Ⅲ.月と大地
正式決定
蒸栗色の外壁に、オリーブ色の三角屋根。バルコニーから垂れる旗。四角く構えた出入口には、左右に太い柱が立ち並ぶ。扉の前に立つ軍服の兵士がふたり。
その手前で立ち止まり、俺は口の中で呟いた。
「役場……ここ、だよな」
俺が天文台にやってきて、五日経った。その日俺は、ひとりで都の市場を訪れていた。
クオンとシオンは、強引な出任せで俺を「月影読み代理」に仕立て上げた。俺も怖そうな役人、フレイの威圧を突破するべく、その話に乗っかってしまった。
フレイは俺を訝っていたが、話しているうちに本当に俺が記憶喪失なのだと分かってくれたみたいだ。まだ十六歳であることや、体が打撲だらけだったことなども鑑みて、一旦引き上げていった。とはいえ、当然ながらまだ俺を警戒しており、今後も頻繁に様子を見に来ると宣言していった。
帰り際に、フレイは言った。
「イチヤといったか。お前、明日、役場に来い。ひとりでだ」
クオンとシオンは、連れてくるなという。彼は俺に、名刺らしきカードを手渡した。
「月影読み代理を置くなら、それなりの書面を作らなきゃならん。クオンとシオンがいると話がごちゃごちゃになるから、お前だけで来い。このカードを門番に見せれば、通れるようにしておく」
「分かった」
代理というのは、その場しのぎの咄嗟の嘘だ。だというのに、正式な手続きを踏む流れができてしまった。これで嘘がバレたらどうなるのだろう。
どこかで上手く軌道を修正して、上手くやり過ごそう、などと腹の中で考える。
そして、今日。俺は約束どおりひとりで、フレイの職場、月の都の役場を訪れた。
俺を見た門番が身構える。俺はフレイに言われたとおり、彼から渡されたカードを差し出した。
「行政職員のフレイ殿に、月影読み代理の申請に来ました」
「入ってよし」
門番が道を開けた。入口をくぐり、エントランスへ入る。カーペット敷の床にうっすら埃の付着した壁の、古い建物である。廊下が左右に分かれていて、どちらも突き当たりの壁が数十メートル先に見える程度の長さだ。
入ったはいいが、このあとどこへ向かえばいいのだろう。立ち止まって周囲を見回していると、傍の扉が開き、昨日も見た大男が姿を現した。
「来たな。時間どおりだ」
俺を待ち構えていた、フレイである。彼は自分が出てきた扉を大きく開いて、俺を招いた。
中は小さな応接室になっており、木製のテーブルと、それを挟む椅子がふたつ置かれていた。フレイが奥の椅子に腰を下ろす。
「さっさと本題入るぞ。これが書類。天文台に身を寄せるならここにサイン」
乱暴に呈された書類は、やはり俺には読めない言語で書かれている。フレイは俺に羽ペンを手渡した。
「月影読みは、実質月の都の長、大賢者だぞ。臨時の代理だとしても、手続きを踏むのが常識だ。クオンとシオンからなにも言われなかったのか?」
「言われてない。『この天文台にいるといいよ』としか」
俺は素直に言って、読めない文字を眺めた。
「俺……記憶がないし、天文台がどんな場所なのかも、分かってなかった。クオンとシオンはそんな俺を受け入れてくれて、住む場所をくれたんだ。だから俺も、深く考えずに甘えてしまって……」
こう説明したところで、結局俺は身元不明の不審者である。フレイからすれば警戒の対象であって、また嘘つき扱いで怒鳴られてもおかしくない。
と、思ったのだが、フレイは案外、大きなため息をついただけだった。
「あいつら、脳天気だからなあ。こんな訳の分からねえ奴を、ちゃんと調べもせずに天文台に住まわせる。役場への報告も後回し。そういう奴らだ」
「へ、はあ」
フレイが意外な方向に対して文句を言いはじめた。俺はきょとんとしつつ、ペンを握っていた。フレイが脚を組み、片手で頬杖をつく。
「クオンとシオンに限らず、月の民って奴らはどうも頭が緩い。任せた仕事はおろか、読み書きもろくにできねえ獣どもだ」
「あっ、おい! お前も月の民を悪く言うのか!」
俺は思わず、羽ペンを置いた。昨日街で見た、月の民をいじめる大地の民の様子を思い出す。フレイはクオンとシオンから懐かれているようだったが、こいつも他の大地の民と同じで、月の民を見下しているのか。
テーブルに手をついて威嚇する俺を、フレイが不思議そうに見る。
「ん? いや、悪く言うつもりはねえけど」
「言っただろ、頭が緩いとか、獣だとか!」
「それは悪口じゃない。事実だ。欠点かもしれねえが、俺はあいつら月の民の、そういうところがわりと好きだ」
しれっと言われて、俺は言葉を呑んだ。どうやらフレイは月の民を侮辱したのではなく、月の民の特徴として挙げたまでのようだ。
「いや、でも、それは月の民を傷つける言葉だろ」
「そうかもしれないが、昔からそういうもんだろ。……もしかしてお前、記憶喪失だから、そんなことも忘れてんのか?」
フレイは眉を寄せて、三白眼で俺を見据えた。
「月の民は月のエネルギーがないとまともに動けない体だし、その上、ぼんやりした性分の民族だ。これはもうお国柄というか、そういうもん。月のエネルギーが必要なくて地頭もいい大地の民とは、歴然たる差がある」
「あっ……だから役場の職員とか、月影読みは、月の都でも大地の民がやってるのか」
「そうだよ。役場や議会なんかの行政機関は、大地の民だけで回してる。常識だろ。それも頭から抜けてんのか?」
月の民と大地の民には、こうもはっきりと差があったのか。月の民は、大地の民よりも劣った民族として扱われている。鈍臭いのかもしれないけれど、生まれついた種族で差別を受けるというのは、気の毒だ。
フレイはフォローするように続けた。
「月の民は、見てのとおり従順で健気で、穏やかな人柄の連中だ。マイペースすぎて役に立たない奴らではあるが、愛想はいいから、大地の民の中にも月の民が好きな奴は結構多い」
「フレイも?」
「そりゃそうだろ。月の民が嫌いなら、わざわざこんなところの役場に勤めねえよ。俺みてえなのは、弱者を守るために存在してんだよ」
あっさり言われて、俺は少し拍子抜けした。フレイは姿勢を崩して、気だるそうに言った。
「ま、わざわざ月の都で月の民を雇って、いじめ抜いてるクズ経営者も存在するがな。そいつらを見つけて吊し上げて叩き潰すのも、俺たち役場の仕事だ」
フレイは月の民の、ちょっと抜けているところが好きで、彼らを守るためにこの仕事をしている。なんとなく、それが伝わってきた。クオンとシオンはフレイの気持ちを知っているから、彼を「とっても優しい」「正義の味方」などと形容するのだ。
思えば月影読みも、大地の民だ。月の民が健やかに暮らせるように、月のエネルギーを管理するその職務を、大地の民が担っている。月影読みのセレーネもきっと、月の民に愛情を持って接しているのだろう。
フレイがじろっと俺を睨む。
「て、そんなことも分からねえ奴が月影読みの代理って。あまりにも頼りねえな。月影読みは、仮にも大賢者の称号だぞ」
「仕方ないだろ、記憶がないんだから」
「記憶がないから、月影読みの仕事もなんにもできねえわけだよな。とはいえセレーネから託されて来たんだ、天文台にいる権利はある」
クオンとシオンのでっち上げを信じているフレイは、俺の前の書類を指さした。
「つうわけで、それにサインしろ」
「うん……えっと、どこに?」
俺は読めない文字の書類とにらめっこする。フレイは苛立った声で返した。
「はあ? 署名欄にだよ。書いてあるだろ」
サインを書くらしき空白を、指で指し示される。俺は羽ペンで、自分の知っている言語の文字で「桂城壱夜」と名前を書いた。
フレイは見慣れない文字にぎょっとしていたが、俺の学生証と同じ形の文字であるのを確認し、怪しみながらも受け入れた。
「とりあえず、これで受理しておく。この書類に書いてあるとおり、申告が虚偽だった場合、お前は火炙り水責めののち馬車で引きずり回して都市の外の無法地帯へ放り出す」
「えっ!? そんな契約!?」
全く文字を読めていなかった俺は、どっと汗をかいた。フレイが書類をひらひらさせる。
「そう書いてあるだろ! 分かってる上でサインしたんじゃねえのか」
「その、実は俺、字が読めない。見てのとおり、別の言語の文字を書くので……」
「大賢者の称号を取っておきながら、字が読めない……そういや、辺境の独立した文化の土地から来たっつったか」
フレイは一旦受け止めてから、怖い顔で言った。
「かつて、識字ができない盗賊のガキが、そういう言い訳でデタラメな字を書いて話を濁していた事案があった。お前やっぱり、セレーネに文書を書かせたふりをした、単なる賊か?」
「違う!」
勢い余って速攻否定したが、考えてみると、そうとも言い切れない。記憶がないから分からないだけで、もしかしたら俺は本当に、天文台に侵入した賊なのかもしれない。
フレイが強面を近づけ、俺の顔面に書類を突きつけた。
「貴様はこの書類にサインしたからな。賊だったら、火炙り水責めののち馬車で引きずり回して都市の外の無法地帯へ放り出す。その前に、ついでに原型なくなるまで殴る」
そして彼は椅子から立ち上がり、俺の座る椅子の脚を蹴る。
「話は終わりだ。さっさと帰れ」
月の民を愛する正義の味方なのかもしれないが、こいつの威圧的な態度はどうにも不愉快である。俺は精一杯フレイを睨み、役場を出た。
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