Ⅱ.月の都

 その二日後が、冒頭の朝である。今日は初めて、天文台の外――月の都の街へ出かける。柔らかな日が差している。ハーブのような爽やかな香りの風が吹き、小鳥の歌う声がする。木洩れ日の下り坂を、黒と白の双子の少女が、籠を抱えて先導し、駆け抜けていく。ふさふさの尻尾が揺れている。拍子抜けするほど、のどかな景色だ。

 眩しい朝の光を見上げて、目を細める。


 あのあと俺は、クオンとシオンに案内され、天文台の一室を与えられた。四畳ほどの広さの、寝室である。やけに寝心地のいいベッドと、壁沿いに机と椅子が配置され、あとは小さめのクローゼットがある。部屋の奥の壁には、濃紺のカーテンがかかった窓が嵌っていた。


 俺は階段から転げ落ちた打撲で全身が痛む上に、訳の分からない状況に巻き込まれて、心身ともに疲れていた。部屋を貰うと、クオンとシオンがいなくなるなり、室内をろくに調べず、ベッドになだれ込んで爆睡してしまった。


 石畳の道を、クオンとシオンが歩いていく。俺はもう一度、後ろを振り返った。自分たちが昨日までいた建物――天文台が、どっしりと、そして凛として佇んでいる。

 天文台は、三階建ての塔である。

 俺が最初に目を覚ました、あの望遠鏡のある観測室は、この塔の最上階にある。そこから出て螺旋階段を下った、二階。その北側に、俺の部屋は用意された。


 昨日は一日、クオンとシオンに天文台の中を案内してもらった。

 廊下は観測室と同じ、紺色のカーペットが敷かれている。壁はクリーム色で、肘の高さに金色の模様が描かれていた。クオンとシオンが丁寧に掃除をしているのだろう、埃が全くない。床と同じ紺色の天井には、丸い照明がぷかぷか浮かんでいた。


 俺は相変わらず、自分に関する記憶がない。でも、この「天文台」が、俺の知っている天文台とは違うというのは、漠然と感じていた。

 観測室の下である二階は、天体観測のための施設というより、ホテルに近い。中心の柱をぐるりと囲む形で廊下が設置され、外側に向かっていくつかの個室が並んでいる。そのうちひとつが、クオンとシオンが一緒に住んでいる部屋なのだそうだ。


 一階にはソファとテーブルのある談話室らしき広間と、キッチンとダイニングがある。ダイニングには白い四角いテーブルと、三人分の椅子が並んでいる。クオンとシオン、そして、セレーネの椅子だ。


 そう、セレーネ。あれから丸一日経っても、セレーネは帰ってこない。


「あの、セレーネ様? だっけ。いつ帰ってくるの?」


 先を急ぐ双子に向かって、俺は訊ねた。クオンとシオンが振り返る。


「うーん。ねえ。いつだろうね」


「あの人は放浪癖があるから……。それにしても、今回はちょっと、長引いてるね」


 脳天気に返すクオンと、少し考えて不安げな顔をするシオン。ふたりはそっくりだが、性格は結構、似ているようで似ていない。


 クオンは楽観的で衝動的で、天真爛漫である。一方でシオンは落ち着いていて、勢い任せのクオンのブレーキ係になっている。クオンは俺に薬を塗ろうとして予告もなく服を脱がすような性格だが、シオンはそれを見てちょっと照れる奥ゆかしさがある。うまいことバランスを取っているものだ。


 天文台は、木々に囲まれた小高い丘の上に建っているらしい。街へ向かう道程は、緩い下り坂が続いている。


 ふたりの背中に追いついて、俺は手に持っていた買い物メモを見た。だが、なんと書いてあるのかチンプンカンプンである。どうも俺は、ここで使われている文字が読めないらしい。そういえばクオンとシオンは、俺には読めた学生証の字が読めなかったようだし、俺がふたりの使う文字が分からなくても、不思議ではない。


「今日は市場に、なにを買いに行くんだ?」


 メモが読めないので、直接訊ねる。クオンが頭上の木の葉を見上げて言った。


「いっぱいあるよ。まずイチヤくんの着替えを買い足したいでしょ。それから日用品も買わないと」


 昨日と今日、俺はクオンが用意してくれた服に着替えた。俺が着ていた学生服の印象なのか、似たような雰囲気の服を選んできてくれている。

 真新しいワイシャツに着替えた俺は、リボンタイだけ、元からつけていた制服のものを結んだ。なにも思い出せない自分だけれど、なにかひとつくらい、自分のものを身に着けておきたい……という、ちょっとしたお守りのような感覚である。


 シオンが付け足す。


「それと、食材も買い足すよ。イチヤくんでも食べやすいもの、探してみよう」


 これはありがたい心遣いだ。

 見たことのない異形の生物の姿が垣間見える奇怪な料理は、俺にはまだ早い。


「でも、ちゃんと全部食べただろ」


「うん。けど、あんまり好きではないでしょ」


「……ごめんなさい」


 助けてもらって食事まで作ってもらっておいて、わがままは承知である。しかし甲斐甲斐しい双子たちは、俺のわがままにも付き合ってくれる。

 クオンが楽しそうに、シオンに提案した。


「肉類が怖いなら、木の実ならどうかな?」


「そうだね。あとは果物とか、野菜も」


 シオンもほわっと微笑む。俺はふたりに、改めてお礼を言った。


「わがまま言ってごめん。急に現れてしかも記憶喪失なんていう厄介な存在に、優しくしてくれてありがとな」


「当然だよー! 記憶喪失で困ってるのに、放ってなんておけないでしょ!」


 クオンの大声が森に響く。シオンもくすくすと笑う。


「そうだよ、当たり前のことなんだから、気にしないで」


 それからふたりは顔を見合わせ、苦笑した。


「わがまま……というか、大変なのは、セレーネ様の方がよっぽど大変だし。そういうところも好きなんだけど」


「イチヤくんは、セレーネ様に比べたらすごく大人しいよね。遠慮してるのかなって心配になるくらい」


 どうやらセレーネ様とやらは、なかなか奔放な人のようだ……何日も放浪して帰ってきていない時点で、相当な自由人とお見受けするが。

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