夢
天文台のエントランスからすぐの、談話室。帰ってきた俺と、一緒についてきたマイトは、そのソファに座らされていた。マイトがぽかんとした顔で、部屋を見回す。
「ここって、天文台……。い、イチヤさんて……月影読みだったんですか……!?」
「えっと、セレーネが帰ってくるまでの代理、ね」
「そんなすごい人だったなんて! ごめんなさい、そうとは知らず、俺はなんてご無礼を!」
マイトがぺこぺこ頭を下げる。そしてその仕草で腰に激痛が走ったのか、急に固まって、ソファにぱたんと倒れた。
寝そべったマイトが、手のひらで顔を覆う。
「月の民に優しいと思ったら……月影読みだったなんて。俺たち月の民の王様みたいなものじゃないですか」
「そんなに?」
「ううん、王様なんてもんじゃない。実質神様ですよ。だって月影読みは、アズール・ルーナ様にお仕えする巫ですもん」
「アズール……?」
なんだか知らない言葉が出てきた。知らないことの方が多いのだから当然かもしれないが、時々こうして、話についていけなくなる。
そこへ、クオンとシオンが薬箱を持ってやってきた。シオンが俺の横にちょんと座る。
「お待たせ。もう、イチヤくんてば打撲が治りかけてきたばかりだったのに、また怪我するんだもん」
フレイのところから帰ってきた俺が、ボロボロになっていたのだ。その上、同じくボロボロのマイトも一緒だ。クオンとシオンはびっくりしていた。
俺とマイトは双子に手当を頼み、服を脱いだ。シオンが俺の傷に薬草の粉を振りかける。その横ではマイトが、クオンに傷薬を塗られていた。
「なんだか今日はすごい日だなあ。イチヤさんは月影読みだったし、ツヴァイエル卿とも会っちゃったし」
「ツヴァイエル卿……あの青っぽい人か」
俺は街で助けてくれた、きれいな顔の優男を思い出した。薬をつけていたクオンが、ぴょんと尻尾を立てた。
「ふたりともツヴァイエル卿に会ったの?」
「うん、そ……痛っ! 滲みる!」
マイトが痛がっていても、クオンはあまり気にせず明るい声で言った。
「すっごーい! 有名人だよ!」
一方俺は、まだ事態を上手く呑み込めずにいた。
「ツヴァイエル卿……あの人、何者?」
「ご存知ないんですか!? あの、エルド・ツヴァイエルを!?」
大声で叫んだのは、マイトである。目を丸くして俺を振り向き、彼は早口に捲し立てた。
「大地の国や月の都の一部地域を保有する大地主で、ツヴァイエル商会っていう商家の長ですよ!」
「えっ、貴族で豪商?」
俺はツヴァイエル卿の、フレイに向けていた朗らかな笑顔を思い浮かべた。びっくりしたが、あの大物感なら納得である。その辺の偉そうな大地の民とは違うというか、本当に地位のある人間は、横柄な態度など取らないのかもしれない。
「そんなすごい人だったんだ。フレイは知り合いっぽかったな」
俺が言うと、シオンが頷いた。
「役場の人は、月の民の生活を守ってるから。ツヴァイエル卿みたいな経営者サイドとも、関わることが多いんだよ」
ツヴァイエル卿は、暴れる髭の男を鶴のひと声で制して、即座にあの場を収めた。周囲の月の民たちからの目線からしても、よほど慕われているのが分かる。フレイからの信頼も厚い様子だった。
マイトが俺に、赤紫の瞳を向けた。
「ツヴァイリー運送は、ツヴァイエル商会の子会社ですからね。日雇いの労働者をいじめてるところを、親玉であるツヴァイエル卿に見つかったんだから、あの御者も運が悪いですよ」
「そうなんだ。さしずめツヴァイエル卿は子会社の馬車を見つけて、その御者にも気づいたってところかな」
「定期視察って言ってましたし、卿はああして、末端の現場の監督者まで、見張ってくれてるんですね」
それからマイトは、改めてぺこりと、俺に頭を下げた。
「イチヤさん、昨日に引き続き、またまた助けていただいて、ありがとうございました」
「ううん、俺、なにもできなかったよ。マイトこそ、俺を庇おうとして蹴られただろ。ごめんな」
「俺はいいんです、慣れてるので」
マイトが自虐的に笑う。それからクオンがつけた消毒液が滲みたようで、短く叫んで身をよじった。
俺は改めて、マイトの体を見た。怪我の手当のために服を脱がされている。肋の浮いた細い体には、打撲の痕や火傷の痕が残っている。
「慣れちゃだめだよ、そんなの」
俺がぽつりと洩らすと、マイトは一瞬、不思議そうに目をぱちくりさせた。そしてくすっと笑う。
「やっぱり、月影読みは月の民の味方ですね。だけど俺たち月の民は、大地の民みたいに頭も育ちもよくないから、バカにされるのが当たり前です。特に俺は、月の民の中でもとびきり鈍臭いから、仕方ないんです」
仕方なくはないだろ、と俺は口を挟もうとしたが、マイトはあっけらかんとして続けた。
「先週まで建設会社に雇用されてたんですけど、ドジ踏んで、解雇されちゃったんです。長く働けるところで頑張りたいんだけど、全然だめで」
彼は小さくため息をつく。
「大地の民に生まれてたら、ちゃんと学校に行って、安定した仕事に就けたのになあ」
「月の民は勉強とか、させてもらえないの?」
「そりゃそうですよ。俺たち月の民は、お金がないですから……」
この世界における月の民差別は、結構根が深そうだ。月の民は教育をまともに受けさせてもらえず、職業選択も幅が狭い。使い捨ての労働力として扱き使われて、就労先で大地の民から迫害を受けている。
「大地の民が言うとおり、月の民は獣です。大地の民ほど頭がよくない。月の民は自然淘汰される弱い民族だから……。支配されるのは、当然なんですよ」
マイトの語り口は、諦めのような達観のような、どこか開き直っているように聞こえた。
「でも俺、それを理由にして負け組になるのは嫌なんです」
マイトは大真面目な顔で、拳を握った。
「夢があるんです。俺、歌劇団に入る!」
するとクオンとシオンが、同時に背筋と尻尾を伸ばした。
「歌劇団!」
「歌劇団!」
双子はふたりして、耳を真正面に向けて、目を輝かせている。マイトは彼女たちに微笑みかけて頷いた。
「はい。俺、なにやってもダメダメですけど、歌を歌うのだけは、小さい頃から褒められたんです」
そしてその晴れ晴れとした笑顔を、俺にも向けた。
「移動歌劇団ルミナの看板女優、カレン・ミスティーナ! 月の民なのに、大地の民からも愛される大女優。俺も同じ舞台に立ちたい。あんなふうに、全部跳ね除けてトップになれる、そんな人になりたいんです」
「へえ!」
生憎別の世界から来た俺は全然知らない女優だが、月の民の扱いを聞けば、月の民が大女優として活躍しているのは素晴らしいと分かる。マイトはうっとりと目を細めた。
「俺が有名になったら、病気の母さんもきっと、安心してくれる」
胸の内を明かして、マイトが俺に問いかける。
「イチヤさん、ルミナの演劇を観たことはありますか?」
「ごめん、一度もない」
「そうですか。旅の劇団ですから、各地を転々としていて滅多に出会えないんですよね。運よく自分の街に来たら幸運ですよ。俺、五年前に偶然行った街で偶然観れたんです。あれから人生の目標ができました」
マイトは目を輝かせ、キリッとした口調で語った。
「そのために、こうやってちょっとずつお金を貯めて、大地の国の国立大学に編入する。お金さえあれば、カレンのように入学できますからね。そして演劇の勉強をして、劇団に入るんだ」
いきいきと夢を語っているマイトを見ていると、なんとなく、元気づけられる。彼は苦労しているようだけれど、ブレない目標があるから、こんなに一生懸命になれるのだ。
手当が済むと、マイトはクオンとシオン、それと俺にも、深々と頭を下げた。
「本当に本当に、ありがとうございました。昨日の果物のお礼もまだなのに、こんなによくしていただいて」
「そんなの気にしないで。それよりも、体、大事にしてな」
俺が労うと、マイトは嬉しそうに頬を染めた。
「イチヤさん。俺が劇団に入ったら、観に来てくださいね」
何年先の話だ。今は学費を稼いで、これから学校へ行って、劇団に入るのはそれからだというのに。だけれど彼は、自分の夢は絶対に叶うと確信している。
「うん。そのためにも、体は大事にするんだぞ。大怪我したり病気したりしたら、それどころじゃなくなっちゃうんだからな」
もう一度言うと、マイトははにかみながら頷いた。
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