第3話 ウラオモテ

 戸棚から小瓶を取り出し、インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れる。食器棚の上に置かれたポットで湯を注ぐと、同じ作業をもう一度繰り返す。

 二つのマグカップを小さな盆に乗せ、田宮の待つ部屋へと足を進める。中途半端に開いた扉から光が漏れている。篠月はそれを膝で押し開け、部屋に入った。

 部屋に来た時は実に落ち着いていた田宮の様子が少し変だった。やたら事務所の内装を見渡し、きょろきょろしている。あたかも誘拐犯に連れ去れた子供のように。


「お待たせ」


 そう言って、向かいのソファに腰を掛けると、田宮は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした。


「あのー」


 心なしか口調も違うような気がする。表情もずっと和らかく、目も砕けていた。


「これが君のコーヒーだ」


 盆から取り上げ、田宮の前に差し出す。湯気が揺れ、インスタントながら焙煎された芳醇な香りが漂った。


「すみません、もしかして里香のお友達ですか」


 その一言で呆気にとられた。この女はまるでいままでの記憶が欠落している。というよりはまるで人が変わっている。マグカップを持ったまま、呆然としている篠月に対して、田宮は勢いよく立ち上がり頭を下げた。


「本当にすみません。いまの私は里香じゃないんです。いったいどんな経緯でここに居るのか分からなくて、でもあの子も隠していたわけじゃないと思うんです」


「もしかして、君は……」


「はい、その……私たち同じ見た目ですが、人格が二つあるんです」


 篠月はコーヒーを置いた。


「二重人格というやつか」


「ええ、そうなんです。私たち昔からそうで、いつ人格が入れ替わるのか自分たちじゃ操作できないんです。だから昔から友達とか作りにくいし、それに恋愛とかも……」


 田宮は少し紅潮していた。その苦悩は篠月には分からない。だが話を聞いた限り、だいたいの想像は付く。


「そうか。それは災難だな」


 篠月はソファにもたれ掛かり、胸のポケットから名刺を取り出した。


「私はまぁ、カウンセラーのような者だ。実は里香さんに相談を受けていたんだよ」


「この人格のことでしょうか」


 篠月は少し、考えてから慎重に答えた。


「いや、そうじゃない。初回無料キャンペーンのようものだ。たまたま声をかけて、たまたまカウンセラーを受けたに過ぎない。正直なところ、里香さんから何一つ聞かされていないよ」


「そう、なんですね」


 田宮は早とちりした自分を諫めるように、顔を俯かせた。


「この名刺を入れ替わった時に分かるような場所に置いておいてくれ。君自身も辛い時はいつでもここに来て構わないよ」


「ありがとうございます。なんかすみません」


「そんなに謝るものではない。少なくとも私は迷惑だと思ってないから」


 田宮は深々と頭を下げた。


「外まで送っていくよ。そこの名刺に住所も書いてあるけど、外を出て左にずっと真っすぐ歩いて行けば駅にたどり着くよ」


 篠月も立ち上がり、田宮を事務所の外へと案内した。

 今日のところはここまでだ。この時、田宮の言った不思議な質問の理由がやっと見つかった。なぜ存在を消すのに肉体を残す必要があるのか。そしてなぜ田宮里香が存在の消滅を志願しているのか。

 事務所に戻った篠月は冷めかけたコーヒーに口を付け、足を組んで蛍光灯を見上げた。


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