Ⅸ.山賊

山道

 いつの間にか眠っていたようだ。薄い日差しが差し込む寒い朝、俺は外套の中で目を覚ました。

 体を起こすと、ずきっと体じゅうが痛んだ。野宿の寝心地の悪さ故だ。

 枝を置いた場所には、焚き火の燃え殻の中で小さな火がチカチカ光っていた。これのおかげで、寝ている間に野生の獣に襲われずに済んだみたいだ。


 ガザで過ごしていたら、天文台から来たことがバレて捕まっていただろうか。それを恐れて、入山及び野宿を選んだ。あれが正解だったのか、まだちょっと自信を持てない。


 クオンとシオンも目覚めた。シオンの捻挫と擦り傷は、もうだいぶ痛みが引いているという。


「シオン、月の雫、飲んでおく?」


 クオンが背嚢から瓶を取り出す。シオンはうーんと唸った。


「そうしたいけど、町を通れないとなると、補充できないんだよね。ひと口だけにしておく?」


「そうだね。いざというときのために、残しておかないと」


 軽く食事を口にして、地図を確認し、焚き火を消した。解けていたリボンタイを、襟の下できゅっと結ぶ。荷物を持ち上げ、上を見れば、東の空高くに眩しい太陽が昇っていた。


「さ、行くか」


 のんびりはしていられない。今日も少しでも、ウィルヘルムへ近づかなくては。肌寒い森の中を、ゆっくりと歩き出す。

 道なき道を踏みしめて、太陽の浮かぶ方向へと進む。森はみるみる深まって、似たような景色が続き、時間感覚も方向感覚も狂いそうだった。クオンとシオンはひと晩寝たらすっかり元気で、きゃっきゃと笑い合いながら、俺の一歩先を歩いている。ふたりの弾む声に、小鳥や小動物がいそいそと逃げていく。

 途中で、双子がいきなり立ち止まった。そしてさっと俺の脇に張り付く。クオンが耳をぺたっと下げる。


「イチヤくん、この先だめ。進路を変えよう」


 太陽の位置を見れば、方角はこちらで間違いない。しかし先を歩いていた双子がこの様子なのでは、なにか見つけたに違いない。案の定、シオンが言った。


「すっごく大きな獣が寝てる。イチヤくんの身長の三倍くらいある」


「危なくないとこまで迂回しよう」


 森に道らしい道はない。木々の隙間を縫って、通り道を変える。

 しかしこんなのが何度も連続した。狼のような遠吠えが聞こえたり、爪が地面にくい込んだような足跡があったり、樹木の向こうに影が見えたりする度に、進路を変える。

 今も数メートル向こうで、ずんぐりとした巨体のクマみたいな生き物が、爪で小鳥を落として口に運んでいた。あれに見つかったらまずいと、本能的に危機を感じる。クオンとシオンも、足音を立てずに後退りした。


 しかし、クマの方も獲物を探していたのだろう。ぐるっとこちらに顔を向け、俺と双子を捉えた。オオオと雄叫びを上げて、こちらに突っ込んでくる。


「やばい」


 俺は短くそう叫び、来た道を戻った。クオンとシオンも走って俺を追う。しかし足を痛めていたシオンが、ふらりとよろめいた。遅れを取った彼女の背嚢に、クマの爪が食い込む。


「きゃあっ」


 背嚢が吊り上げられ、シオンの体が浮いた。俺もクオンも立ち止まる。クオンは素早く背嚢をかなぐり捨てて身軽になり、どう見たって勝てない大きさの相手に、躊躇なく突進していった。


「シオンを返せー!」


 待て、と俺が声を出す前に、クオンはクマの懐に飛び込んだ。クマはクオンを払いのけようとして、シオンを吊り下げた太い前足を振った。振り子のように投げ出されたシオンは、背嚢のベルトが千切れ、吹っ飛んだ体がクオンと正面衝突した。ふたりは団子になって、平地にべしゃっと叩き落された。

 俺はふたりの元へと駆け寄る。


「クオン、シオン!」


 勢いよく吹っ飛ばされたし、クオンはシオンの下敷きになったが、ふたりとも意識はある。ふたりが体勢を立て直す前に、クマがずしんずしんと歩み寄ってくる。

 今立ち上がっても、走っても、もう逃げ切れない。俺は双子に覆い被さった。せめて俺が犠牲になれば、ふたりに逃げる隙を与えられる。

 死を意識した瞬間は、それしか頭になかった。


 と、そのとき、背後からギャーッというざらついた声と、鳥の羽音が聞こえた。クマの爪は突き刺さってこない。

 振り向くと、先程のクマがこれまた巨大な鳥に襲われている。猛禽類らしきその鳥がクマの肩に鋭い爪を食い込ませ、嘴で顔を齧る。クマの方も抵抗して、鳥の翼に太腕を叩きつけていた。


 森の住民同士の争いが始まったのだ。いつの間にか、俺たちは蚊帳の外である。

 ぽかんとしているクオンとシオンに向き直り、俺はそっとふたりの肩を叩いた。


「今のうちに逃げよう」


 鳥獣が揉み合うのを尻目に、俺たちはその場を一目散に逃げ出した。


 いつからだろうか、俺とクオンとシオンの間から、会話がなくなっていた。声を出したら獣に気づかれる緊張感はもちろん、単純に、会話をする元気が削られているというのもある。

 クオンとシオンの背嚢は、クマの前から回収できなかった。荷物はもう、俺の手持ちしかない。

 シオンがまた、ふらついた。声をかけようかと思ったが、獣の足音が聞こえて、声を出すことを躊躇う。


 ひと言も会話を交わさぬまま、森はどんどん深まり、暗くなっていく。頭上の枝は互いに絡み合うように広がって、太陽すらも遮る。獣を避けるせいで、真っ直ぐ東に向かうというよりはだいぶ北東に逸れてしまっていた。あのクマのように対峙するよりずっといいが、道程的には遠回りになっている。


 太陽の位置が高くなってきた。正午近い時刻なのだろう。足が棒になってきている。

 ふいに、クオンがぴたっと足を止めた。後ろ姿でも分かるほど、耳をぴんと立てている。


「水の音がする。こっちだ」


 クオンはもはや東の進路から大きく逸れて、北側に向かって駆け出した。耳を澄ますと微かに、さわさわと水の流れる音が聞こえた。

 クオンを追いかけていくと、ひんやりしていた森の中がさらにぐっと涼しくなった。やがて視界が拓け、黒い岩場と浅い小川に出た。川辺は木々の間よりずっと明るい。昼間の日差しが降り注いで、川の水面をきらきら輝かせていた。

 クオンが木の上から辺りを見回す。


「野生生物はいないみたい」


「ここで少し休憩しようか」


 遠回りになっているのは、もうとっくに諦めている。

 小川の手前には、上下二メートルほどの幅の小さな岩穴があった。自然にできた洞窟のようだ。慎重に中を覗き込んでみたところ、深さにして五メートルほどしかなく、なにかが住んでいる様子もない。かなり狭いけれど、雨風を凌ぐには充分だ。今夜山から出られなかったら、ここを野営地にできそうだ。

 クオンは早速岩穴に入り、気に入った様子でこちらに顔を出した。


「ここ、狭くて気持ちいい。シオンもおいでよ」


「いいね、体が休まる」


 ふたりとも岩穴に入って身を寄せ合い、じっとしている。俺は背嚢から食糧を取り出しつつ、ふたりを呼んだ。


「先にごはんにしない? おーい」


 しかしふたりは返事をしない。眠っているようだ。

 疲れたのかな、と考えたあと、俺ははたと上空の太陽に目をやった。月がない真昼の空。朝のふたりのやりとりを思い出す。

 月の雫は補充できないから、少しずつ飲む。いざというときのために、残しておきたいから……。

 もしかしてこの子たちは、月のエネルギーが足りなくなって、眠りに落ちてしまったのではないか。


 背中にどっと汗をかく。残りの月の雫は、吹き飛んだふたりの背嚢の中だ。夜になっても、月はだいぶ痩せてきている。

 俺には、このふたりを両方抱えて山を歩くほど、体力も筋力もない。


 死んだように動かないふたりを見つめ、奥歯を噛む。こんな山の中、なにが出るか分からないような場所で、最悪の事態かもしれない。


 決心するのに、時間がかかった。俺は二回も深呼吸してから、ふたりに背を向けた。外套で岩穴の入り口を隠して、川辺から森の中へ引き返す。


 ガザへ戻ってみよう。人のいる場所へ行けば、月の雫が手に入る。


 門番をしていた青年の言葉が俺を尻込みさせる。あの村で少しでも疑われたら、ただでは済まされない。だが、このまま月が出てくるまで待っているわけにもいかない。


 できればクオンとシオンの背嚢を見つけて、回収できればそれでいい。


 獣道を一進一退しながら、歩みを進める。獣を避けて、来た道とは違う道を歩いた。地図もないから、方角は日の位置を頼りに決めた。

 大きな岩山に行く手を遮られて道を変え、木々に邪魔されて進めなくなっては来た道を戻る。


 一時間くらい歩いただろうか。やがて俺は、木々の向こうに平地を見つけた。鬱蒼と茂っていた森はここで途絶えており、さらにその先には、截然たる崖である。

 しかしその脇には、下り坂がある。旅人のために打たれたらしき杭と、それを結ぶロープでできた手摺がある。真っ直ぐ進めば、山の麓へ下りられそうだ。


 見通しのいい平地には、野生生物の姿はない。となれば、このまま一気に下り坂を下りて、人里へと駆け込むに限る。

 俺は崖に沿って、下を見ないように歩き、下り坂の手摺に手を乗せようとした。


 その矢先、背後にどんっと衝撃が走った。


「へっ?」


 間抜けな声とともに振り向くと、先程も見たあの巨大なクマがいた。興奮した目で俺を威嚇し、筋肉の盛り上がった腕で俺を殴りつけている。


 前ばかり見ていて、森から飛び出してきたこいつに気づかなかった。


 足元が崩れる。斜めに滑った体が、崖の下に向かって、重力に引っ張られていくのを感じる。


 脳内に走馬灯が走った。


 森の中、燃え残ったキャンプファイヤーの薪。テントの外の、朝の日差し。眠る前にはいたはずのもうひとりが、朝になったら消えていて。


『父さん?』


 俺はテントの周辺を見回した。そして見つけてしまった。太い幹、強く縛り付けられたロープ。上空からだらりとぶら下がった、脚。


『父さん……?』


 深緑の中で呼ぶ俺の声は、ひとり言になって――。


 記憶の中の俺は静かに立ち尽くしていたが、現実の俺は、宙に浮いていた。

 真下には広大な森が広がっている。なぜか俺は変に落ち着いていて、ジェットコースターのいちばん上から見た高さに似ているな、と思った。安全装置のある絶叫マシンだったら、楽しかったかもしれないのにな。


 風圧が痛い。クオンとシオン、大丈夫かな。それだけ頭の中に残して、俺は意識を失った。

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