第9話 隣国の王太子夫妻がやってくる?(他)

「やっと会えるわ。わたくし、凄く楽しみにしていたの」


 飴玉を転がしたような甘い声。まだ年端もいかないような見た目の少女は囁いた。


 アルヴォネン王国の王都から離れた森の中。キルシュライト王国への国境付近をその一行は進んでいた。

 カタンカタン、と規則正しい軽快な音を立てて馬車は走る。見た目も豪華な馬車だが、大勢の護衛達がその馬車を取り囲んでいる所からして――ただの貴族の行進ではなかった。


 馬車の中の少女は、ベルベット生地の柔らかいクッションにしどけなく座っていた。


 煌めく銀髪は宝石と共に複雑な形に結われている。髪と同色のまつ毛は長く、薄氷色の瞳はうっとりと細められていた。


「僕だって楽しみにしていたんだ。なにもティーナだけじゃない」


 妖精のような見た目の少女に、向かいに座る青年は頷いた。夜の闇を切り取った黒髪は項でひとつに括っている。アメジストのような瞳は、少年のようにキラキラと輝いていた。


「んもう、わたくしの方が楽しみにしていたんですもの!」


 頬を膨らませた少女は白魚のような華奢な手で、手元の遠眼鏡を弄り倒す。複雑な模様と金箔が押された遠眼鏡を、カチカチと伸ばしたり縮めたりしている少女に青年は問い掛ける。


の姿は未だに見えないのかい?」

「ええ。全く見えませんの」


 キルシュライト王国首都キルシュ――そちらのある方角へと少女は遠眼鏡を向けてみる。いつもと変わらず、王都が映るのみで王城は遠眼鏡に映らなかった。


 少女も期待していなかったようで、アッサリ目を離して遠眼鏡を縮める。手持ち無沙汰だったので、暇潰しに弄っているような雰囲気だった。


「やはり、特殊な結界をどうにかしなければいけないみたいだね」

「本当に面倒臭い結界ですわね」


 ほんの少し苛立たしげに少女は眉を寄せる。青年は苦笑を浮かべた。


「流石、キルシュライト王国ってとこかな。大国の王城の警備が甘いだなんて思っていないけど、確かに面倒臭いよね」

「でも、ルーカス?わたくし達はここで諦めてはいけないわ?」

「勿論だよ」


 クスリと上品に微笑んだ青年の隣へ、少女はニコリと笑い返して座る。そしてそのまま青年へとしなだれかかった。


「キルシュライトの王太子がに求婚するなんて、誰も夢にも思わなかったのよ。わたくし達の邪魔をしないで欲しかったわ」

自身魅力的だけれど、何よりその能力も傾国の美女に相応しいものじゃないか。キルシュライトの王太子が惑わされるのも無理はないよ」

「ええ。そうだわ」


 妖精のような見た目で、婀娜っぽい表情を見せる少女。少女の無言の誘いに釣られて、青年は少女を自身へと引き寄せる。


「二年だ……二年以上掛かった。やっとこれで一歩目だよ。ティーナ」

「ええ。やっとここまで来たわ」


 しみじみと呟いた青年は、少女の頬に唇を寄せてキスを一つ落とす。

 規則正しい音を立てて、少女と青年を乗せた馬車は目的の場所へと向かっていた――。




 ーーーーーーーーーーーーー

 ーーーーーーーー




 月明かりが辺りを照らしていた。どこからか虫の音が聞こえる。

 コツ、と靴音を響かせて貴族子息の格好をした小柄な人物は、とある場所で立ち止まった。


 栗色の瞳の向かう先は、塀。人の背丈よりも高いそれは、まだまだ建てられたばかりで白かった。


「ヴァーレリー?どうしたんだ?こんな遅くに」

「……イーヴォ」


 その人の存在に気付いたのは、赤髪の青年。がっしりとした体格で、一目見ただけで筋肉が程よく付いているのが分かる。


 騎士の中でエリート中のエリート。近衛騎士の制服に身を包んだイーヴォは、自身の得物である短槍を肩に担いでいた。


「眠らなくていいのか?ここんとこ、毎日奥方様に付き従っているんだろ?」

「少しだけ。ちゃんと状況を把握したら寝るつもり」


 黒いローブを頭から被った人間が、塀の周りに数人張り付いている。《魔灯ライト》で照らされている塀をしきりに点検していた。


「真面目だなあ」と呆れ半分、感心半分で呟いた青年の元に黒いローブを着た者が一人、近づいてくる。


「報告致します」

「おう」

「結界の一部が少々緩んでおりました。度重なる外部からの偵察によるものかと思われます。王城の方もよくこの状態になりますし、定期点検の合格基準内です。今日は補強し直しております。しばらくは大丈夫かと」

「分かった。夜遅くまですまねぇな。ローデリヒ殿下も魔法騎士団長にも給料出すように言っておく、との仰せだ。ありがとな」

「はっ」


 黒いローブの集団は、役目は終わったとばかりにさっさと王城へと引き上げていく。イーヴォはヴァーレリーに向き直った。


「……って事だ。アルヴォネンの王太子夫妻がこちらにやって来るって事で、殿下が少し神経質になってるだけだろ。ヴァーレリーも早く寝ろよ」

「殿下はアルヴォネンの王太子夫妻と奥方様を会わせるつもり?」

「……現状、会わせないってのは難しいかもなあ。自分の国の人間の嫁ぎ先が下位貴族なら、王太子夫妻の歯牙にも掛けないだろうが、上位貴族からは気にするだろ。王族に嫁いだなら尚更じゃねえの?」


 イーヴォは一息ついて、悲しそうな、痛むような顔をする。


「でも、殿下の内心的には会わせたくはないんだろうなあ。だってさ、散々奥方様をコケにした国の人間だぜ?そんなの会わせたくないに決まってるだろ」

「イーヴォはこのままでいいと思ってるの?」


 サラリと、栗色の髪が揺れた。可憐な容貌がイーヴォに向けられる。

 身長差で自然と上目遣いになったヴァーレリーの姿に、イーヴォはゾクリと背筋に震えが走った。


「このまま……って?」


 訳が分からない。けれど、イーヴォは蜘蛛の巣に絡め取られる羽虫のような感覚に襲われていた。


「奥方様に関わるから、ローデリヒ殿下は傷付いてばかり。無駄に思い悩んで、無駄に傷付いてる。

 奥方様がアリサ様でなければ――あの人はもっと幸せになれたんじゃないかって私は思う」


 イーヴォは無意識に張り詰めていた息を吐いた。

 そしてヴァーレリーの言い分に苦笑いをする。


 そりゃそうだ。確かにローデリヒは無駄に思い悩んで、無駄に傷付いてる、それは一番近くで昔から仕えているイーヴォが一番よく分かっていた。


「……まあ、そうだなあ。でもそれが恋ってやつだぜ?肝心の殿下本人は自覚なさそうだけど」


 そして目の前のヴァーレリーが、その気持ちを分かっていないという事に少々落胆する。


「でも殿下は政略結婚って……」

「あんまり政治面は詳しくねぇけど、キルシュライト王国は大国だし、決して小さくないとはいえ、隣国の公爵令嬢だぞ?王族ならまだ分かるが、あんまり政略的には価値はねぇんじゃねの?

 それに、結婚相手に奥方様を指名したのは殿下だぞ?」

「……た、確かに……」


 目をぱちくりとさせるヴァーレリーに可愛いな、と気の抜ける感想を抱きつつ、イーヴォは塀を見上げた。


「でもまあ……、奥方様にとってこの世界は生きにくいだろうな、とは思うけどな」


 王城の敷地内にありながら、王城から隔離された場所。離宮とはまた違い、高い塀に囲まれてその屋敷は立っている。


 牢獄のように堅牢でありながら、俗世からまるで遮蔽されるかのようだった。


「……それで?俺の可愛い可愛いヴァーレリーちゃんは俺の事で思い悩んだり、傷付いたりしない?するよな?」


 気を取り直すかのようにパッと明るい表情をして、イーヴォはヴァーレリーの肩に手を回す。そんなイーヴォをヴァーレリーはバッサリ斬り捨てた。


「全く」

「全く?!ちっとも?!酷くね?!俺ってば一応婚約者なのになんで?!」

「鬱陶しい」

「ええーっ!ひど……」


 ガックリ落ち込むイーヴォと馬鹿を見るような目でそれを見るヴァーレリー。


 その婚約者同士のつかの間の逢瀬を、意図せず見てしまった大きな猫は深々と溜め息をついた。

 アホらしいものを見てしまった、と言わんばかりに。

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