとシオンもトコトコついてくる。


「セレーネ様ー」


「セレーネ様あ」


 このふたりは、セレーネが戻って以来セレーネにべったりである。俺もベッドに戻り、座った。


「なんだかなあ。今までは『イチヤくんイチヤくん』って俺に懐いてたのに」


 セレーネには敵わないとは分かってはいたが、双子がこうもセレーネにばかり擦り寄っていると、セレーネに対して無性に敗北感が募る。セレーネが椅子を引いてきて、したり顔で腰を下ろす。


「はは、残念だったな。あんたは所詮私の『代理』なんだよ」


 相変わらずの短いパンツルックで、すらりと長い脚を椅子の下へ伸ばす。


 クオンはセレーネに背中からのしかかり、シオンはセレーネの膝に鎮座した。

 セレーネが俺の様子をまじまじ眺めた。


「怪我、だいぶよくなったね」


「おかげ様で。ボス……じゃなくて、セレーネは?」


「余裕余裕、骨折れてたけど。歩けるから問題なし」


「いや、安静にしてろよ」


 あの大乱闘の末、俺もセレーネも全身に打撲や骨折を負った。あの場では無我夢中で暴れたけれど、気がついたら怪我だらけだった。


 俺はサイドテーブルからパンを取り、スープをちょんとつけた。

 俺とセレーネはこのとおりだが、クオンとシオンは無傷である。自分が高熱を出そうと大怪我を負おうと、この子たちさえ無事なら、やり切ったと思えてしまう。


「にしても……ボスが月影読み、セレーネかあ」


 彼女に対してその名前は、まだ呼び慣れない。セレーネは新聞を槍のように肩に置き、ニヤリと笑った。


「意外だった?」


「大賢者月影読みっていうより、山賊のボスって感じ」


 出会ったとき山賊のボスだったから、というのも大きいかもしれない。でももしそうでなかったとしても、この豪快な姉御肌のお姉さんが「大賢者」という肩書きを背負っているのは、どちらにせよ驚いたと思う。


 クオンがセレーネの頭に顎を乗せている。


「イチヤくんがセレーネ様と知り合いだったなんてびっくりしたよ。どうして言ってくれなかったの?」


「知らなかったんだよ。この人がセレーネだなんて思わなかった」


 俺が反論すると、セレーネは苦笑した。


「そりゃあ誰にも言えないよ」


「それはお互い様だったよな」


 セレーネは月影読み、俺は月影読み暗殺容疑の逃亡者。両者とも正体がバレたら、あの中の誰かに王国議会に通報されかねない。国から報酬が出るとなれば、目が眩む者もいるだろう。


 ふと、セレーネの手の新聞に刻まれた、大きな見出しが目についた。字がほとんど読めない俺でも、ここ二日で何度も見たその単語は、いい加減覚えた。


『ニフェ元老院議長追悼の儀、市民集まる』


 議長の死は、連日報じられている。あの夜に見た、壁に飛んだ真っ赤な飛沫は、まだ脳裏にこびりついて離れない。そのときに聞いたセレーネの言葉も、繰り返し頭の中で反芻している。


『あいつの仕事は、世界を変えるために指導者の首を取ることだ。あいつなら、やるでしょうね。本物の、赤い首輪』


「赤い首輪って、結局なんだったんだ……?」


 人攫いだと聞いていたそいつは、夜の闇の中に現れ、議長に振り向く隙すら与えず、その首を取った。

 セレーネがあっけらかんとして言う。


「ん? パッチがどうした?」


「パッチ? いや、赤い首輪……」


「あれ、言わなかったっけ。赤い首輪って、パッチの異名だぞ」


 セレーネに告げられ、俺は数秒、固まった。

 パッチ。セレーネの山賊一味の仲間、銀髪に眼帯の青年。

 彼の顔を思い浮かべて、まばたきをして、俺は腹から叫んだ。


「パ!? パッチって……えっ、パッチが赤い首輪!?」


「そうだよ」


「いや、赤い首輪なんかつけてないじゃん!」


「あいつは顔も名前も性別すらも、誰も知らない存在だった。雇い主ですら直接会わない。唯一の情報が、恋人の形見の赤いチョーカーを持ってること。それがひとり歩きして、そんな通り名がついただけ。本名は私も知らん」


 信じられないが、言われてみれば俺は、山の中で気配もなく近寄ってきたパッチに一瞬で捕まり、連れ去られた。なるほど、人攫いである。


「飴ちゃんの体調も安定してるし、そろそろ話そうか。私がこの数日間、どこでなにをしてたか」


 セレーネはそう前置きし、話しはじめた。


 *


 三週間程前。セレーネは都の西の外れで、パッチに出会った。いきなり背後を取られ、連れ去られそうになった。……が、返り討ちにした。

 ナイフを手にしたパッチを素手で投げ、ナイフを奪い、彼の喉に突きつける。


「何者だ」


「油断した……月影読みがこんな身体能力の持ち主とは聞いてない。賢者なんか、大人しく勉強だけしてるもんじゃないのか?」


「その分、暴れられるときに存分に暴れるんだよ。で、あんたはなんだ。どこの人攫いだ。私に喧嘩を売るとはいい度胸だな」


 セレーネが容赦なくパッチの喉に刃を当てる。生半可な相手ではないと悟ったパッチは、言葉遣いを改め、交渉に出た。


「赤い首輪、といえばご存知ですか?」


「あんたがあの有名な? 本物が名乗るものかね。どちらにせよ逮捕だけど」


「一時的に拉致されてくれませんか。すぐに解放しますので」


 彼は、首を押さえられていても案外冷静だった。


「赤い首輪は野良人攫いとされていますが、実際は元老院に飼われていましてね。月影読みをウィルヘルムへ連れ帰るのが、今回の俺の仕事なんです」


「元老院が人攫いを飼ってる?」


「そうですよ。今までも不自然に行方不明になった議員や貴族、豪商がいたでしょう」


 元老院の政治の邪魔になる存在を排除する。それが、赤い首輪の仕事だった。セレーネにもにわかに信じがたい話だったが、事実、元老院にとって不都合な人間が消され、その行く末がどうなったか、この男は事細かに知っていた。


 つまりこの男の話が事実であれば、議会は月影読みを「邪魔な存在」として排除するつもりなのだ。


 議会の真意を確かめるべく、セレーネは彼に同行した。無理やり拉致されたのではない。自ら彼と手を組んだのだ。


 赤い首輪の言葉は本当だった。狂言誘拐されたセレーネは、元老院に明け渡され、地下牢へと連れて行かれた。


 しかし彼女は閉じ込められる前に、赤い首輪の胸元から赤いチョーカーを抜き取った。そして自身のポニーテールに結びつける。


「あんた、すぐに解放するなんて言いつつ、裏切るかもしれないからな。あんたの大切なこれ、預からせてもらうよ」


 赤い首輪は、セレーネの抜け目のなさに慄いた。事実、彼はこのままセレーネを見捨てるつもりだった。恋人の形見を奪われたのでは、約束を守って助け出さねば取り返せない。


 セレーネは赤い首輪に手引され、脱獄した。逃亡者となったふたりは、もはや運命共同体だった。ともにウィルヘルムから脱走し、月の都を目指す。

 セレーネはすぐに天文台へ帰り、国王宛ての信書を書くつもりでいた。天文台の活動を止めろと脅すため、自分を誘拐した元老院は、裁かれなくてはならない。


 しかしその道中、赤い首輪が野生生物からセレーネを庇い、死にかけるほどの大怪我をする。ふたりは素性を伏せ、商業都市カランコエで五日間程、治療のために身を潜めて過ごした。生死の境を彷徨い、一命を取り留めた赤い首輪は、片目を失っていた。

 満月の夜、赤い首輪がセレーネに促す。


「俺はもういいから、あなたは月の都へ戻ってください。月の雫の在庫がなくなったら、月の民は苦しむでしょう」


「あのねえ。あんたを置いて行けると思う?」


「チョーカーさえ返してくれれば、俺は別に構いませんけど」


 議会はふたりを血眼で捜している。堂々とは動けない。セレーネと赤い首輪は、安全第一で遠回りして、月の都へと進んだ。途中の街で休んで怪我の療養をしては、素性が明るみになる前に立ち去る。そんな落ち着かない日々を繰り返す。


 さらにふたりは、途中で孤児を拾った。遠回りついでに、道すがら安全な街の修道院へ送ることにしたのだ。

 そのうち、セレーネのお節介な性格が新たな旅のメンバーを呼び寄せ、大所帯になってしまった。


「月影……いや、ボス。目的を忘れてませんか?」


 増えていく危うい輩に、自分だって人攫いの上に始末屋のくせに、赤い首輪は辟易していた。


「自助グループじゃないんですよ」


「まあまあ、いいじゃん。どうせ真っ直ぐには帰れないんだ」


 しかしそれはいい隠れ蓑になった。月影読みも王国の始末屋も、山賊に混じっているとは思われない。

 お互いに名を明かさない集団の中で、まとめ役のセレーネは「ボス」、赤い首輪はアイパッチの「パッチ」になった。


 月の雫の残数も、残してきたクオンとシオンも、セレーネには気がかりではある。とはいえ双子に対しては、フレイが面倒を見てくれるだろうと、どこか悠長に構えてもいた。

 彼女の余裕が失われたのは、赤い首輪がとある新聞記事を持ち出したときだった。


「月影読み。いつの間に代理を立てたんです?」


「は!? 立ててないけど!?」


 セレーネにも身に覚えがない、「イチヤ・カツラギ」なる月影読み代理の記事だ。大々的な報道でこそないものの、それはたしかに公的に認められ、天文台で代理を務めているという。

 赤い首輪が眉を寄せる。


「あなたが知らないなら、こいつは誰なんです?」


「議会が妙な奴を送り込んだのか……? クオンとシオンは大丈夫なのかな」


 彼を認可した月の都役場も、議会の傘下である。下手に近づけば、脱走した自分が取り押さえられてウィルヘルムの地下牢へ逆戻りだ。

 この「イチヤ・カツラギ」の謎を解くため、セレーネはひとつ、提案した。


「月の都役場に、信頼できる行政職員がいる。そいつの実家があるコルエ村に行って、個人的にコンタクトを取ろう。あいつなら、真実を教えてくれる」


 そうしてセレーネは、コルエ村――フレイの生まれ故郷である、月の都の隣村へと舵を切った。


 西に向かって山を越えた彼らは、立ち寄った街でさらに新たな新聞で情報を得た。


「ええっ、私のかわいいかわいい従者が、私に毒を盛ったことになってんだけど!?」


 月影読み暗殺の号外が、セレーネ本人の目に触れたのだ。クオンとシオンが、似顔絵付きで指名手配されているではないか。しかも一緒に報じられていた少年は、山賊一味全員、見覚えのある顔だ。


「これ、飴ちゃんじゃん」


 クオンとシオンが冤罪で捕まったらいけない。ふたりとともに報じられている『飴ちゃん』は、ウィルヘルムに向かっていた。セレーネは山賊を離脱し、道中にいた旅商人から馬車を借りて逆走した。


 そのウィルヘルムへの道にも、赤い首輪――パッチはついてきた。


「あなたを無事に月の都へ帰すまで、そのチョーカーを返してもらえませんから」


 地下牢から脱獄した月影読みと、元老院を裏切った赤い首輪。その両方がウィルヘルムへ戻れば、当然門番が取り押さえる。

 だが赤い首輪は、これまでも数々の人間を闇に葬ってきた敏腕始末屋だ。門番を失神させるなど、彼にかかれば造作もなかった。


 街に入って市民の会話を聞き、『飴ちゃん』は赤い首輪として拘束されてるのが分かった。

 セレーネは元老院の地下牢に潜り込み、見張りの気を失わせ、制服を剥いで獄卒に紛れ込んだのだった。


 *


「飴ちゃんを上手く回収できたから、あとはあのまま連れ出すだけだったんだけどね。クオンとシオンまで捕まってるのを見たら、我慢できなくなっちゃった」


 セレーネはどこか、楽しい冒険譚でも話すように語った。俺は食べかけのパンを口の前で止め、クオンとシオンは呆然として、セレーネの話を聞いていた。


 つまりセレーネは、赤い首輪にわざと誘拐され、議会の魂胆を暴きに行った。しかしその帰り、見知らぬ誰かが自分の代理になっていると知り、すでに天文台が議会に乗っ取られたのではないかと疑い、真っ直ぐには帰れなくなった――。


 数秒の沈黙ののち、クオンがいきなりくわっと叫んだ。


「そういう事情で出かけるなら、私たちに言ってからにして!」


 続いてシオンも、耳を下げてセレーネを見上げる。


「そうだよ! セレーネ様はなんでもひとりで解決しようとして、人に言わないから。後々大変なことになる!」


「ごめんごめん。正直こんなに長引くと思わなくて、サッと帰ってくるつもりだった」


 セレーネは誤魔化し笑いをした。

 たしかに当初の予定では、議会の悪意を暴いてすぐに帰ってくるつもりだったのだろう。

 しかし相棒のパッチの大怪我や、俺という想定外が出現したせいで、事情が変わってしまったのである。

 俺は小さくため息をついて、パンを口に運ぶ。


「なんだかもう……情報量が多すぎる。パッチが赤い首輪で、しかも国のお抱え始末屋。セレーネは分かってて手を組んでいたと……」


「手を組んでたというか、パッチの大事なチョーカーを奪って逆らえないようにしていただけだな」


 セレーネがばっさりと言う。


「赤いチョーカーはさ、恋人の形見、っていうより、恋人に渡そうとしていたものなんだって」


 そう話すセレーネを、クオンとシオンがきょとんとした顔で見ている。セレーネは長い脚を組み直した。


「でもその愛しのハニーは、十五歳で眠りの病で目を覚まさなくなったんだってさ。だからあいつも、月の都に恨みがあったんだよ」


「じゃあ……」


 俺は言いかけて、やめた。眠りの病の原因物質は、月の雫だ。それを作っていたセレーネに対しても、パッチは、個人的な怒りを抱えていたかもしれない。セレーネはニコッといい笑顔で言った。


「そのチョーカーを奪っておかなかったら、脱獄の約束は破られてたかもねー」


 パッチにはセレーネに憎しみを抱えていた。セレーネも、それを分かっていながら、いつ殺されるか分からない状況の中、パッチとともにいる道を選んだ。


 しかしセレーネは、怪我をした彼を放ってはおかず、遠回りになっても傍にい続けたのだ。危険な相手だと知っていても、そこで見殺しにしなかった。パッチも、隙を見せていただろうセレーネを殺しはなかった。

 セレーネとパッチの間にはきっと、利害関係以上の情が芽生えている。


 なによりパッチ――元老院お抱えの始末屋だった彼は、元老院議長、ニフェを殺した。


 セレーネとの短い旅の中で、彼はなにを感じたのか。自分のご主人様を、自らの手で葬った。


「それで……あれから、パッチと連絡取れた?」


 セレーネの髪には、今もなお、赤いチョーカーが結ばれている。セレーネは彼女は睫毛を伏せて、爪先を見つめた。


「ううん。でも、捕まったとは聞かないし、仮に捕まったとしても脱獄するだろうな」


 寂しげでもなく心配そうでもなく、普段どおりの声色だった。


 俺にはセレーネとパッチの腹の中までは見抜けない。最後にウィルヘルムへ向かうセレーネについて行って、セレーネと対立していた議会にとどめを刺し、姿を消したその男の真意。それは今も尚、闇の中だ。

 だけれどなんとなく、パッチは赤いチョーカーを、セレーネに持たせたまま取り返しには来ない気がする。部外者の俺による、根拠のない余計な憶測だ。

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