容疑

 ウィルヘルムは、月の都から東に進んだ先にあるという。

 天文台から東は、しばらく森続きだった。天文台よりも東の方は人の立ち入りがないのか、道らしい道がない。木々は伸びきっており、上空で枝が絡み合い、足元は木の根が這ってぼこぼこしている。


「真っ暗だね」


 クオンが真上の枝に呟く。枝が折り重なっているせいで、空が隠されて月の光が届かない。もともと月の細い夜だったが、枝で蓋をされると一層暗かった。

 上ばかり見てはいられない。よそ見をしていると無作為に立つ木々に足を取られる。


「足元気をつけて。暗いし根が……うわっ」


 言っていた俺自身が、木の根に爪先を引っかけられた。それを見てシオンがくすっと吹き出し、クオンなんてきゃははと声を上げて笑った。

 ふたりの笑い声が、静かな森の中で軽やかに響く。穏やかで、楽しげで、夜逃げ中だなんて嘘みたいだ。


 木々が行く手を塞いで、向かう方向に進むだけでもひと苦労だ。このままどこまでも森が深まっていくような気がしてきた頃、上空の枝の密度が薄くなってきた。やがて木々の向こうに、枯れた大地のまっさらな平原が現れた。


 シオンが立ち止まり、背嚢の横ポケットから、筒状に巻かれた紙切れを取り出した。


「大陸地図、持ってきた」


 端の破れたそれを広げ、俺の方に掲げてくる。俺とクオンも階段の途中で足を止めた。シオンの持つ地図を覗き、道を確かめる。暗さに目が慣れてきてはいたが、それでも、細い月明かりの中ではしっかりは見えない。


「ここが月の都で、ここがウィルヘルムだね」


 クオンが地図の中を指さす。図面の中の西寄りにある印を示してから、そこから西に指をスライドし、区画の大きな一角に当てる。シオンがふたつの土地の間を、ちょんちょんとつついた。


「最短距離でも、人里をふたつ越える。ガザっていう小っちゃい村と、その次にカランコエっていう商業都市。ガザまでは荒野続きだね」


「ふたりともよくこんなに暗い中で地図を読めるな。月の民は夜型だから?」


 俺には区画の線さえ霞んで見える。見えたところで、地名は読めないし、どんな土地かも分からないけど。

 シオンが地図を見つめる。


「先に着く方のガザは、牧場地帯。馬車、借りられるかも」


「馬車に乗れたらウィルヘルムまですぐだよ! よし、まずはここを目指して頑張ろう」


 クオンが腕を振り上げ、タタタと駆けていった。シオンが地図を巻き直し、背嚢のポケットに差し込む。肩ベルトを両手で握って歩き出す彼女に合わせ、俺も荒れた大地へ向かって進む。

 雑草が蔓延る荒野が広がっている。周囲には痩せた木がぽつぽつ立っているくらいで、あとはだだっ広い平らな地面が広がるだけ。真っ直ぐ東に向かうにしても、目印になるものがなにもない。視界のずっと先には、遠くぼやけた山が見えた。


「すぐそこに月の都という人里があるのに、こっちの方はなんにもないんだな」


「西にはコルエ村っていう小さい村が、すぐ近くにあるんだけどねえ」


 先導するクオンが、俺の声を拾って返事をする。

 迫害対象である月の民の暮らす都の周りは、あまり栄えていないのかもしれない。


 闇の中を砂煙が舞う。時折遠くでササッと、生き物が動く影が見えた。野生の生物がいるようだ。歩いているうちに、徐々に生き物の気配が近づいてくる。上空を不気味に飛び回るコウモリのような生物や、草陰に身を潜めて赤い目を光らせるものなど、それまで気づかなかった存在が徐々に姿を現してくる。月の都から離れれば離れるほど、見慣れぬ生物たちの生活圏内に踏み込んでいく。


 暗闇の中、獣の群れが見えた。背を低くして近づいてくる。じりじり追ってくるそれらは、明らかに俺たちを獲物として見ていた。シオンが肩を縮こませた。


「怖い……」


「走って逃げようよ」


 クオンが声を潜める。しかしこちらが早足になるにつれ、獣の群れも加速する。いつの間にか全速力で逃げていたが、獣の群れはみるみる距離を詰めてくる。前だけ見て走るクオンも、振り返りながら泣きそうになるシオンも、息が上がってきていた。

 腹を空かせた野生の獣の脚力に、人間の足が適うわけがない。


 俺は背中の背嚢に手を突っ込んで、持ってきていた食糧をひとつ引き抜いた。保存食の干し肉だった。それを獣の方へ向けて、思い切り投げる。


 肉の匂いに反応したのだろう、獣たちの視線が、干し肉に逸れた。彼らが肉を追いかけているうちに、俺はクオンとシオンの手を引いた。


「人里まで走ろう」


 人の住む村なら、流石になにかしらの野生生物対策を取っているはずだ。


 夢中で走っていると、突然数歩先の地面がボコッと盛り上がった。そこから顔面の溶けた狐みたいなものが顔を出す。急に現れたそれに、シオンが躓いた。


「あうっ」


「シオン!」


 クオンが立ち止まる。溶けた狐がシオンの足に向かってくわっと口を開いた。鋭い牙がシオンのふくらはぎに刺さるその寸前に、クオンがシオンの背嚢から丸めた地図を抜き、狐の頭部に振りかぶる。


「えいっ」


 狐がぽこっと地面に引っ込む。クオンがシオンの手を取る。


「シオン、平気?」


「うん。走れる。クオンは怪我ない?」


「大丈夫!」


 走れると言ったシオンだったが、くじいた足を引きずって、少しだけよろついている。幸い、獣の群れは俺たちを見失ったようで、追ってきていない。

 だが油断はできない。

 三人とも息をぜいぜい言わせて走っていくと、のっぺりした荒野の向こうにオレンジ色の光が見えた。クオンの瞳に、その灯火が反射する。


「村だ! ガザだよ。あそこまで行けば、休める!」


 ひと筋の希望の光が見えたような気持ちだった。最初の目的地が目前となり、自然と足が早まる。目標に向かって、へとへとになった足を引きずる。立ち止まることはできない。

 ガザの村は目前だ。害獣避けらしき、棘と松明のついた柵に囲まれて、木製の門が閉じているのまで見えた。

 よろけるシオンを支えて歩き、ようやくガザの門の前まで辿り着いた。


 左右に数百メートルもの柵が伸びている。先端には松明が灯り、パチパチと火の粉を散らしていた。柵の両脇は小高い山で囲まれていて、ガザの村の中も坂道になっている様子だった。柵の向こうに、村の牧歌的な景色の欠片が見える。


 門番をしていたのは、村の若者らしき草臥れた格好の青年だった。普段は牧場の仕事をしているのだろう、武器代わりにピッチフォークを携えて眠たそうに立っていた。


「すみません、村に入りたいんですが」


 青年に声をかけると、彼は気だるげに返事をした。


「身分証明は?」


「えっと……」


 村に入るにもチェックがあるようだ。俺はフレイとの初対面のときと同じように学生証を出そうとして、手を止めた。そういえば俺たちは今、暗殺容疑で手配中の身だ。


 青年は俺が身分証を出すのを待っている。


「面倒かもしれないけど、決まりなんだ。最近、この辺りに山賊が出るからよ。ウィルヘルムから注意喚起があってな。こうやって警戒して、門番立ててるんだよ」


「山賊……ですか」


「そ。皆ピリピリしてるよ。この間なんてな、盗みを働いた村人が強制的に山賊だと自供させられて、死にかけるまで殴られて村を追い出されたんだ。神経質すぎて、ちょっと怖いや」


 青年が地面に突いたピッチフォークにもたれかかる。


「それにこの頃、月の都で月影読みが殺されたらしい」


 彼の言葉に、どきりとする。背中にじわりと浮かんだ汗を悟られないよう、俺はしらを切った。


「へえ、そうなんですか。怖いですね」


「月影読みといえば大賢者だぞ。殺した奴は極刑だろうなあ」


 青年の間延びした声が、俺の心臓をばくばくさせる。


「オイラな、多分これも山賊の関係なんじゃねえかと思ってんだ。きっと山賊が天文台にある金目なものを奪うために、月影読みを襲ったんだぜ。そうに違いない」


 青年の憶測は、途中から耳に入っても頭まで届いてきていなかった。

 この村で入念に確認されたら、俺たちが天文台から逃げてきたこともバレる。


「まあ、月影読み殺しとか山賊とか、いろいろあるせいでさ。おかげさまでオイラみたいな若いのは、当番制で夜通し門番として立たされてるんだ。やんなるよ」


 青年の愚痴を聞き流し、俺はクオンとシオンをそれぞれ窺い見た。ふたりとも俺と同じ懸念を抱いたようで、口を閉じて俺の出方に注目していた。大欠伸をする青年に、俺はハハ、と乾いた笑い声を出した。


「そうなんですね。お疲れ様です」


 クオンとシオンの背中に手を当て、合図する。不安げに視線を漂わせるふたりの背中を押し、門を離れる。青年があれ、と眠そうな顔を上げる。


「身分証は?」


「ええと、どこかに落としたみたい。また来ます」


 俺は双子を連れて、柵にそって門から離れた。青年の姿が見えなくなった辺りで、クオンが苦笑した。


「折角人里に近づけたのに、これじゃあ立ち寄れそうもないねえ」


 シオンが小さく項垂れた。


「捕まっちゃったら終わり、だものね」


 身分を偽って村に入ったとしても、安心して過ごせるとは限らない。俺や双子と直接話しているグルーダが、俺たちの特徴を各地に伝えているかもしれない。門の内側に閉じ込められでもしたら、逃げられない。


「途中の村でこれなら、ウィルヘルムに入るのはもっと厳しいかもな。やっぱり、ウィルヘルムの方面に向かうという判断は早計だったかな」


「でも宛もなくふらふら逃げるより、ウィルヘルムに突撃した方がいいと思うよ」


 クオンがきっぱりした口調で言う。


「セレーネ様の行方を追うには、ウィルヘルムに行ってみるのがいちばんだもの」


「セレーネ様さえ見つかれば、私たちの暗殺容疑は晴れるんだしね」


 シオンもこくりと同意する。頷いてから、彼女は小声で付け足した。


「生きていれば……」


「生きてるに決まってるでしょ! シオンまでそんなこと言って!」


 間髪入れずに大声を出すクオンに、シオンはびくっと肩を縮こませた。


「わ、私だってそう思いたい。でも、王国議会が考えるとおり……あまりにも連絡がない。死んじゃったかもって、思われても仕方ない……」


「そんなわけないもん! 絶対どこかにいる。どうせ気ままに物見遊山の旅でもしてるんだよ! そういう人だもん」


 シオンの不安も、根拠のない希望を口にしたいクオンの気持ちも、分かる。セレーネが生きている確証はない。

 もしもウィルヘルムへまで行って、セレーネが殺されていた証拠が出てきたら、クオンとシオンは受け止めきれるのだろうか。大切な人が死に、しかもその殺しの容疑が自分にかけられるなど、幼い少女たちには重すぎるのではないか。


 シオンが地図を広げる。


「ガザを縦断できないとなると、山を越えなくちゃならない」


 シオンの細い指先が、地図の中のガザの横に聳える山を示す。顔を上げれば目の前に山林が広がっている。緩やかな坂道が、鬱蒼とした木々に呑み込まれているのだ。


「野生生物がたくさん住んでる。でも、人里で捕まるよりマシかも。死にかけるまで殴られて、外へ放り出されるのは……嫌だもの」


 シオンが山の道を見据える。俺は傍に見える村の柵を一瞥し、山道に足を踏み入れた。

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