再会
小鳥の声で目を覚ます。のどかだ。ズキズキ痛む額を押さえて、顔を上げた。周りには倒れた木々が横たわり、拓けた空は真っ赤な夕焼けに染まっていた。結構長いこと、気を失っていたみたいだ。
風が冷たいと思ったら、全身ずぶ濡れだ。目の前には大きな池がある。
頭の中を整理する。俺はたしか、クマに背後から襲われて、崖から落ちたはずだった。あの高さから落ちていれば、死んだはずだ。しかし生きているのだから、多分、この池に落ちたおかげで助かったのだろう。
クマの攻撃も、爪が当たらずに済んだらしい。背中に傷はなく、ただ濡れたワイシャツが肌に張り付いているだけである。
クマの攻撃で傷を受けず、崖から落ちても池に着水し、俺は恐ろしく運がいい。
体を起こして呆然としていると、後ろから声が聞こえてきた。
「あっ、気がつきました?」
まったりのんびりとした、柔らかな声だ。俺の横にやってきたその顔を見て、俺はしばし、言葉を失った。
赤紫の瞳に、ふわふわの尻尾。灰色の三角耳は、左だけ少し折れている。
「マイト!?」
「えへへ、また会いましたね!」
のほほんと笑うその少年は、何度も会った彼である。
「びっくりしましたよー。池で魚を捕ってたら、上からイチヤさんがドボーンッて!」
「ええ……それじゃ、マイトが俺を陸に引き上げてくれたの? ありがとう」
クマの攻撃で傷を受けず、崖から落ちても池に着水しても、気を失ったまま池に沈んでいたら、結局死んでいるところだった。
「ところでなんでマイトがこんなところに?」
「こっちの台詞ですよ! イチヤさんこそなんで?」
マイトが俺の隣で体育座りする。俺は疲れた脚を放り出し、目を閉じた。
「なんで……なんでだろう。逃亡中、というか。理由は控えさせてくれ」
「えっ!? なんで逃亡? なんで理由を言えない!? あ、言えないからなんでもなにも聞けないですよね。えっと、お疲れ様です」
マイトはいろいろと混乱して、目を白黒させた。今度は俺が、改めて訊ねる。
「それで、マイトはなんでこんなところで、魚捕ってたんだ?」
「その……イチヤさんの言ってたとおりで。俺、ルミナに捨てられちゃいました」
マイトは言いにくそうに告白し、並べた膝の上に顎を乗せた。俺はマイトの前髪を見つめ、口を結ぶ。やはりそうだったか。「だから言っただろ」でもなくて、「残念だったね」でもない。なんて言葉をかけたらいいか分からなくて、沈黙が流れてしまった。
マイトは自嘲的に明るい声を出した。
「一応、ウィルヘルムまでは連れて行ってもらえたんですよ! 劇団員としてちゃんと働ければ、仲間にしてもらえた。それは本当です。でも、初めて雑用を任されたときから失敗の連続で。衣装壊しちゃったりとか、小道具なくしちゃったりとか、最後の方はもはや誰も怒りもしませんでした。諦められてしまった、というか」
だんだん、声が萎んでいく。
「そこからはあっという間でした。夜に連れ出されて、オークションに突き出されましたよ。しかもそこでも売れ残るの。全然値がつかなくて、結局最低価格で犯罪組織に引き取られました」
「で、今は……」
「犯罪のスケープゴートにされてます。ひとりで逃げて、ここまで来ました」
経緯を聞いた俺は、マイトのあまりの不憫さに項垂れた。いくらなんでも、この数日でここまで転落しているとは思わなかった。
マイトが池を指差す。
「そこで、魚を捕って腹の足しにしようと思ったんですけど、やっぱりトロくさくて捕れない! 代わりにイチヤさん拾いました」
苦笑いする彼が痛々しくて、俺は背嚢から食糧を取り出そうとした。しかしそれも池に飛び込んだせいで全部濡れてしまって、ぐちゃぐちゃである。
彼へのこの気持ちは、労いなのか同情なのかその両方なのか。とにかく、惨憺すぎて放っておけない。
マイトはあーあ、と投げやりに耳を下げる。
「月の都を出る前に、カレンさんにも忠告されていました。一緒に入った女の子は、それを聞いて素直に身を引いています。その後でイチヤさんも来てくれた。だけど俺、誰からなにを言われても、自分の夢を優先してしまいました」
夕日が眩しい。マイトは赤い瞳を細め、そのまま目を閉じた。
「たとえルミナが悪さをしていようと、そんなことどうでもよかった。あれだけ眩しい舞台があれば、その分影があるだろうって、開き直っていたんです。イチヤさんが折角助けようとしてくれたのに……反発して、この有様です。バカですね」
マイトの尻尾がしゅる、と地面の砂を擦る。
「初めから俺の傲慢が招いた事態なんですよね。身の丈に合わない夢なんか見て、自分を過信して周りの忠告を無碍にした。俺なんかが劇団で活躍できるわけないのに、雑用すらこなせないくらいノロマなのに、夢なんて見ていいわけなかった」
「そんなことは、ないよ」
俺はマイトの背中に手を置いた。
たしかにマイトには、もっと早い段階で考え直してほしかった。だけれど、夢を見ていたの自体は別に悪くない。誰がなにになりたくても、それは自由だ。
「それより、どう考えてもルミナに問題があるだろ。未来に希望を持つ若者を集めて、搾取して捨てるなんてさ。だから今回は、マイトも悪いけどルミナはもっと悪い」
俺がルミナに腹を立てると、マイトは一層、耳を下に向けた。
「はい。忠告無視しちゃって、本当にすみませんでした」
夕暮れが深まっていく。東の空はすでに、暗い紫色に侵食されていた。俺は疲れきった腿を拳で叩き、腰を上げた。
「さて、暗くなる前に行けるところまで行くか」
「どこへ向かってるんですか?」
「ガザに向かってるんだ。月の雫が欲しくて……あっ、そういえばマイトも月の民だった! 月の雫、持ってる?」
もしもマイトが常備していたら、それを分けてもらおうと思った。だが、マイトの出で立ちを見て、諦める。彼は手荷物ひとつ持っていない。
「生憎、手ぶらで放り出されてます。今は昨日飲んだ分が持続してますが、明日には動けなくなる……」
マイトはそう言ってから、膝を抱いて縮こまった。
「そうだ、明日には眠ったまま動けなくなって一瞬で獣の餌だ。俺の人生、なんだったんだろ……」
「やめろやめろ、クオンとシオンが今まさに動けなくなってるんだよ」
嫌な想像を共有させられそうになり、俺は首を横に振って拒絶した。マイトが顔を上げる。
「クオンちゃんとシオンちゃんも一緒だったんですね。こんなところで月の雫を切らしてしまうなんて……」
「うん。ひとまずガザへ向かって、月の雫を貰ってこようと思ってる」
太陽の位置から方角を見定め、ガザの方向へと歩き出す。マイトも立ち上がってついてきた。
クオンとシオンを思うと、胸が潰れそうになる。あの岩穴に置き去りにしてしまった。あの後、あの子たちはどうなったのだろう。まさか野生生物に見つかって、食われてはいないだろうか。山賊に捕まったりしていないだろうか。
「夜までにガザへ行って、クオンとシオンのところへ戻れるかな。仮に戻れたとして、どうやって火起こししよう。火起こしの石、濡れちゃっ……」
俺の喋りは、半端なところで中断された。後ろから突然回された手と、その手に握られたナイフによって。
「騒ぐな」
背後から男の低い声がする。ナイフが喉笛に突きつけられて、俺はひゅっと声を呑んだ。そろりと目線だけ動かすと、肩の上に鋭い目をした男の横顔があった。青みがかった銀髪の、右目を眼帯で覆った青年だ。
その後ろで、マイトの声がする。
「放せ! むぐっ!」
彼もまた、何者かに捕えられたようだ。眼帯の男が、俺の耳元で静かな声で問うてくる。
「貴様は何者だ。どこから来た」
こっちの台詞だ。気配もなく現れて背後を取り、刃を突き立てるだなんて、何者なのか。
「ボスをどこかへ連れ去ったのか?」
「なんの話だよ……」
身じろぎしただけで、男は俺の喉にぐっと寄せた。額に汗が浮かぶ。思い当たるのは、ガザの門番の話だ。
山賊。この辺に、そんな連中が出没している。
背後でまた、新しい声がした。
「パッチ、こいつらどうする? 縛り付けておいた方がいいんじゃないか」
俺と同い年くらいと思しき、若い男の声だ。俺にナイフを当てる男は、その問いに答える。
「縛ってキャンプへ連れていく。ここじゃなにが出るか分からないからな」
直後、俺の腰にひゅんと縄がかけられた。持っていた背嚢は抵抗する間などなく奪われ、手際よく手首を縛られる。
「待ってください、なにか誤解してないですか?」
俺はやっと反発の声を上げたが、ナイフの先が喉にちょんと触れて、黙る。
最悪だ。命からがら生き延びて、マイトと再会して、ほっとしたのはほんの僅かな時間だけだった。
ボロ切れで目隠しをされて、俺は男に綱を引かれて歩かされた。ただでさえ足場の悪い森の中で、視力を奪われると真っ直ぐ歩くことすら覚束ない。
無言で歩かされること五分ほどで、目隠しを外された。
鬱蒼とした森林の中に、大きな口を開けた洞穴がある。入口上部には獣の皮が打ち付けられており、今は巻き上げられていたが下げればカーテンになる様子だった。
洞穴の中から、先程のクマを思わせる巨躯の男が顔を覗かせる。
「ボスは……見つかってねえみたいだな」
「残念ながら」
眼帯の男がそれだけ答える。その隣には高校生ほどの歳頃の少年が、縄で縛ったマイトを引き連れている。
クマ男が洞穴を出てくると、さらにその後ろにいた数名の顔が見えた。前髪で目が隠れた青年や、ボロ布で目から下を覆った男など、不穏なオーラを醸し出す者たちが集まっている。
この集団が、例の山賊なのだろうか。
クマ男に向かって、少年がマイトを突き出す。
「ボスは見つかんなかったけど、代わりに怪しいやつ捕まえてきたよ。こいつらがなんか知ってるかも」
「知らないって。ボスって誰だよ!」
怯えて耳をぺたんこにしているマイトの分まで、俺が威嚇した。しかしその直後に、眼帯の男の手で口を塞がれる。
「大声を出すな。野生生物が寄ってくる」
その様子を前に、クマ男はニイッと口角を上げた。
「そうかい、知らねえか。じゃ、ただの旅人かな」
分かってもらえた、と俺は安堵したのだが、クマ男はその笑顔のままで続けた。
「かわいそうな旅人だ。こんな連中に捕まって、身ぐるみ剥がされちまうなんてなあ」
俺はぞっとして、言葉をなくした。やはり運が悪い。とんでもない集団に捕まった。マイトを捕まえている少年が、俺の背嚢に手を突っ込んでくる。
「へえ、食べ物持ってんじゃん。水もある……でもびっしょびしょだな」
そのときだ。
「あっ、ボス!」
クマ男が顔を上げる。少年が手を止めて、眼帯の男も振り向いたのが、腰縄の動きで分かった。眼帯の男が辟易したような口調になる。
「ボス。どこ行ってたんですか」
この見るからに野蛮な集団をまとめる、ボス。その人物が今、俺の背後に立っているのだ。俺は、恐る恐る振り返った。
そこにいたのは、二足歩行のオオカミ……のように見えた。正しくは、頭のついた獣の毛皮をコートとして着ている人間だ。肩には手作りの槍を携えて、その先には鹿らしきものの死骸が突き刺さっている。ぽたぽたと血の滴る槍と、返り血を浴びた毛皮。正気のない目をした灰色の獣の頭がフードになっていて、“ボス”の顔は見えなかった。
ひと目で危険と分かるその風貌に、俺とマイトは石のように固まった。今すぐにでも逃げ出したい。しかし腰縄を眼帯の男に握られ、手首も拘束されている。
毛皮の人物……ボスは、フードになっていた獣の顎をくいっとずり上げた。
「おいおいおい、なにやってんのかな?」
中から覗いた顔と、少し気だるげな声。
「いじめはよくないぞー?」
顔を見せたボスのその顔に、俺とマイトは今度は別の意味で絶句した。
星空みたいな濃紺の大きな瞳に、彫刻を思わせる滑らかな頬。それは、人形のような美しい顔の、若い女だったのだ。
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