逃亡
「どうしよっか」
建物の中にあった食糧をダイニングに集め、クオンは呟いた。
「いきなり逃げろって言われても、どこへ行けばいいの? 少なくとも、月の都にはもういられないよね」
「クオン、荷造り急いで。口動かしてる暇、ない」
シオンが深いチョコレート色の背嚢を三つ持ってきて、並べた食糧を詰めていく。
「荷物はなるべく少ない方がいいよね。どうしても必要なものは、途中の町で買おう」
クオンとシオンは、いつものワンピースの上からフード付きの外套を羽織っていた。丈がふくらはぎの辺りまである、モスグリーンの厚手の上着だ。俺にも、お揃いの大きいものを貸してくれた。セレーネのものだそうだが、俺でもすっぽり収まった。
今は、ここから逃げるしかない。月の都にいられないとなれば、町の外――すなわち、人の管理が行き届いていない無法地帯の荒野へ出なければならない。
以前聞いた話によると、危険な野生の生物や、追放されたならず者がのさばっているという。だがそこを越えないと、月の都からは逃げられない。
「町に立ち寄るまではサバイバル生活か。食糧と水と、あとはナイフとかもあった方がいいのかな」
なんの知識もないが、過酷な状況を想像して、持ち物を選ぶ。
「それと、火起こしの道具。建物の中とは違って、月のエネルギーでは火起こしできないよな。どうしよう」
俺が呟くと、クオンが耳をぴんと立てた。
「火? うーんと、火起こしの石があるよ。カチッとぶつけると火が点くの」
「そんなのあるの?」
「うん。月のエネルギーが開発されるより前の時代は、それを使って火起こししてたんだよ」
クオンはぱたぱた走って、火起こしの石を取りに行った。
「雨が続いて月のエネルギーがなくなっちゃったときの非常用が、天文台にも置いてあるの! 持ってくるね」
クオンを見送り、シオンが俺の方を向いた。
「火かあ。灯りにすれば暗い夜も進めるし、果物も焼けるね」
「そうそう。それに火があれば、獣は寄ってこないだろ」
「そうなの? イチヤくん、よく知ってるね」
月の都から出たことがないというこの子たちは、野生生物の対策など知らないのだろう。
と、考えたところで、ハッとした。俺だってこんな荒野に投げ出された経験なんかないのに、火が獣避けになるという知識があった。記憶を失う前の俺は、なんでそんなことを知っていたのだろう。
クオンが戻ってきて、俺に白い石をふたつ、手渡してくる。石灰のような質感だ。これを擦り合わせると、火が点くのだという。
食糧は三人で少しずつ分け合って、一日もつくらいの量がある。缶詰や乾燥した肉などの、保存の利きそうなものを選んで、背嚢に詰める。
クオンとシオンはそれぞれ、手のひらに収まるほどの小さな瓶を、ひとつずつ持っていた。ふたりは顔を見合わせ、瓶を背嚢に入れる。
「月の雫! これは絶対、忘れちゃだめ」
クオンが言い、シオンが頷く。
「そうだね。でもこれは、途中の町でも分けてもらえるよ」
月の民の必需品、月の雫である。クオンはそっか、と虚空を見上げた。
「大地の国に住んでる月の民のために、配給してるもんね。瓶は重たいから、たくさんは持てないし」
ふたりは瓶を押し込んでから、その上に小型のナイフや薬草などの小物と、食糧を詰めていく。
クオンがまた、不満を垂れる。
「それにしたって、あんまりにも急だよね。なんでこんなことに?」
「王国議会が勝手に、俺たちを悪役に仕立てあげてるみたいだったな」
フレイの言葉を思い出しつつ、俺もシオンから借りた背嚢に飲料水の皮袋を詰めた。いまだ整理のつかない頭の中に、モヤモヤと煙が立ち込める。赤毛の男の後ろ姿が、浮かんでは消えてを繰り返す。
「あのグルーダっておっさん……上手く言えないけど、あの人がなにか知ってそうな気がする」
「グルーダ? この前イチヤくんを噴水にぶち込んだおじちゃんだよね。元老院議長の近衛騎士だっけか」
クオンがテーブルに手をついて、こちらを向いた。俺は干し肉の入った袋を、背嚢と鞄の中の隙間にねじ込む。
「うん。あの人は、赤い首輪とセレーネに接点があるって、確信してた。こっちより調べが進んでるんだと思う」
クオンがくわっと牙を覗かせた。
「あっ、分かった! あのおじちゃんが私たちを嵌めようとしてるんじゃない? 私たちをここから追い出して、天文台を乗っ取るつもりなのかも。でもなんで? 望遠鏡とか、貴重な道具を悪用するため?」
「クオン、真面目に荷造りして」
クオンがわあわあと騒ぐと、シオンが冷ややかに彼女を一喝した。クオンがしゅんと、静かになる。
それから彼女は、不安げに俺を見た。
「ねえイチヤくん。これからどこへ行く?」
そうだ、それを決めなくてはならない。月の都を出るのだ、危険で過酷な荒野をただ宛もなく歩くわけにはいかない。どこを目指すか。せめてその方向だけでも、決めなくては。
俺は膨らんだ背嚢を、肩に引っ掛けた。
「ウィルヘルムは、どうかな」
地の国の首都、ウィルヘルム。クオンとシオンはきょとん顔で手を止めた。俺はそんなふたりの顔それぞれに視線を返す。
「ツヴァイエル卿を頼ってみよう。前に会ったとき、協力してくれるって言ってた」
サリアさんが、「貴族は自分の領地でなくウィルヘルムに自宅を構える」と話していた。ツヴァイエル卿の領地も月の都を含めあちこちにあるようだが、商会の拠点を置くためだと思われる。具体的な住所までは分からないけれど、自宅自体は多分、ウィルヘルムだ。
もしも違ったとしても、大きな都市へ出れば、なにか解決の緒があるはず。
シオンが青い顔で耳を下げた。
「でも、ウィルヘルムは首都だよ。まさに王国議会の議事堂がある場所。そこに向かうのは……危ないんじゃない?」
俺は少し、目を伏せた。本当は自分もそう考えて、葛藤していた。
「だからこそ行かなくちゃいけないんじゃないか。ウィルヘルムにいるグルーダが、なにかセレーネの情報を掴んでる。それなら俺たちもウィルヘルムに行けば、セレーネに近づけるかもしれない」
根拠はないけれど、他に宛もない。クオンとシオンはしばし口を結び、やがてほぼ同時に、荷物を詰め終えた背嚢を背負った。
「ウィルヘルムって、月の都からは馬車でも丸一日かかるんだって」
シオンに言われ、俺は唸った。
「うーん……結構遠いんだな」
肩に背嚢の重量がのしかかる。荷物自体は多くないのに、気持ちが重いせいか、いやにずっしりと感じる。
ウィルヘルムに向かうのは決まったが、それまでの道程がまた、問題である。地主のいない荒れた土地を、徒歩で進むことになる。馬車でも一日かかる距離を、だ。
しかしどちらにせよ、もうここにはいられない。どうしたって、行かなくてはならない。俺は改めて、天文台のダイニングを見渡した。
必要最低限の荷物は、鞄に詰め込んだ。それらがなくなっただけの室内は、今までとあまり変わらない。人数分の椅子がテーブルを囲んで、カーテンが窓辺を包んで、洗った皿が立てかけられていて。ありふれた生活感が残っているこの場所を、こうして立ち去るなど、どうにも実感が湧かなかった。
クオンとシオンが立ち尽くしている。薄暗い部屋の中をじっくり見つめる後ろ姿は、この場所との別れを惜しんでいるように見えた。
「……行こう」
俺はふたりに、そして自分自身に鞭を打つ気分でそう口にした。
早く出ていかないと、今晩にでも調査が来るかもしれない。持てる限りの荷物を身につけ、扉を開ける。
外へ出ても、クオンとシオンは名残惜しそうに何度も建物を振り向いた。
「早くしないと、人が来る」
心を鬼にして促すと、クオンがふらりと歩き出した。シオンの方はまだ天文台に釘付けになっている。
「ねえ……」
夜の森に消えてしまいそうな声が、微かに発せられる。
「また、帰って、こられるよね……?」
木々が夜風にざわめく。細い暁月に照らされた天文台を背に、シオンの白い髪が透き通って見える。
俺の横に立っていたクオンが、ふわりと目を細めた。
「当たり前だよ。絶対帰ってくるよ。ね、イチヤくん」
青と金の瞳が俺を見上げる。
「これは遠足! 折角だから楽しもうよ」
クオンはあどけない笑顔を咲かせて、新たな一歩を軽やかに踏み出す。
「えへへっ、私、月の都の外に出るの初めて。わくわくする」
その無邪気な笑い方はなんとも平和的で、この絶望的な事態の中ではミスマッチながら、救いのように感じた。
俺は先に行ってしまうクオンを目で追って、次に立ち止まるシオンに視線を投げる。目が合うと、シオンは僅かに頬を緩めてこちらに歩みだした。
「戻ってくるときは、セレーネ様も一緒だよね。お母さんも、きっと」
「うん、そうだな」
フレイにもああ言われたのだ、俺はこのふたりを、命に変えてでも守る。
「早く早く! 置いてっちゃうよ」
クオンが数メートル先で手を振っている。俺はシオンと目配せし、クオンを追いかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます