記憶喪失の少年が、異世界でケモミミ双子と一緒に大賢者を捜す話
植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売
Ⅰ.満月の夜
記憶喪失
よく晴れた明るい空に、白い点のような月が浮かんでいる。透けた葉の隙間から日が差して、木漏れ日が乾いた道に模様を描く。
俺は背後の、レンガ造りの塔――天文台を振り返った。
美しい淡い翡翠色の塔が、空に向かって高く佇んでいる。真っ直ぐ伸びた屋根には、黄金色の鉱石が煌めく。
惚ける俺の背中に、ふたり分の少女の声が飛んできた。
「イチヤくん! 早く早く!」
「イチヤくーん」
振り返ると、道の先で、そっくりな顔をしたふたりの女の子たちが俺を呼んでいた。
「市場にお買い物に行くよー!」
手をぶんぶん振って呼ぶ、黒髪に黒い獣の三角耳の、元気いっぱいの女の子。
その隣には、白い髪に白い獣の耳。おっとりした表情の彼女が、手をメガホンみたいに口の横に添えて、俺を招く。
「クオンがはしゃいじゃってる。置いてかれちゃうよ」
それから白い頭がくるりと、顔を横に向けた。
「ところでクオン。お買い物メモ、持ってる?」
「え? 持ってない。シオンが持ってたんじゃないの?」
顔を見合わせるふたりを見て、俺は苦笑した。ブレザーのポケットから、メモを取り出す。
「クオンが落としたの、俺が拾って持ってるよ」
「なんだあ、よかった」
クオンが笑い、シオンもほっとした顔になる。そしてふたりは、俺に手を差し出した。
「行こ、イチヤくん!」
「行こ、イチヤくん」
声が同時に重なる。こういう息ぴったりなところを見ると、「やっぱり双子だなあ」と思う。
この世界――アルカディアナは、月が支配する世界である。黒髪のクオンと白髪のシオンは、この世界に生きる「月の民」の双子の少女だ。
一方俺はというと――つきとじ区立中央高等学院二年生、
らしいというのは、自分のポケットに入っていた学生証に、そう書いてあったから。
多分俺は、この世界の人間ではないのだと思う。
生憎、ここに来るまでの記憶が一切ないのだけれど。
そんな俺がここで、獣耳の双子と一緒にいる理由は、二日前に遡る。
あの夜は、煌々とした満月が、空の闇を支配していた。
*
その日、目が覚めて最初に目に入ったのは、ガラス張りの天井の向こうに見えた、白い満月だった。
青白くてまん丸で、夜空にぽっかり、穴が空いているみたいに見える。
遠い月を見上げて、ぼうっと考える。ここはどこだろう。全身がバキバキに痛む。どこからか落ちたのだろうか。
なにやら硬い床の上に仰向けで寝そべっているけれど……。
寝起きの微睡みが徐々に引いてきて、頭がはっきりしてきた。がばっと上体を起こし、俺は目をぱちくりさせて、辺りを見渡した。
濃紺の壁に囲まれた、だだっ広い室内。天井はガラス張りだ。向こうの夜空と月が見える。床には壁と同じく深い紺色のカーペットが敷かれ、俺の真横には白い階段があった。階段の先を視線で追うと、望遠鏡が置かれているのが確認できる。白地に金色の模様が入った、天体望遠鏡だ。
目線を下げて、自分の体を確認する。白いワイシャツに、赤いリボンタイ。紺色のブレザー、茶色いチェック柄のズボン、ローファー。
「あ! 起きてる!」
その声は、背後から聞こえた。びくっとしながら振り返ると、そこにふたりの少女が立っていた。
「よかったあ、死んじゃったかと思ったよー」
無邪気に目を見開く黒髪の少女と。
「びっくりしたね。気がついてよかった」
薬箱らしき箱を抱えた、白い髪の少女。
十歳前後くらいだろうか。大きな瞳の、かわいらしい少女たちである。ふたりとも、頭からぴょこんと狼のような三角の耳が生えていた。ふんわりと広がるスカートの裾からは、それぞれの耳と同じ色をした、ふわっふわの毛並みの尻尾が垂れている。
しばし俺は、唖然としてふたりを見上げていた。少女たちの顔は、コピペかと思うくらいに瓜ふたつである。ただ、髪の色とそこから伸びた獣耳は、真っ黒と真っ白で百八十度違う。
瞳の色は、ふたりとも片目ずつ青色と金色をしていた。ただし、黒の少女は左目が青で右目が金、白の少女は左が金で右が青。お互い鏡に映っているかのように、左右の色が逆なのだ。
そんな少女たちが、寝そべっている俺の方へと駆けてくる。
「おにいさん、おにいさん。お名前なんていうの? どこから来たの?」
黒髪の方が床に膝をつき、俺の顔を覗き込む。俺はしばし、えっと、と回らない頭で考えた。
「ここは……どこ?」
質問には答えず、疑問で返してしまった。ふたりの少女たちは顔を見合わせ、それから白い方が答えた。
「天文台。アルカディアナの、月の都だよ」
「あ、アルカディアナ? 月の都?」
まだ事態が呑み込めない俺に、黒い少女が明るい声で言う。
「そうそう! ここはその天文台の、観測室だよー!」
黒い髪から伸びる黒い三角耳が、ぴくぴく動いている。フリルのたっぷりついた黒いドレスを着て、胸には三日月を象ったブローチをつけていた。スカートの裾からは、黒い尻尾がふんわりと伸びている。
反対側の隣を見ると、白い少女が薬箱を床に置いて、俺を見ていた。こちらも、黒の少女とお揃いの白いドレス姿で、胸に同じブローチがある。いや、よく見たらモチーフの月の向きが逆だ。三日月とは反対の、新月に向かう月。暁月だ。
「痛いところ、ある?」
たどたどしく声をかけてくる。俺はぽかんと口を開けて、小さく頷いた。
「なんか……全身?」
「そうだよね。あの階段のてっぺんから転げ落ちたんだもの」
白い少女はちらりと、傍の階段を一瞥した。望遠鏡がある階段のてっぺんから、今俺が寝そべっている床まで、三メートルくらいはあるだろう。
今度は黒い方が、俺に呼びかけた。
「私、クオン。こっちの白いのはシオン。私たち、双子なの」
紹介されて、俺は黒と白の少女たち、クオンとシオンをそれぞれ見比べた。鏡みたいにそっくりだと思ったら、双子だったのか。
「へえ……」
これはどういうことだろう。アルカディアナとか月の都とか、この子たちの名前とか、聞いたところでなにも分からない。この場所はどこで、このコスプレ娘たちはなんなのだ。
でも、分からないのはどうやら、この少女たちも同じのようだ。
「それで、君の名前は?」
問われて俺は、数秒考えた。
しかし、自分の名前を思い出せない。
「あれっ……俺、誰?」
「えっ?」
双子が同時に眼を瞠る。そして同時に、前のめりになった。
「なになに、名前が分からないの?」
「えっと、それじゃ、どこから来たの?」
重ねて訊ねられ、やはり分からなかった。
自分は誰なのか、どこから来たのか、ここまでの記憶が全くない。
「分かんない……俺は一体……?」
数秒の沈黙があった。少女たちも困惑して、言葉をなくしている。俺は回らない頭を抱えて、彼女たちに訊ねた。
「俺、いつからここにいた?」
「うーん、私たちが気づいたのは、さっきだよね」
クオンがシオンに言い、シオンが頷く。
「観測室の床を掃除してたら、急にガタガタガターッて音がして。振り返ったらあなたがあの階段のてっぺんから落っこちてきてたの」
「そうそう。それで床にぺちゃっと潰れたまま起きないから、私たち、お薬持ってきたの」
クオンがシオンの手元の薬箱を指差す。俺は耳を疑った。
「突然降ってきたってこと? 天井から?」
「うーん……天井のガラスは開かないはずだから、どこから入ってきたのかは分かんないけど……」
シオンは首を傾げ、薬箱を開けた。中には薬草らしき草や、それを粉にしたような薬品の瓶が並んでいる。クオンがシオンと逆向きに首を傾けた。
「実は私たちがこの観測室に入ってくる前から、君はあの望遠鏡のとこに潜んでたのかな?」
「それはないよ。だって扉の鍵は閉まってたでしょ」
クオンの言葉にシオンが返して、クオンは一層首を捻った。
「あれえ。そっかあ。じゃあどこから現れたの?」
「どこから……」
それも、分からない。自分のことなのに、目を覚ますより前の記憶が、全く残っていない。
俺は呆然としたのち、自身の体をはたいた。どこかしらに身分証になりうるものはないだろうか。せめて、自分の名前が分かるもの。
すると着ていたブレザーの内ポケットから、生徒手帳が出てきた。顔写真入りの学生証が挟まっており、そこに名前も生年月日も記されている。
「桂城、壱夜」
どうやらそれが、俺の名前らしい。
生年月日から計算すると、俺の年齢は十六歳。この学生証が示す学校に通う、高校二年生だそうだ。全く記憶にないけれど。
俺の手元の学生証を、双子が覗き込む。そして同時に、わっと声を上げた。
「なにこれ、見たことない文字!」
「なんて書いてあるのか、さっぱり読めない」
「えっ、そうなのか」
記憶がないくせに、俺には学生証の字は読めた。自分に関する記憶はないが、世の中の知識は消えていないらしい。
クオンとシオンは顔を見合わせ、やがてシオンが、首を傾げた。
「イチヤくん、こことは違う文字を使う場所から来たのかな」
「違う文字……遠くの国とか?」
クオンが繰り返す。シオンは難しい顔で頷いた。
「うん。もしくは、異世界とか!」
「異世界!?」
思わず俺も、反復する。
なにを、言っているのだろう。
俺は目を見開いて、呆然としていた。頭上には、コンパスで描いたような満月。
クオンとシオンは、同時に俺に顔を向けた。
「どこか遠い場所からやってきて……」
「どこから来たかも、自分が誰なのかも、記憶がないの?」
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