第2話 ウラオモテ

 大股で男に近づく、雨でぬかるんだ地面を踏みしめ、泥が裾まで跳ね上がる。それでもお構いなしに靴を汚し、男の正面に堂々と立ちふさがった。


「興味がおありかな」


「そんなバカな話あるわけない」


「とも言い切れないだろ」


 男は眉を上げた。初めて見せる表情のうつろきだ。


「君と私は以前、一度会っている。君には実は妹が居て、その者はこの契約書にサインし、この世から消え去った。昔、君は妹とよく遊んでいたがそんな記憶も無ければ、私と会ったのもこれが初めてだと思っている」


「まさか……」


 田宮は怖気づいた。腰が引け、気持ち悪い感覚が全身を駆けた。


「というのは嘘だ」


「あんたっ――」


「でも少し信じただろ。もしかしたら居たかもしれない。会っていたかもしれない。いま私はそのことを嘘と言ったが、それも嘘かもしれない。人の存在は戸籍などの目に見える書類と、他人の記憶でしか存在していない。それが消えれば人はこの世に存在しなかったことになる」


 雨に濡れた契約書がひらめいた。


「あんたの言っていることは信じられないわ」


「でも、もしそれが真実なら」


 田宮は太腿に置いていた拳を強く握った。雨が混じった手の汗が絞り出される。


「それって、あたしだけを消すことって可能なの? 文字通りあたしの精神だけ、肉体は残した状態で」


 男は不思議そうな表情をした。目を細め、唸りながら言う。


「この契約書は書いた者だけの存在を消す。ただそれだけだ」


「分かったわ……」


 田宮は男に背を向けた。その背中は先ほどまでの堂々としたものではなかった。不安に覆われ、小さく見えた。だが心に巻き付いていた鎧が砕けたような、そんなものから解放されたような背中に思えた。


「話は事務所で聞こう。申し遅れたが、私のことは篠月しのつきと呼んでくれ」


 篠月はそう言って、田宮の背中を傘で覆った。額を打ち付ける雨が消え去った田宮は振り返られず、自分の名前を言う。


「田宮里香よ」


「田宮君、短い時間かもしれないがよろしく頼むよ」


 なぜ存在を消して欲しいのか。いったどんな理由で自殺を考えているのか、篠月は聞かない。ただ人の存在を消すために契約書にサイン求めるだけだ。

 ビニール傘を受け取った田宮は篠月の後を黙ってついていった。向かった先の事務所は公園からさほど離れていなかった。

 事務所というよりは一軒家。それも見上げるほど大きく、コンクリートで作られた堅牢な建物だった。どこが玄関なのか初めて見た時は分からない。そんな独特な造りの家屋である。

 だが中に入ると、ロビーがあり、まるで病院のようだ。傘を笠置に入れ、土足のまま中へと足を進める。

 すると廊下の突き当りに重たそうな扉があり、その部屋に通された。

 内装はシックでおしゃれな照明や革製のソファがあった。


「濡れたままでいいからそこに座っていてくれ。私はコーヒーを入れてくるから」


 篠月はそう言い残すと隣接された奥の部屋へと入っていった。

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