第9話 トモガラ
「俺はそんなことはしねぇよ。俺が持っているのはシミュレーションと願望だ」
鉄柵を握ると、体を引っ張り上げて立ち上がる。肘をつけて里香に背を向けた。
「ここはいい場所だぜ。いくら都会とはいえ、高い場所は空気がいい。非常階段はいつだって開いているし、気晴らしに来るくらいなら丁度いい。そのうち浮浪者の溜まりでもなっちまいそうだけどな」
「あたしにはあんたがそれに見えるけど」
里香は男の見てくれから、少し軽蔑的に言った。確かに紳士には見えない。特質してあげる箇所は無いが、洋服全体がくすんだ色をしている。着ていたパーカーもかなりよれていて、着古されていた。
「おいおい、こんな俺にだって住む場所くらいあるんだぜ。もしかして俺臭かったりする?」
男は脇腹に鼻を近づけ、自分の体臭を確かめた。
「大丈夫、嗅ごうとは思わないわ」
里香の辛辣な一言に苦笑いを浮かべると、再び屋上に広がる景色を眺めた。
「ここ、俺の逃げ場所なんだ。でも人生からは逃げられねぇ。やることをやらずに逃げたら俺は一生卑怯者だ。でもそんな時に思うんだ。このままここから飛び降りたらどんなに楽だろうか。なんてな」
ビル風が唐突に吹き、里香のワンピースの裾を激しくなびかせた。その風と同時に男は振り返り、髪の毛をかき上げる。
「なんか変なこと言っちまったな。そういやあんたの目的を聞いてなかった。ただ単に自殺を止めるために来た偽善者っていうわけじゃないんだろ」
男は目の下をぴくぴくと動かした。
「まぁそうね。あたしも同じことを考えていた時期があったからよく分かるわ」
先ほどまでの冷たい声から一変した。男は里香の済んだ瞳を見つめたまま、目を動かさなかった。
「あなたの身に何が起こったのか。何を抱えているのかは知らない。でもどちらにせよあなたにとっていい話があるわ」
男は目を細める。
「俺にとっていい話? 胡散臭いのは勘弁だぜ」
「そう言われると少し言いづらいけれど……その願望、本当に叶えてくれる人がいると言ったら?」
「どういうことだ?」
「存在を無かったことに。この世に元からいなかったことに出来る方法がある」
「何を馬鹿なことを言ってやがる。存在を無かったことにする? じゃあ俺が今抱えている問題はどうなるんだよ。それもきれいさっぱり消えてくれると言うのか」
「ええそうよ、あなたに関連するもの全てがこの世から消え去り、初めからいなかったことになる。この嘘みたいな話が本当なら乗る気ある?」
里香はポケットから篠月の名刺を取り出した。それを指ではじき、覗き込むよう見つめた。
「馬鹿馬鹿しい」
男は少し俯きながら、早歩きで非常階段に向かった。里香は男が傍らを通り過ぎる瞬間、名刺を顔の前に差し出した。
男は里香を睨みつけながら立ち止まり、目の前にある名刺をひったくるとポケットに押し込んだ。
「人はなぁ。良くも悪くも、生まれた時から他人に干渉しちまう生き物なんだよ」
男はそう吐き捨てると、扉を開け、早々に階段を駆け下りていった。
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