覚悟
しばらくすると、クオンが盆に皿を載せて戻ってきた。彼女が持ってきたそれを目にするなり、俺はびくっと身をよじる。
「わっ……なにこれ」
木製の皿が三つ、その上にはパンとスープとサラダ。……らしきもの。パンはやけに緑っぽいし、スープからは鳥と思しき頭が飛び出していたし、サラダには虫っぽい足が見えた。
クオンがきょとんとする。
「なにを驚いてるの? これ、セレーネ様の大好物ばかりのメニューだよ。全部おいしいよ」
シオンが膝を抱いて、頬杖をついた。
「イチヤくん、もしかして食べ物に関する記憶もないのかな。毒じゃないから、安心して」
俺はシオンを横目に見て、クオンのニコニコ顔を窺って、また盆の上の怪しい食事に目を落とした。食べ物の記憶がない、わけではないと思う。パンやスープというものを連想できるから、その記憶は残っているはずだ。ただ、目の前にある食事に関しては、見たことのないものである。
一瞬、クオンとシオンが口にしていた、「異世界から来た」という仮説が脳裏を過る。
まさかとは思うが、この世界において「おいしそう」とされるものが、俺にとっては「おいしくなさそう」なのだ。やはり俺はこの世界の人間ではないのかもしれない……と、考えられなくもない。
俺はクオンが差し出す盆を受け取り、膝に載せた。いちばん抵抗のない緑のパンを手にとる。メロンパンやヨモギのパンの比ではない、青みがかった毒々しい色だ。
俺はパンをひと口分ちぎって、口の前で止めた。
「クオンとシオンは、“月の民”なんだっけか」
「そうだよ。イチヤくんは、“大地の民”だね」
クオンに言われ、俺ははあ、とため息みたいな返事をした。
「そうなのか?」
「そっか、それも自覚ないんだ。あのね、月の民っていうのは、私たちみたくこういう耳をしてるの」
クオンが手のひらを掲げ、三角の耳に添えた。その獣のような耳と尻尾が、“月の民”の証らしい。
続いてシオンが、俺の顔の辺りに手を伸ばす。
「“大地の民”は、耳の形がこう、イチヤくんのような感じ」
指を差された俺の耳は、人間の耳である。もちろん、尻尾もない。クオンが虚空を仰ぐ。
「大地の民はいいよねえ。尻尾がないから、服に尻尾用のボタンなくてもいいし……あっ、そうだ! イチヤくん、ここで暮らすなら着替えを用意しないと!」
喋りながら思い立って、クオンが再び立ち上がる。ぱたぱた走って、観測室を飛び出していった。俺の隣りにいたシオンも、同じくハッとして立つ。
「お部屋の準備もしないと。余ってる部屋があるから、私、ベッドをきれいにしてくる」
彼女も俺を置き去りにして、白いふわふわの尻尾を揺らして、部屋を出ていってしまった。
ひとり残された俺は、しばし下を向いて、まずそうな食事を眺めていた。
自分に関する記憶がない。鍵を握る人物らしきセレーネは、不在中……。
いや、これは夢だ。夢であってくれ。
頭を振って、パンを口に入れる。見た目に反して、味は普通だった。
それから俺は、自身の服のポケットに手を入れた。生徒手帳や学生証があったように、他にもなにか、俺自身に関する手がかりがあるかもしれない。
学生服らしきズボンのポケットに、携帯が入っていた。書き込まれているプロフィールによると、やはり俺は「桂城壱夜」で、十六歳の高校生らしい。ギャラリーを見れば、写真からなにか思い出すかもと思ったのだが、やはりなにも引っかからなかった。友人らしき人の写真があるのに、顔を見ても誰がか思い出せない。携帯の操作の仕方は分かるのに、不思議だ。
アドレス帳には知人の名前が並んでいる。誰かに連絡してみようかと思ったが、画面上部に表示された「圏外」の文字を見て瞬時に諦める。
他になにかないか、と、またポケットを探る。と、ブレザーのポケットに、飴玉が三つ入っていた。自分がこういうものを持ち歩く人間だったのは分かったが、だからといって、それがなにかに結びつくわけではなかった。
真横にあった階段に目をやる。
ガラスの天井に向かって伸びる、白い階段。いちばん上には柵で囲まれた円形の空間があり、そこに置かれた望遠鏡は、空の彼方を見上げるようにして角度をつけていた。俺は食事の載った盆を持ち、腰を上げた。
一段ずつ、階段を上ってみる。段差は緩やかで、やけに歩幅が小さく感じた。一歩ずつ、一歩ずつ、進めば進むだけ階段の上の望遠鏡の姿が見えてくる。円のステージの上には、望遠鏡だけでなく、大量に積まれた本や散らばった紙なんかも見て取れた。
階段を上り切る。その全容を見るなり、俺はおお、と感嘆した。
望遠鏡を囲んで、俺の腰の高さ程まで積まれた本の山。全部で百冊はあるのではないだろうか。
それらを避けるようにして、木製の机と椅子が肩身狭そうに置かれている。机の上にはぽかんと浮かぶ、光る球体がある。位置的に机用の照明だと思われるが、電源らしきものがないしコードもない。重力を無視して浮かんでいるから殊更不思議だ。
浮遊する照明に照らされて、机の上には青白い羽毛の羽ペンとカラフルなインク、それらでなにか書かれたざらついた紙が雑多に放置されていた。紙の中には、俺の知らない言語でなにやら文字や計算式がびっしり走り書きされている。これを書いたのはきっと、いや、間違いなく、月影読み・セレーネだ。
月影読みはこの望遠鏡から月を眺め、その力を文書に起こしていたのだろう。
机上の紙を少しだけ避けて、空いたスペースに盆を置いた。望遠鏡の鏡筒に、そろりと触れてみる。
パールホワイトの鏡筒には、金色で月の模様が描かれている。よく磨かれた金の三脚が円形の床に固定され、架台には同じく金色の、舵のような丸いのハンドルがついていた。その周りには、細かい歯車や引き金のようなものがごちゃごちゃとついていて、なにがなんだか分からない。
ファインダーから細い鎖が垂れ下がり、架台や鏡筒の下部、三脚へと絡みついている。鎖にはところどころに、星屑のように青や白や金色の鉱石がぶら下がっていて、まるで宝石のネックレスで着飾っているみたいだった。
そうっと接眼レンズを覗き込んでみる。だが、ピントが調整されていないようで、筒の向こうは真っ暗だった。
望遠鏡から顔を離し、首を凭れた。真上にはドーム状のガラスの天井がある。そしてその先には、塗り潰されたような濃紺の空と、青白い満月。
なんてきれいなのだろう。心を持っていかれる。一瞬だけ、ここがどこで自分が誰なのか、いろんなことがどうでもよくなった。
多分これは夢だ。現実世界の俺は深く眠って、深層心理の中のファンタジー世界の夢を見ているのだ。
仮に、これが夢ではなかったとしたら……。それはそれで、このまま生きてみようか。
やる気に満ちているわけではない。ただ、その場その場の流れに逆らうことができないだけだ。
後ろを振り向くと、机の上に置いた盆が目に入った。クオンが持ってきてくれた食事が、まだ残っている。
パンをちぎって、スープにちょんとつけてみる。ひと呼吸置いて、覚悟を決めてから、俺はそれを口に詰め込んだ。
「……まっず」
俺はポケットから飴をひとつ取り出して、個包装を剥いた。食事を食べきったら、この飴を舐めようと思う。多分、慣れ親しんだ味がするはずだ。
煌々とした満月が、空の闇を支配する夜。
青白い月に見下ろされて、俺はこの世界で、しばらくだけ生きていこうと決めた。
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