無責任
その後俺たちは、いくつかの買い物を済ませて、天文台へ戻ってきた。行きが下り坂だったから当然だが、帰りは上り坂である。高いところにある天文台は、森の木々から頭を突き出していて、遠目からでも目についた。
双子がキッチンで果物を煮ている。大きな鍋の下では、ゆらゆらと炎が燃えていた。
それを見ている俺に、シオンが言う。
「この火も、月のエネルギーで作ってるんだよ」
「へえ、なんでもできるんだな」
月の民は、月のエネルギーを取り入れることで、健康に暮らせるらしい。そのエネルギーを月の雫なる水に変えて、安定供給する機関が、ここ、天文台だ。
「……あれ? 月のエネルギーを吸収するのは、観測室にある望遠鏡なんだよな」
「うん」
クオンとシオンが頷く。俺は重ねて訊ねた。
「月のエネルギーを集められるのは、満月の夜」
「うん」
「それで、それを扱って、月の雫を作ってるのが月影読み……セレーネ」
「うん」
「そのセレーネは、もう五日も不在なのか?」
月の民たちの暮らしの必需品、月の雫を作っている月影読みは、相当偉大な職業なのだろう。月の民たちには、セレーネの存在が必要不可欠のはずだ。
クオンが苦笑いする。
「まあ、そのとおり……この前の満月の夜、すでにいなかったから、本来取っておかなきゃならなかったエネルギーも取れてないんだよね」
そうだ。俺がここで目を覚ました日、あの夜の月は満月だった。
「じゃあ、ひと月分、補充できてないってこと? 次の満月まで、足りなくなるぞ!?」
「だ、大丈夫! 満月の夜が曇ってた場合に備えて、取れるときに多めに取ってるから」
クオンがセレーネを庇う。俺はだんだん、セレーネなる人物に腹が立ってきた。
「そうかもしれないけど、在庫管理はセレーネの仕事なんだろ? そんな重要人物がふらっといなくなって帰ってこないなんて、無責任すぎないか? 捕まえて連れ戻してきた方がいいよ。連絡はつかないのか?」
「連絡? 無理だよ、どこにいるかも分からないのに」
シオンがあっさり答える。どうもこの月の都には、携帯電話などという便利なアイテムは存在しない。連絡手段自体、ないのだ。
「どこへ行ったのか、心当たりは?」
「分かんない。セレーネ様は、都の外までお出かけなさるから……。私たち、この月の民の領土の外は、なにも知らない」
「そうなのか。じゃ、都の外まで捜しにいってみるか?」
俺は記憶もないしやることもないので、時間だけはある。いずれにせよ、セレーネを捕まえないと事態が進展しないのだ。
しかしクオンもシオンも、青い顔で止めた。
「だめだよ! 外に出たら死んじゃうよ!」
「都の外は、人が住んでないから無法地帯なの。危険な野生生物もいるし、月の都からも大地の国からも追放されたならず者も彷徨いてる」
「イチヤくんが出ていったら、あっという間に野生生物の餌か、ならず者に身ぐるみ剥がされて奴隷商に売られちゃうよ」
クオンが愛らしい見た目にそぐわない怖い発言をする。俺はぞっとして、自身の身を腕に抱いた。
「怖……て、セレーネはそんな場所へ繰り出してんの?」
「月の都の安全を守るために、外の様子をしょっちゅう調査に行くの。それが放浪癖の原因だよ」
シオンが言い、クオンが付け足した。
「それ以外にも、セレーネ様は地位のあるお方だから、大地の国の王国議会にも出席なさる。もちろん、そういうときは、安全な馬車に乗っての移動だけどね」
「そうか。だから都の外に行ったかもしれなくて……」
途中まで納得して、俺は、眉を寄せた。
「じゃあセレーネはもしかしたら……調査のために都の外へ出て、何者かに襲われたんじゃ?」
危険な生物や追放されたならず者が彷徨う、無法地帯。地位のある立場であるセレーネが、そんな者たちに狙われた……その可能性は、充分にある。
途端に、クオンとシオンが耳をぴんと立てた。クオンがぶんぶんと首を横に振る。
「そんなはずないよ、セレーネ様に限って、そんな……」
「そうだよ、セレーネ様はセレーネ様だもの。でも……心配になってきた」
クオンに続いて強がるも、シオンも不安がっている。
万が一、本当にセレーネの身になにかあったのだとしたら。
月の都に供給される月の雫がなくなって、月の民は通常通りの生活を営めなくなる。ついでに俺は、記憶を戻す緒を失う。
無事に帰ってきてくれれば、それでいいのだが……。
クオンがふいに、顔を上げた。
「都の外まで捜しに行けないか、フレイに相談してみようか!」
「いいね! フレイなら助けてくれるよ!」
シオンもレードル片手に手を叩く。俺はその、初めて出てきた名前を繰り返した。
「フレイ?」
「うん、月の都の行政職員、正義の味方だよ」
クオンがにこっと笑うと、シオンも頷いた。
「とっても優しくってね、大地の民が威張らないように、月の民を守ってくれるんだ。この前なんてね、街の中で喧嘩してる人たちを見つけて、すぐに警備団が来るより早く解決してくれたんだよ!」
大地の民は威圧的な人が多く見られる。だが、フレイという人物は、月の民の子供でもあるクオンとシオンに懐かれているようだ。クオンとシオンが先程、怖くない大地の民もいるのだと話していた。まさにフレイは、それに該当する温厚な大地の民なのだろう。
と、そのとき、外からドンドンと扉を叩く音がした。クオンとシオンが尻尾を立てる。
「あっ、誰か来た。セレーネ様が帰ってきたのかな」
クオンが火にかけた鍋と音の方向をキョロキョロする。シオンも、別の鍋の中をグツグツ煮立たせて、手にレードルを持っていた。
「待ってえ、今、手が離せない」
「俺、行ってくるよ」
特になにもできていない俺が、エントランスへ向かう。木製の扉が、叩かれるたびにギシギシ呻いている。外からは男の声がした。
「クオン、シオン。いるかー?」
この声の主がセレーネなのだろうか。扉を押し開けると、外に立っていたその男の全容が見えた。
白い軍服に赤い腕章、薄茶色の短髪。身長は二メートル近いと思われる。鍛え上げられた肉体は、先程市場で見た騎士よりも、さらにゴツい。
彼は俺を見るなり、口を半開きにした。
「は? 誰だてめえ」
「えっ、えーと……」
誰だと問われて、記憶喪失の俺は咄嗟に答えられない。いや、そうでなくても、この状況を上手く説明するのは難しい。
俺が固まっているうちに、キッチンにいたクオンが飛び出してきた。
「イチヤくーん! やっぱりお出迎えしなくていいよ。フレイだと厄介だから、どこかに隠れ……あーっ!」
クオンが一気に加速してきて、俺と巨漢の前に飛び込む。そして小さい体で通せんぼして、俺を隠そうとした。
「フレイだー! イチヤくん、隠れて隠れてー!」
「いや、どう考えてももう遅いだろ」
そう言ったのは、軍服の巨漢である。彼は鋭い三白眼で、俺を睨んだ。
「セレーネが帰ってきたかどうか、確認しに来てみれば……この小僧はどこのどいつだ。説明しやがれ」
「あっ、えっと」
俺は半ばビビりながら、頭を下げた。
「俺……気がついたらここにいて、この子たちに助けてもらった者で……」
「嘘をつくならもう少しまともな嘘をつけ、このクソガキ」
男の低い声が、俺を威嚇する。頬には十センチほどはある刀傷の痕があり、眉間には皺が癖づいている。鋭い眼光を突き刺されると、迫力に圧倒されて足が動かなくなる。
「さしずめセレーネ不在の隙に侵入した、盗賊のガキといったところか」
「へ? え、え?」
「双子の頭の緩さを利用して、こいつらに付け入ったか。血祭りにあげるぞコラ」
この人物が、フレイなのか。
とっても優しいと紹介される、クオンとシオンが慕う人物なのか。今まで見てきた大地の民の誰より威圧的というか、もはやアンダーグラウンドな人間の香りすらするのだが。
クオンが俺の袖を引っ張った。
「イチヤくん、見つかっちゃった……でも大丈夫。フレイは優しい人だよ。この前街で起こった喧嘩、警備団より早く止めたんだよ。拳で!」
想像していた人物像とは、だいぶかけ離れていた。
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